【183不思議】恋に落ちたら
時間は少しずつ回っていき、校舎には生徒の数が着々と増えていった。
二年A組の教室からも、朝のSHRを待つ生徒達の楽しそうな談笑が溢れてくる。
「それでね! ガッシャーンッ!てなったから、ガサガサッ!てして、バサバサーッ!てなったの! そしたらトントンってなって、もうピカピカ―ッて! ビュービューッ!のゴゴゴゴッ!だったから、ガタンゴトンのバッチコーイッ!でって聞いてる!?」
教室で奇妙な擬音を発していた千尋は、ふと我に返る。
その場の観客席に、千尋の話に興味を持っている人など誰一人いなかったのだ。
観客の一人の乃良が、千尋に顔を向ける。
「聞いてないけど」
「聞いてよ!」
「だって何言ってるか全然分かんないんだもん」
確かに千尋の物語るストーリーは、些か難解だった。
それでも千尋は、頬を膨らませて不服だと文句を言うばかり。
「もう! これから面白くなるんだから!」
「ハイハイ、聞いといてやるよ」
乃良はそう言いながらも、興味は手の内にあるスマートフォンに移っていた。
しかし千尋はそれで良いのか、ご機嫌のまま話の続きを語る。
「そこで女の人がね! 『何があっても、この部屋を決して覗かないでください』って!」
「ちょっと待ってそれ鶴の恩返し!?」
聞き覚えのある台詞に、思わず乃良は耳を疑った。
千尋はそのまま鶴の恩返しを読もうとしたが、その口は閉じる。
もう一人の観客が、こちらの話も聞かずに別の方向へと目を向けて離さなかったからだ。
「花子ちゃん?」
声をかけてみても、花子は振り返らない。
千尋は気になって、花子の視線の先を見る。
「……あれ?」
瞳に映ったのは、席に一人座る博士だ。
「ハカセどうしたんだろ? いつもだったら、『五月蠅い』って言ってこっちに水差しにくるか、一人で気取って勉強してるのに」
「嫌な言い方だな」
言い方はともかく、千尋の言っている事は正しかった。
この時間はこちらと一緒になって無駄話をするか、それ以外は自分の席で勉強しているかの二択だ。
しかし博士の机に、参考書が広がっている様子はない。
「悩み事でもあるのかな?」
千尋の目は、博士を心配している目だった。
そんな千尋に、乃良の口元は緩む。
「大丈夫だよ」
妙に言い切った乃良に、千尋の首は傾く。
「乃良、何か知ってるの?」
「まぁな」
乃良は目を博士に向けたまま、まるで博士に語りかけるように口にした。
「大丈夫。あいつは一人で乗り越えるよ。俺達の出る幕じゃねぇ」
「……それならいいんだけど」
乃良の言葉を信じて、三人は一斉に博士の背中を見守る。
三人の視線の中、花子の視線だけがより一層熱を帯びていた。
一方の博士は、
――ヤバい……!
視線に気付く余裕など、微塵も無かった。
――ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい! 相当ヤバい!
博士の顔は、西に沈む太陽の様に真っ赤。
心臓の音は、ロックバンドのライブハウスの様に速く五月蠅かった。
――なんだこれ!? なんでこんな顔熱いんだよ! ただ花子と同じ教室にいるだけじゃねぇか! 昨日もそうだったろ! なんでだ!? なんで花子の事が好きって自覚した瞬間こうなってんだ!?
学年主席の頭脳を誇る博士をもってしても、その謎は解けなかった。
それも当然、博士は今まで恋に落ちた事がない。
今湧き上がる全ての感情が、博士にとっては初体験だった。
正真正銘、これが博士の初恋である。
――とにかくこんな状態で花子と顔なんか合わせらんねぇ! 取り敢えず、花子と会うのは一旦落ち着いてから、
「ハカセ」
「!」
突然声が聞こえ、五月蠅かった博士の心臓が止まる。
こんな状態でも聞き間違える筈がない。
無論、花子の声だ。
花子は博士の席の前まで来て、博士の顔を確認する。
「……よぉ」
しかし博士の顔は、九十度右の方向に隠されていた。
「………」
明らかに不自然な博士に、花子も困惑する。
「……大丈夫?」
「ん? ……あぁ、大丈夫だ。なんの問題も無い」
どこからどう見ても、何か問題があるようにしか見えない。
「………」
ふと花子が博士の顔を覗こうとする。
それに合わせて、博士は更に顔を九十度回し、またしても博士の顔は花子の死角に隠れてしまった。
「………」
不意を突く様に、もう一度花子は博士の顔を覗こうと試みる。
しかし博士も最終手段だと、顔を机に伏してしまった。
同時に博士の額と机が鈍く衝突する音が響く。
「……ほんとに大丈夫?」
「だから大丈……いや、大丈夫じゃない。大丈夫じゃないからそっとしといてくれ」
「でも」
「ほら、もうすぐHR始まるぞ」
時間など確認できなかったが、恐らくもうすぐその時間だ。
花子はしばらく迷っていたようだが、さっと自分の席へと戻っていく。
気配が消えた事を感じて、博士は薄ら目を出した。
――くっ……、いつまでもこうしている訳にはいかない! 早く対策を考えないと……!
教室の扉が開き、馬場が入ってくる。
博士の読みは的中していたようだ。
――とにかく、放課後が来るまでには……!
と、SHRの報告を聞き流しながら、強く決心した博士だった。
●○●○●○●
そして、その日の放課後。
博士に対策が生まれたかどうかは、部室で教室と同じく項垂れる姿勢を見てもらえれば一目瞭然だ。
眼鏡の奥の目も、朝より生気を失っている。
どうやら朝からときめき過ぎて、今心臓が高鳴っているのかどうかさえ分からなくなっているようだった。
「……大丈夫ですか?」
衰弱した博士を、賢治は若干引いた目で見つめる。
「……あぁ、大丈夫だ」
「なら良いんですけど……」
その声は、死ぬ間際の老人の様になっていた。
賢治はそう言いながらも、未だ信じられないと博士を心配性な目で見守る。
博士を見守る目は他にもあった。
例えば畳スペースに集まっていた同級生組。
「……あれ本当に大丈夫なの!?」
博士に気付かれないような小声で、千尋はそう声を荒げる。
「んー……、思ったよりも深刻っぽいなー」
「ハカセ、大丈夫じゃないって言ってた」
「そらそうでしょ! 朝からずっとあんな感じなんだもん! 授業中もずっと上の空だし! あんなハカセみたいなゾンビ初めて見たよ!」
「それもうゾンビじゃん」
些細な誤りなど、今の千尋は気付かなかった。
「もう見てらんない! 私達でハカセを元気にさせよ!」
「うん」
「どうやって?」
意気込む千尋に、乃良が即刻質問を入れる。
「私に良い考えがある!」
千尋はニヤリと笑うと、より一層小さな声で乃良と花子に耳打ちする。
作戦を聞いた乃良の顔は、随分と呆れた顔だった。
「……本気?」
「当ったり前でしょ!? 日本古来、落ち込んだ人にはこれをするって決まってるんだから!」
千尋の目に淀みは無かった。
「あっそ。まぁ俺は別に良いんだけどさ。……それより」
乃良は面倒そうに後頭部を毟ると、慎重に千尋に尋ねる。
「それ、誰がするの?」
一同の間に静寂が流れた。
「……アンタでしょ」
「なんでだよ! 俺やんねぇよ!? 言い出しっぺなんだからちひろんがやれよ!」
「なんで私がやんなきゃいけないの! こういうのは基本男がするもんでしょ!」
「知るか! 俺だってやりたくねぇよ!」
「アンタ、ハカセの親友でしょ!? 親友なら親友の為に一肌ぐらい脱げよこの猫野郎!」
「ちょっとちひろん! 声デカい!」
気付けば耳を塞ぎたくなる程になっていた声量に、乃良は千尋を宥める。
しかし当の博士は、それも聞こえない程に病んでいた。
どれだけ話し合っても両者意見を曲げる気は無く、話は平行線だ。
そんな中、花子が口を開いた。
「……私、やる」
「「!?」」
花子の呟きに、二人は目を見開かせる。
「はっ、花子ちゃん!? 何も花子ちゃんがやらなくても……」
「そっ、そうだ! お前がやるのは色々と問題が……」
役職を押しつけ合っていた千尋と乃良だったが、ここは気持ちを一つに花子を説得する。
しかし花子は首を横に振った。
「ううん、私がやる」
無表情の瞳に宿ったその情熱は、メラメラと燃えていた。
「私が、ハカセを元気にさせたい」
その一途な気持ちに、千尋と乃良も止める事が出来なかった。
未だ机に蹲る博士の横。
「ハカセ」
そんな声が聞こえてくる。
この声一つだけでも、博士の体温は少しずつ上昇傾向にあった。
「……花子、言っただろ? そっとしといてくれって」
「ハカセ、こっち見て」
「……悪いけど、それは出来ない」
まだ花子と顔を合わせられる状態ではない。
「良いから」
「花子……、今お前がどう思ってんのか分かんねぇけど、俺は今お前と一緒にいられる状況じゃねぇんだ。だからもうちょっと待っ」
言葉の最中、博士の蹲っていた腕は引っ張られた。
博士の熱を帯びた顔は強制的に前に上がり、その眼鏡の奥に花子の顔が映る。
久方振りに見た花子の顔は――、
鼻の穴と下唇を割り箸で直結させた、愉快な顔となっていた。
「………」
思わず言葉を失う。
久方振りに見た想い人の顔が、何故か安来節を模していたのだ。
気付けば顔の熱もサーッと引いていく。
「……なにそれ」
訊かない訳にもいかず、博士は花子に尋ねる。
「ハカセが元気になるって、千尋に教えてもらったの」
畳に座る千尋は、悲惨な姿となった花子に目も当てられないと悶えている。
同じく乃良も、別の意味で見ていられなかった。
青ざめる博士とは対照的に、割り箸を挟む花子の顔は輝いていた。
「どう、元気になった?」
「なる訳あるか」
そう口を返した博士は、いつも通りの冷酷だった。
ようやく帰ってきた博士の調子に、花子はどこか満足のいった無表情で佇んでいる。
何はともあれ、博士が花子を無駄に意識する事はこれでなくなった。
ただしかし、この少女のどこに惹かれて恋に落ちたのかも分からなくなってしまった博士であった。
ハカセにときめきなんて似合いませんから。
ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!
今回は花子への想いに気付いたハカセの話でした!
この回も、前回の蛇足回も合わせたハカセ編と一緒に考えられていた話です。
恋に落ちたハカセですが、あまりハカセが恋に悶えるのは書きたくない。
なので、ハカセが通常運転でいけるきっかけが欲しかったんですね。
という事で、今回は花子に一肌脱いでもらった感じですww
自分の恋する相手が突然ドジョウ掬いの顔面で現れたら、そりゃときめくもんもときめきませんよねww
という事で、ハカセと花子の関係性はこれからも特に何かが変わる訳ではありません。
ただ、これまでと変わってないように見えて変わっているハカセの心の内を書けたらいいなと思っています!
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!