【180不思議】ハカセと花子
夜の星空は、まるで嘘みたいに美しかった。
雲一つない快晴に覆われた年に一度の夜に、街の住人は明かりのついた部屋から空を見上げている。
無数に散らばる星達に、皆心を奪われた。
そんな美しい星の下、がむしゃらに走る眼鏡の少年が一人。
博士の服は、もう既に汗ばんでいた。
慣れない全速力に息は乱れ、全身に余計な力が入っているのが分かる。
皆が心奪われる星空など、見る暇も無かった。
この夜更けに博士が街を駆ける理由は、先程博士のスマートフォンに入ってきた一本の電話だった。
●○●○●○●
「花子がいなくなった?」
自室で勉強中だった博士のもとに、電話越しで乃良から連絡が入る。
『あぁ。今日外で解散した後から誰も花子の事見てねぇんだよ。トイレとか、部室とか、学校中探し回ったんだけどどこにも見つかんねぇ。もしかしてお前んとこにいたりしねぇか? いないんだったら一緒に探して欲しい。俺も今から、ちひろんとか他の部員達に電話するから』
電話から聞こえる乃良の声は、いつものおどけた声ではない。
それが決して冗談ではないという、一番の証明だった。
博士は何も返答せず、ただスマートフォンを握りしめたまま、気付けば部屋を飛び出していた。
机に広がった参考書を、置き去りにしたまま。
●○●○●○●
それから博士は走り続けた。
家を飛び出してからノンストップで駆けてきたにも関わらず、不思議と疲れは感じていない。
否、感じる余裕も無いのだろう。
今の博士は、無駄な事は一切感じてなかった。
ただ宛てもなく走っている訳じゃない。
博士には目的地があった。
家を出て目的地まで、博士は真っ直ぐに走ってきたのだ。
ようやくその目的地が、博士の目の前に姿を現す。
博士は荒い息は吐き出しながら、馬の様に走らせていた足を更に速く走らせた。
博士の目指した目的地は、全員が毎日のように通っている場所。
そこは既に乃良や他の七不思議達が、隅から隅まで花子を探し終えた筈だ。
それでも、博士の目的地はそこで間違いなかった。
正門を塀で閉ざされた、真夜中の逢魔ヶ刻高校で――。
●○●○●○●
バンッ!と鉄製の扉が勢いよく開かれる。
扉の外の景色は、一面の星模様だった。
何一つ遮蔽物のないここから見る星空は、ベランダから見る星空とは比べ物にならない程の絶景だ。
星空を独り占めする為に、博士は息を荒らしてここに来た訳ではない。
扉の開いた音に肩を揺らした、彼に用があったのだ。
「……なんだ、博士君か」
逢魔は扉の傍で佇む博士を見て、どこか安堵したように息を漏らした。
屋上に汗臭くやってきた博士を、柔和な微笑みで出迎える。
「どうしたのこんな時間に? もう随分遅い時間でしょ? まぁ僕としては、君から僕に会いに来てくれるなんて、すっごく嬉しいけどね」
博士は黙ったまま、ゆっくりと逢魔に歩み寄る。
「あぁそういえば、君のアドバイス、役に立ったよ。一度下に下りてみたんだけどね。案の定道が分かんなくなっちゃって。博士君のアドバイスを思い出して、壁を上ってみたんだ。まぁ流石に上れなかったけど。でもロープとか色々使って、なんとか屋上に戻って」
言葉の最中、逢魔は喉を詰まらせる。
博士の右手が、逢魔の胸倉を掴んだからだ。
今にでも拳を振るってしまいそうな目で、博士は逢魔を睨む。
対する逢魔は、随分と平気そうだった。
「花子をどこにやった」
「……花子?」
喉の震える博士の問いに、逢魔ははてと首を傾げた。
「とぼけんじゃねぇよ。テメェは七番目の禍だ。多々羅先輩が無理して俺らと会わせなかったってのに、会ったと思ったらこの惨劇だ。テメェが花子をどこかへやったって考えんのが普通だろ」
博士の憤りが、掴む胸倉から伝わってくるようだ。
それでも逢魔には憤りが伝わってないのか、飄々と明後日の方を見ている。
「花子……、あぁそうか、今は花子って言うのか」
逢魔は思い出したと言わんばかりに口を開いた。
「うん、今日ちょっと会ってきたよ」
「!」
「ちょっとした退屈しのぎにね」
博士の予想は、ズバリ的中だった。
「やっぱり……」
博士は胸倉を掴んだまま、逢魔をもう一歩後ろへ追い詰める。
「花子をどこにやった!」
口から吐いた唾が、容赦なく逢魔に飛沫する。
一歩後ろへ追い詰められた逢魔の背後は、鉄格子など一切ない、コンクリートで作られた崖っぷちだった。
後ろを向けば、怖くて足が竦む。
しかし逢魔は不死身だからだろうか、一切顔色を変えなかった。
「さぁ、知らないよ。ちょっと話しただけだし。まぁ僕が話しかけたら、すぐどっかに行っちゃったんだけど」
飾り気のない、爽やかな笑顔。
その笑顔がいつも禍と称される理由を分からなくさせたが、今はその理由が十分過ぎる程分かる。
「テメェ……」
博士も、一歩間違えれば屋上の外へ投げ飛ばしそうだった。
「……でも、そっか」
「?」
口を零した逢魔に、博士は目を向ける。
「君にとって、彼女が大切なものなんだね」
「……はぁ?」
眩しいくらいに笑う逢魔に、博士は今日一番に顔を歪ませた。
「……何言ってんだよ」
目の前の人間は、何を言っているのだろう。
そもそもこれは、本当に自分と同じ人間なのだろうか。
「だってそうでしょ? こんな時間にこんなところまで彼女の為に来るなんて。それだけ君が、彼女を大切にしてるって事でしょ? それこそ、命より大切なくらい」
「ふざけた事言ってんじゃねぇよ!」
胸倉を掴む両手を、最大限に強める。
このままシャツを破いてしまいそうな、そんな勢いだった。
「大切かどうかなんて関係ねぇだろ! ただ俺は! あいつを見つけねぇと! だって俺は!」
そう言って、言葉が詰まった。
その後に続く言葉が、思いつかなかった。
「……それが、命より大切なもの、なんじゃないの?」
不意に掴んでいた博士の手が弱くなる。
その隙に、逢魔は博士の手からひらりと離れていった。
ぐしゃぐしゃになってしまったスーツを軽く整えて、博士の方へと振り返る。
博士は随分やつれてしまっているようだった。
「……申し訳ないけど、いつまでもここにいるべきじゃないんじゃないかな? ここにいたって僕も彼女の行方は知らないし。外に探しに行った方がいいと思うよ?」
逢魔は博士にそっと語りかける。
ただ勿論、博士が逢魔に感謝などする筈も無く、逢魔を鋭く睨んだ後、疲労した足に鞭を打って走り出した。
勢いで出て行ったせいで、閉めた筈の扉が微妙に開いている。
その後ろ姿を、逢魔は細い目で見送っていた。
「……大切なもの、か」
ふと目を夜空に向けてみる。
「いいなー、君には命より大切なものがあって」
満天の空に流れる天の川は、見る人の心を洗い流してくれる様だった。
夜風が逢魔の髪を靡く。
屋上から眺める景色は、本当に全て自分の手の中の様だ。
「僕には……」
快晴の夜空に、逢魔の視界が曇る。
逢魔は一度目を落とすと、もう一度夜空を眺めた。
「……あーあ、退屈だな」
何も変わっていない筈の夜景も、逢魔の目には何度も見返したアルバムの色褪せた写真の様に見えていた。
●○●○●○●
息が苦しい。
慣れていないにも関わらず、あまりにも走り過ぎて疲労がドッと押し寄せてきた。
一歩前に踏み出すのも一苦労。
ただそれでも、博士は前に進むのをやめなかった。
空は未だ夜の色。
先程まで天体観測に思いを馳せていた家族達も、気付けば明かりの灯っている家の数が少なくなってきた。
スマートフォンに花子が見つかったという連絡は来ていない。
まだどこかで、花子は一人彷徨っている筈だ。
否、もしかしたら一人じゃないかもしれない。
様々な妄想が、夜の空に膨らんでいく。
ただ今の博士の頭の中は、とある事でいっぱいいっぱいだった。
――……花子が、……俺の、
疲れ切った脳内では、断片的な言葉しか絞れない。
――……大切な、………。
限界が近いのか、走馬灯まで見えてきてしまっていた。
『……好きです。付き合って下さい』
花子と初めて出会った、一階の女子トイレ。
『やっぱり私は、ハカセの事が好きだと思うよ』
花子が風に髪を靡かせた、林間学校の広場。
『そんなハカセが、大好き』
花子が真鍋に勘違って宣戦布告した、一年B組の教室。
『……誕生日、おめでと』
花子にプレゼントを貰った、誕生日の帰り道。
『これならずっと、ハカセと手、繋いでられるね』
花子と手を繋いだ、二人きりのクリスマス。
『私はハカセが好き。ハカセが好きだから、私は幸せなの』
花子に隠れて聞いた、中庭の告白。
『ハカセ』
『ハカセ』
『ハカセ』
『ハカセ』
瞼に浮かぶ走馬灯のその全てで、花子はこちらを見つめていた。
――……畜生。
最後に思い浮かんだのは、つい先日の映像だ。
『まぁ、まだ気付いてないだけかもしれない。本当に大切なものってのは、案外すぐ傍にあるものだからね』
思い出すだけで憎い、逢魔の吐いた言葉。
ただそれが、決定打となった。
――俺は本当にバカだ。
荒い息は漏れ出て、奥歯を軋む程噛み締める。
――いなくなってから……、ようやく気付くなんて……!
ふと力尽きて、博士は膝をついた。
道端のアスファルトは表面が荒く、袖の長いズボンを履いていても、その痛みはひしひしと伝わってきた。
しかし、今の博士にそれは通じない。
それよりも、心が痛かった。
――……俺は、
――花子が……、好きだ……!
博士は空を仰いだ。
夜空は相も変わらず満天の星空で、眩しいくらいの天の川が街を照らしている。
しかし博士は、その景色を見れなかった。
見れない程の涙が、博士の目から溢れていた。
眼鏡も今は意味を為さない。
泣いている理由も分からない。
それでも博士は、生まれたての赤ん坊の様に、ただただ夜空に大泣きしていた。
どれぐらい経っただろうか。
ふと博士は立ち上がる。
右手で適当に涙を振り切ると、博士はまた歩き出した。
今の自分に、泣いて立ち止まる資格などない。
今自分に出来る事は、花子を見つける事。
ただそれだけだ。
博士は自分の残っている力を極限まで振り絞って、星空の照らす夜の街を歩いていく。
花子を見つける、ただそれだけの為に。
ようやく気付いたこの想い。
ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!
物語が始まって、花子がハカセに告白して約三年と半年、ようやくハカセが花子への気持ちに気付きました!
長いな本当!ww
ハカセ編をこの時期に書くのは決めていて、更にハカセ編でハカセが自分の気持ちに気付く事は決めていました。
ハカセが夜空に泣きながら、気持ちに気付くシーン。
そのシーンを書く為に、このハカセ編が始まったと言っても過言ではないかもしれません。
今までのマガオカも、この日に合わせて少しずつハカセの内情を書いていきました。
というと綿密な計画を立てていたというように聞こえますが、別にそこまで綿密に企てていた訳ではありませんww
ただ個人的にきっかけになったのはクリスマス編ですかね。
あの回を書いていた時に、「あっ、きっとここでハカセの中で小さな気持ちが芽生えて、それをハカセ編で気付くんだろう」と、そう思ったのです。
クリスマス編はそういう意味でも、マガオカにとって大切な回でした。
このハカセ編は、そのクリスマス編をも上回る程の大切な回になる事は歴然でしょう。
さて、ハカセ編の目玉は書けた訳ですが、まだハカセ編は終わりません。
次回、ハカセ編完結!
花子の行方はいかに……、お見逃しなく!
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!