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【212不思議】Aperitif

 看板のライトが眩しい夜の街。

 多くの店が立ち並ぶ繁華街には、仕事を終えたスーツ姿のサラリーマンが多く見られた。

 その真ん中を歩く一輪の華。

 服装は正装の中に華やかさを感じさせ、耳元には光沢のあるリングが飾られている。

 昨日買った新作のルージュが、彼女の魅力を最大限に押し上げていた。

 なにも彼女は、一人でこの繁華街に来た訳ではない。

 待ち合わせの相手である彼がこちらの来訪に気付くと、彼女を振り向かせるように大きく手を挙げた。

「馬場先生ー! こっちですー!」

 しかし、彼が手を挙げる必要は無かった。

 何故なら彼女は、元々彼にしか振り向いていないのだから。

「すみません、遅くなりました」

 馬場は楠岡のもとまで歩み寄ると、髪を耳にかけながら頭を下げる。

 無論楠岡は、そんな小さな問題など気にしていなかった。

「いえいえ、どうって事ないですよ」

 楠岡は馬場の下がった頭を爽やかに上げさせる。

「……それじゃ、行きますか」

 そう言って、楠岡は目の前の店に吸い込まれていった。

 馬場は楠岡の入った店に目を向ける。

 橙色の提灯に筆で書かれた『肉』の文字。

 扉から溢れ出てくる煙の香り。

 自分の五感が指し示す通り、そこは間違いなく人と肉が密集する焼肉専門店だった。

 ――……よし!

 馬場は覚悟を決め、楠岡の後に続いて入っていく。

 馬場にとってここは、焼肉専門店である以前に一つの戦場だった。


●○●○●○●


 中に入ると、漏れ出ていた煙の香りが一段と濃くなった。

 店内には馬場達の他にも団体の客が集まっており、一日の疲れをアルコールで騙している真っ最中のようだ。

 喧騒な宴の隅で、二人は向かい合わせのボックス席に座る。

 目の前に楠岡。

 それだけで、馬場の心臓は早くも高鳴っていた。

 ――来た! とうとう来た! 楠岡先生と焼肉!

 馬場にとって、今夜は待望の時なのだ。

 随分と前から約束された、楠岡との焼肉。

 そこから夏休み、文化祭とお互い多忙の日々を抜け、本日ようやくその約束を果たす時が訪れたのだ。

 ――最初に約束した日から随分時間は経っちゃったけど、今こうして楠岡先生と二人っきりで食事に! なんだかもう夢みたい! あれ? もしかしてこれって夢?

 なんて馬鹿らしい事を考えてみたが、どう足掻いてもこれは現実。

 目の前でメニューを開く楠岡は、疑う事無く本物だった。

 ――ダメだ! 緊張と興奮で体が全然動かない! これじゃまともに話せる気がしないわ!

「馬場先生はなに飲みますか?」

「はいっ!」

 訪れた最初の試練に、馬場の声はいきなり裏返る。

 そんな馬場に、楠岡は気にする事なく優しく笑いかけた。

「と言っても、俺達二人共これから運転あるんで、お酒は飲めませんけどね」

 その笑顔に、馬場の心は溶かされる。

 先程まであれだけ騒いでいた鼓動も、すっかり宥められたようだ。

「……じゃあ私、烏龍茶で」

「分かりました」

 楠岡は馬場のオーダーを聞くと、「すみませーん!」と遠くの従業員に声をかけた。

「烏龍茶とジンジャーエールを一つ」

 駆けつけた従業員に先にドリンクだけ注文すると、楠岡は再びメニューに目を落とす。

 「ここはテールスープが美味いんすよね」と、既にこの食事を楽しもうと前傾姿勢のようだ。

 その些細な仕草でさえ、馬場の心は魅了されていた。

 ――……大丈夫。折角こうして二人っきりで食事できるんだもの。今日は目一杯楽しみましょ!

 後ろ向きになっていた自分を、馬場はそう自分で鼓舞する。

 また馬場は、それとは別にもう一つ自分を奮い立たせる秘策を持ち合わせていた。

 ――それに、今日はあのオカ研の人達がいないんだもの! こうして楠岡先生と食事できるのはあの人達のおかげだけど、あの人達がいると絶対ろくな目に合わないからね……。

 過去の経験則から言えば、なにかトラブルを起こされるのは必然だった。

 ――あの人達にはこのお店の場所はおろか、日付だって言っていない! だからあの人達が今日ここに来る可能性は、万に一つも無い!

 そう、その筈だった。

 ――今日はあの人達の為にも、絶対にこの食事を成功させないと……!

 そう意気込む馬場の後方のボックス席。

 見慣れた制服に袖を通す男女四人組の団体客。

「イッヒッヒ、良い感じじゃーん!」

「そうか?」

「おい花子! お前何食べる!?」

「とうもろこし」

 噂のオカルト研究部のあの人達が、この大事な一大イベントを逃す筈が無かった。


●○●○●○●


 遡る事数日前。

「馬場先生ー!」

 SHRの後に廊下で声をかけられた馬場は、くるりと振り返る。

 声をかけてきたのは千尋で、隣には花子、後ろには博士と乃良とオカ研部員が揃い踏みだった。

「楠岡先生との焼肉デートの日、決まった?」

「!」

 瞬間、馬場の顔がボイラーの様に沸騰する。

「教えません!」

「えぇー!」

 馬場の拒絶に、千尋は全身で落胆を表現した。

「なんでですか!」

「なんでって、貴女達それ教えたら絶対乗り込んでくるでしょ!」

「それの何がいけないんですか!」

「なんで良いと思ってるのよ!」

 千尋の理不尽極まりない暴論により、馬場との論争は平行線となった。

 それを後ろで聞いていた乃良は、とある穴に気付いていた。

「教えないって事は、日取り自体は決まったんすね」

「!」

 どうやら図星だったようで、馬場の顔に『図星』の二文字が映し出される。

 それでも口を割りそうにない馬場に、千尋は別の角度で切り込んでいく事にした。

「じゃあどこの焼肉屋行くんですか!」

「それも教えません!」

「えぇー!?」

 今回の馬場は、余程千尋達を警戒しているようだ。

「場所ぐらい良いじゃないですか!」

「いいえ! 今回は貴女達が乗り込んできそうな可能性を一切削除するって決めたんです! だから場所も教えません!」

「そんなー!」

 正に鉄壁の防御で、千尋は最早為す術を失くしていた。

 背中を丸くする千尋に代わって、今度は隣の花子が口を開く。

「美味しいの?」

 花子の率直な疑問に、馬場も素直に答えた。

「それが私も行った事のない店なのよね。楠岡先生のオススメのお店らしいんだけど。楠岡先生曰く、そこはテールスープが美味しいとかなんとか」

 そこまで口にして、ようやく馬場は自覚した。

 楠岡との日程を合わせていた連絡の履歴を思い出して、ついベラベラと余計な事を滑らしてしまったと。

「テールスープの美味い焼肉店、と……」

「多分仕事帰りだろうし、そんな遠くの店じゃねぇだろ」

 早速スマートフォンで検索をかける生徒達に、馬場は誤魔化すように咳払いをする。

「とっ、とにかく! 日付も場所も教えませんから! 貴女達絶対来るんじゃありませんよ!」

 その忠告が彼らに届いていたかどうかは、現状を見れば明白だった。


●○●○●○●


「全くぅ、ダメだよぉ。あそこまで知っちゃったら、今時インターネットで一発なんだから」

「日にちも、先生今日やけに洒落込んでたから丸分かりだったしな」

 馬場と楠岡の席を観察しながら、千尋と博士が対話する。

 実際今日の馬場のコーディネートは普段と二味も違う華やかさで、事情を知らない生徒達でさえ、今日が馬場にとって特別な一日である事は知れ渡っていた。

「はぁ、とうとう馬場先生が楠岡先生とデートをするまで漕ぎつけるなんて……」

 千尋の目は、夢でも見ている様に蕩けていた。

 そんな千尋を、博士は眼鏡越しに見つめる。

「……別にここまで来る程の事じゃなくねぇか?」

「はぁ!?」

 隣で悠長な事を宣う博士に、千尋の声が荒れる。

「何言ってんの!? ハカセは馬場先生の恋路なんてどうでも良いって言うの!?」

「どうでも良い」

「先生達の事心配じゃないの!?」

 千尋の感情を乗せた発言が、博士の胸に引っかかる。

「あのな、先生達は大人だ。俺達みてぇな子供が心配するような事なんざ一つもねぇんだよ」

 博士の言葉に、千尋の喉が詰まる。

 確かに博士の言っている事は、間違いないのかもしれない。

「……でも」

「……黙って見てれば分かるよ」

 博士はそう言って、千尋の視線を馬場達の座る席に向けさせる。

 ふと自分の目を正面に戻すと、いつの間にか従業員が自分達の席に訪れていた。

「すみません! イカ二人前に帆立二人前、それと海老を四尾!」

「とうもろこし」

「お前ら肉頼めよ」

 焼肉店で肉を注文しない向かいの席の乃良と花子に、それでも従業員は営業スマイルを崩さなかった。

 千尋の目は、馬場達の席から離れない。

 その瞳には、確かに心配の色が残っていた。


 馬場と楠岡の席では注文を終え、頼んだ肉やサラダなどが席を埋め尽くしていた。

 犇めく生肉達を前に、馬場は決意を胸に刻む。

 ――よし! ここはまず、率先して肉を焼いて出来る女アピール! そこから少しずつポイントを稼いで、少しでも良いと思ってもらえるように頑張るわよ!

 馬場は早速肉を網に敷こうと、用意されたトングに手を伸ばす。


 しかしそのトングは、馬場より先に楠岡の手中に収まった。


 楠岡はそのままトングで生肉を掴むと、直下で炭が燃え滾る網の上へと敷き詰める。

 ジューッと油の溶ける音と共に、白い煙が網の下から溢れ出した。

 湧き上がる煙は、馬場の眼鏡を途端に曇らせる。

 楠岡は次に別のトングでサラダを取り分け、「飲み物おかわりいりますか?」と少なくなっていた馬場の烏龍茶を注文した。

 それは付け入る隙のない、完璧な焼肉奉行だった。

 ――全部やられた!

 先手を取られた馬場は、力失くして頭を抱える。

 ――やられた! 私がやろうとした事全部やられた! なに!? なんでそんな気が遣えるの!? 普通それは女の仕事でしょ!? それをなんで男の楠岡先生が……もう好き!

 結果楠岡に好意を向けさせるどころか、こちらの好意が更に募ってしまった。

 焼き上がった肉を馬場に差し出したところで、楠岡が異変に気付く。

「どうしました?」

「!」

 楠岡に感付かれる訳にはいかないと、馬場は遠回しに思いを伝える。

「いやっ、えっと……、楠岡先生って気が利くんですね」

 馬場の言葉に、楠岡はテーブルに目を落として事態を察した。

「あぁ、俺親父の教えで、こういうのは女にやらせるんじゃなく男がやれって厳しくされてきたんです。だからこうやって、無意識にやっちゃうんですよね」

 どこか照れたように笑う楠岡。

 その笑顔が、更に馬場の心を窮地に追いやった。

 ――素敵なお父様! でも今だけ! 今だけはその教えいらなかった!

 まだ見ぬ楠岡の父親に、馬場は身勝手に恨む。

「なにか苦手なものありましたか?」

「いや全然! 有り難くいただきます!」

 馬場は楠岡が差し出した皿を受け取ると、乗せられた肉を自棄になって掻き込んだ。

 喉に詰まりそうになった肉を、楠岡が再注文してくれた烏龍茶で流し込む。

 見事な食いっぷりに、楠岡は馬場の心中とは裏腹に感動さえしているようだった。

 そんな席の後方。

「……本当に大丈夫?」

「………」

 心配が募る千尋の声に、博士はノーコメントを貫いた。

 向かいの席に至っては、届いた海産物や野菜達によるヘルシーなBBQの火蓋が切って落とされていた。

煙立ち込める大人の焼肉デート!

ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!


今回! ようやく! 随分前に約束したきりだった先生達のデートを書く事となりました!

先生デート回は今回と次回の二部構成となっているのですが、基本この作品では二部以上の回は連載当初から内容まではまだしも書く事自体は決定していました。

しかし、この先生デート回は全く予定にありませでした。


生徒達の恋や友情がどういう展開になっていくのか決まっている中、先生達の終着点は何一つ決めてなかったんですね。

そして、この回を書くきっかけとなったのが前回の先生回。

あそこで先生二人がデートに行く事になって、「あぁ、ここで先生達の話に一つの区切りが付くんだな」と自分でも他人事の様に感じていました。


という事で、次回の先生デート回後編で、今までの先生回全ての話に一つの決着がつきます。

二人は一体どんなデートを過ごすのか?

次回の先生回をどうぞお楽しみください!


ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!

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