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【213不思議】Digestif

 煙と宴の立ち込める焼肉店。

「それでっすよ。石神の奴『楠岡先生は私と同じ赤点常習犯だと思ってました』なんて本気で言ってくるんすよ。そりゃ俺だって苦手教科の一つや二つはあったけど、仮にもこうして教師やってんだし、あいつほど毎回赤点取る程悪い頭の出来してないっすよ。ほんとあいつ頭悪ぃんだから」

 遠くのサラリーマン達の喧騒の隙間で、楠岡がジンジャーエール片手にエピソードトークを語る。

 楠岡は口で毒を吐きながらも、その表情は崩れていた。

 はす向かいに座る馬場も、「あはは」と穏やかに笑みを浮かべながら烏龍茶を呷る。

 その馬場の心境は、

 ――全然楽しめない――!

 笑みとは裏腹に、荒波が立っていた。

 ――どうしよう! あまりに緊張し過ぎて全然楽しめない! お肉も全然食べられる気がしない! 折角の楠岡先生との食事なのに、こんなんじゃ成功だなんて言えないよ!

 よく見ると、両手で掴んだ烏龍茶入りのグラスは小刻みに震えていた。

 取り皿に盛られた焼き上がりの肉達も、一向に手が付けられる様子はない。

 かと言って話に花が咲いているかといえば、先程から口を開いているのは楠岡ばかりだった。

 馬場の行動は、愛想笑いと烏龍茶を一口の無限ループ。

 そんな状態の繰り返しでは、胃も心も満たされなかった。

 馬場の葛藤は届いているのか、そんな二人を監視する後方のボックス席。

「なんの話してるか全然聞こえないけど、大丈夫かなぁ?」

 まさか自分の悪口が話題に上がっているとも知らずに、千尋がテーブルに背を向けながら心配する。

 音の聞こえない二人を客観視すれば、それなりの盛況には見える。

 しかし千尋の杞憂は、杞憂通りだった。

「肉冷めるぞ」

 隣の席で博士は、焼き上がった肉を炊き立て白米の上にバウンドさせてから口にする。

 グルメ番組の様なカットにも、千尋は「美味しそう」とはならなかった。

「アンタねぇ、ちょっとは心配にならないの!? 今先生達の大事なデートの最中なんだよ!?」

 先生の恋を見守ろうとは思わないのかと、千尋は激昂する。

 対する博士は少し口の中に入れ過ぎた肉を、苦しそうに呑み込んだ。

「だから、俺らが心配する事なんざねぇって言ってんだろ」

 その言葉の繰り返しに、千尋の苛立ちは募る。

「でも!」

「良いか。あの人達は大人だ」

 千尋の声も遮って、博士は自分の論理を並べていった。

「子供の俺達なんかよりも、色恋も、挫折も、色んなもん味わって生きてきてる筈なんだ。そんな大人達に俺達が、ましてや教師が生徒に心配されるような事なんてねぇんだよ。そもそも俺達が心配したところでなんになるんだ。先生達の悩みが解決される訳でもあるめぇし。子供は子供らしく、バカみたいに飯食ってればいいんだよ」

 そう言って、博士は再度肉を口に運ぶ。

 博士の論理が正しいかどうかは分からなかったが、それでも千尋の不安は拭えなかった。

「……まぁ、もしなんかあったら、またウザいくらいどうすれば良いか一緒に考えてやりゃあいいんじゃねぇか?」

 その一言は、今までのどんな理屈よりも納得できた。

「……うん、そうだね」

 千尋は暗色になっていた顔色を明るく染めて、顔を正面に向き直す。

「よぉし! 私もいっぱい焼肉食べるぞぉ!」

 千尋の前に置かれた取り皿は、綺麗な空になっていた。

「て無ぁい!」

 突如襲ってきた空腹任せに千尋が叫ぶと、はす向かいに座る犯人に目星を付けて取り調べを行う。

「おぉい! 乃良ぁ! アンタ私の肉食ったでしょ!」

「だって冷めちゃう前に食べなきゃと思って」

「アンタ猫舌でしょ!」

「ハカセ、歯にとうもろこし挟まった。取って」

「嫌だわ。自分で取れ」

 心配の消滅したボックス席は、どの宴会にも負けない程の盛況を見せていった。

 オカ研部員の座る席も楠岡の視界に収まっている筈だったが、楠岡がそれに気付く事は一切無かった。

「そしたら今度は加藤が『先生は学生時代リーゼントで、制服の裏地に刺繍とかしてると思ってた』とか言って、お前ら俺の学生時代のイメージどんなんだって」

 楠岡は話をしながら、馬場の様子を窺う。

 馬場は変わらず微笑みながら相槌を打つばかりで、自ら口を開こうとはしない。

 取り皿に残る肉の残骸にも、箸は伸びそうになかった。

 網の下に眠る炭達も、余命僅かだと言うようにプスプスと音を上げる。

「……そろそろお会計にしますか」

 楠岡は人気のテールスープも残して、そう別れの合図を切り出した。


●○●○●○●


 目に毒なくらい眩しい夜の街。

 街はまだ眠りそうになかったが、明日も早い聖職者達には丁度良い時間だった。

「すみません、ご馳走になってしまって」

「いえいえ、ここは奢らせてくださいよ」

 コインパーキングまでの帰り道、馬場は楠岡より数歩下がって一緒に歩く。

 同僚に、しかも年下に奢らせる訳にはいかないと財布を開いた馬場だったが、楠岡の一歩も退かない頑固さがそれを許してくれなかった。

 夜の光が二人の影を浮き彫りにする。

 その光は、今の馬場にとっては眩し過ぎた。

 ――あぁ、終わっちゃう。折角の楠岡先生との食事が。

 昨日まではあんなにも興奮していたのに、今となっては侘しさが残るばかりだ。

 ――私、なんにも出来なかったなぁ。楠岡先生にアピールする事も出来なかったし、楽しくお話する事さえ出来なかった。

 ふと前を歩く楠岡に目を向ける。

 楠岡の背中は、女の背中とは違う逞しさがあった。

 この背中に「帰りたくない」と言えたなら、どれだけ良かっただろうか。

 ――楠岡先生にも、申し訳ない事したなぁ。

 そう今日の食事を反省していた時、

「……今日はすみませんでした」

 突然楠岡からそう話を切り出され、馬場は思わず目を見開かせる。

「えっ?」

 馬場の頭は、まだ整理が追いついていなかった。

「今日、あまり楽しくなかったですよね?」

「!」

「すみません、なんかそんな感じがしたので」

 どうやら馬場の心中など、簡単に見透かされていたようだ。

 馬場は途端に恥ずかしくなり、それと同時に先刻を凌駕する申し訳なさに苛まれた。

「誘ってくれたのは有り難かったですけど、共通の話題とかがある訳でも無いし、俺なんかと飯食ったって、楽しくなくって当然ですよ」

 瞬間、馬場の眼鏡の奥の瞳が開く。

「だから、馬場先生は別に気にしなくて」

「違う!」

 突然声を荒げた馬場に、楠岡は体を振り返らせる。

「楠岡先生とお食事して、楽しくない訳ないじゃないですか……!」

 心の中に眠っていた本音が、堰を切ったように暴れ出す。

「ただ、今日はちょっと、緊張して上手く楽しめなかったけど、でも私は、今日をずっと楽しみにしてて! 楠岡先生とどんな話しようとか、どんな服着てこうとかずっと考えてて! 楽しみ過ぎて普段つけない香水なんてつけたりして!」

 馬場はまるで女子小学生の様に素直に叫ぶ。

 ここまでいつものイメージと逸脱した馬場を見るのは初めてだった。


「だから……、楠岡先生と、憧れの人とお食事して、楽しくない訳ないじゃないですか!」


 馬場の本音が、夜の街にこだまする。

 夜の街というのは白状なもので、ここまで熱烈に叫んだ馬場の事も、人々は知らない顔で素通りしていく。

 馬場を見つめるのは、眼前の楠岡だけだった。

 夜風が馬場の頭を冷やし、ようやく馬場は正気を取り戻す。

 数秒前、感情任せに口走ってしまった言葉に、馬場の顔は一気に紅潮した。

「いっ、いやっ、そのっ、憧れの人っていうのは決して深い意味じゃなく」

「俺もっすよ」

「えっ?」

 不意に口を開いた楠岡に、馬場は声が漏れる。

「どんな時も生徒の事を第一に考えていて、なにか分からないとこで悩んでいる生徒の事を真っ先に助けに行く」

 そう、ずっと見ていたのだ。

 馬場が楠岡の事を目で追っていたように。

 楠岡も馬場の事を、陰ながら見つめていたのだ。


「馬場先生は、この学校に赴任してきてから、ずっと俺の憧れの先生です」


 そう笑いかける楠岡に、馬場は目を奪われる。

 ずっと夢見心地が続いてきた今日だったが、ここまで幸せな夢があるだろうか。

 今ここでこの物語が夢オチで完結したとしても、それで良いと思える程の僥倖だった。

「……って、正面切って言うと恥ずかしいですね」

 楠岡は薄ら頬を朱色に染めて、馬場から顔を逸らす。

 そんな楠岡に、馬場の脳内はショートしていた。

「くっ、楠岡っ、先せっ、のっ、あっ、憧れっ」

 壊れたロボットの様に、馬場は途切れ途切れに現実を確かめようとする。

 楠岡は『憧れの人』ではなく、『憧れの先生』と言った。

 馬場の持っている憧れと、楠岡の持っている憧れでは、差違があるという事は十分分かっている。

 分かってはいるが、それでも馬場を有頂天にするにも十分だった。

「……また行きましょうね」

 渾沌を彷徨っていた馬場の目が、楠岡の輪郭を捉える。

「二人で食事。今度は、目一杯楽しめるように」

 そう犬の様に笑う楠岡に、馬場は再確認した。

 あぁやはり、私はこの人が好きなんだと。

「……はい」

 馬場の頷きを確かめると、楠岡は止まっていた足を前に動かし始める。

「それじゃあ俺、こっちのパーキングに止めたんで」

 左を指差す楠岡とは別に、馬場はこのまま真っ直ぐのところにあるパーキングに車を止めていた。

 楠岡とはここで解散という事になる。

「また明日」

「はい、また明日」

 軽く手を振って、楠岡は夜の街角に姿を晦ましてしまった。

 馬場は静かに息を吐いて、辺りを見回してみる。

 今の自分の視界では、数分前に自分がいた世界とは、まるで別世界の様に見えていた。

 ――……あぁ、楽しかった!

 終わりよければ全て良しだと、馬場は心晴れやかに夜の街を闊歩する。

 今日の僥倖で一週間は乗り切れると、馬場の三十年物のエンジンに一気に火が付いた瞬間だった。

終わりよければ全て良し!

ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!


これにて先生デート編、もといこれまでの全ての先生回の完結となります!

いや待てと。先生達の恋はまだ終わってないじゃないかと。

はい、先生達の恋はまだ完結しておりませんが、これにて先生回は幕引きという形を取らせていただきます。


前回にも記した通り、先生達の恋路は生徒達の恋路とは違って、どんな路を辿るか全くの未定でした。

馬場の想いが実るのか、それとも玉砕するのか。

未定から始まった恋だからか、どちらの映像も僕には全く思い浮かばなかったのです。

それなら敢えて消化不良のまま終わらせて、あとは読者の皆様に想像してもらおうとそう思った訳です。

まぁこんな完結の形もあっていいのではないでしょうか。

勿論、生徒達の恋はちゃんと決まった形で完結するので、そこはご安心ください。


とにかく馬場先生お疲れ様!

次回からも出番あるので、よろしくお願いします!


それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!

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