【172不思議】ハカセの妬きもち
次の授業を間近に控えた小休憩。
二年A組の隅からは、並々ならぬ緊張感が滲んでいた。
「いいか……、行くぞ?」
椅子を行儀悪く反対向きに座った博士は、はす向かいに座る花子と目を合わせ、ごくりと固唾を飲む。
「水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム」
「スーモ、エイブル、ミニミニ、アパマンショップ」
「全然違ぇ!」
見当外れな花子に、博士は椅子ごと倒れる勢いで大暴れした。
「全然違ぇんだよ! なんだそれ! 物件探し大好きか! お前が次の化学の小テスト勉強したいって言うからこうして付き合ってやってんのに! やる気あんのかよ!」
博士の激昂にも、花子は無表情な鉄仮面だ。
しかし仮面の奥に見える瞳には、火傷する程の熱量が垣間見える。
その瞳に気付いてしまえば、博士も付き合うしかない。
「ったく……、いいか? ゆっくり一つずついくからな? 水素」
「スーモ」
「違う! 水素」
「水素」
「ヘリウム」
「ヘリウム」
「リチウム」
「リチウム」
「ベリリウム」
「アパマンショップ」
「なんでだよ! アパマンショップ一番無理あるだろ!」
予測不能な花子の思考回路に、博士はお手上げ状態だ。
そこに助け舟を出したのは千尋。
「原子記号って、よく歌にして覚えたよね!」
燦々とした笑顔で近寄った千尋に、博士は訝しげな視線を送る。
「お前、原子記号覚えてんのかよ」
「失礼な! 覚えてるに決まってんでしょ!?」
プライドが傷ついたのか、千尋は頬を膨らませて頭上から蒸気を沸かせた。
千尋は花子に歌を教えようと、一つ咳払いする。
「すいへーいりーぃべ、ぇぼーくーのーふーねぇー!」
「なんでウルトラソウルなんだよ!」
それは原子番号とは遠く離れた、ロックナンバーのサビのメロディだった。
「ななまーがーりぃーしーっぷすくぅらぁーぁくぅかっ! へぃ!」
「やかましいわ! 最後のへぃ紛らわしいだろ!」
博士は堪らず吐いた怒鳴り声は、教室中にこだました。
当の本人は本気でこの曲調で覚えていたようで、「違うの?」と不思議そうに首を傾げている。
何はともあれ、花子の頭には何も入っていなかった。
「ハカセ、もう一回」
「無理だよ! お前が原子番号なんざ覚えられる訳ないだろ! さっさと諦めて補習受けろ!」
「お願い」
「嫌だ!」
「まぁまぁハカセ、教えてやんなよ」
一際声の目立つその現場は、教室の注目の的だった。
同じオカ研部員である乃良は、その現場を傍から見て一人でケラケラ笑っている。
「ハッハッハッ! なにやってんだか」
そこに、そっと影が近付いた。
「よっ」
「おぉ、坂崎」
同じく二年A組の坂崎。
乃良とは一年の時も同じクラスで、休憩時間にくだらない与太話をするぐらいには打ち解けた仲だ。
坂崎の目は、じっと現場を見ている。
「……あの二人、仲良いよな」
「ん? あぁ、ハカセと花子か? まぁ良いんじゃねぇか? ハカセに訊いたら即行否定されそうだけど」
乃良は博士の否定を想像して、プッと息を漏らす。
しかし坂崎の興味は、もう一人の方にあった。
「……ねぇ」
「ん?」
「零野さんとハカセって、付き合ってんの?」
「……えっ?」
現場に釘付けだった視線を、乃良はようやく逸らす。
坂崎はどうやら冗談で訊いた訳では無さそうだ。
「いやっ、仲良さそうだから、もしかしたらそうなのかなーって」
乃良はもう一度現場に目を戻す。
未だ言い争う博士と花子は、確かに傍から見れば喧嘩も痴話喧嘩なカップルにも見えない気もしない。
事情を知る乃良には、ただの喧嘩にしか見えなかったが。
「別に付き合ってねぇよ」
「そうなの?」
「そっ、ただの部活仲間」
乃良の回答に、坂崎は「へー」と興味があるのか曖昧な相槌を打った。
ただ隠す事もないだろうと、乃良は赤裸々に二人を語る。
「まぁ花子はハカセの事好きだけどね」
「やっぱり?」
「あぁ、もう告白してるし」
「はぁ!?」
そこまでは予想外だったのか、坂崎は思わず声を上げて驚く。
「ハカセはキッパリ、フッちまったけどな。まぁ告白も随分前の話だし、今は気兼ねなく喧嘩も出来る友達ってとこかな? 花子が今どう思ってるかは知らないけど、少なくともハカセは花子とそれ以上になるつもりは無い筈だよ」
「………」
坂崎は乃良からのリーク情報に、しばし熟考する。
視線の先は花子。
感情の揺れは全くと言っていい程見えなかったが、どこか惹かれるものがそこにはあった。
「……そっか」
クイッと坂崎の口角が上がる。
「じゃあ、別にいっか」
「?」
隣で何か口ずさんだ坂崎の声は乃良の耳に届かず、チャイムの音が教室に響いた。
授業冒頭で行った原子番号の小テストに、見事花子は落第した。
●○●○●○●
時は流れ、校舎は放課後を迎えた。
教室から解き放たれた生徒達が犇めく廊下を、博士と乃良も部室を目指して歩いていく。
「あー! 今日も疲れたー!」
乃良は両腕を天井に伸ばし、曲がった背中を立て直す。
「さーて、今日は何して遊ぼっかなー!」
「俺にとってはこれからの方が疲れるんだけど」
「何言ってんだお前! あっ、そうだ! 今日はもずっち先輩の本のカバーこっそり逆さにしてやろーっと……」
名案を思いついた乃良だったが、その感心はすぐに別のものに移る。
それよりも気になる事が視界に入ったからだ。
「……ハカセ」
「ん?」
「あれ花子じゃね?」
「えっ?」
乃良に言われて、博士も目を凝らす。
中庭を映す窓を探していると、確かにおかっぱ頭の少女が壁に背を向け立っているのを確認できた。
「……本当だ」
間違いなく花子だ。
しかしそこにいるのは一人では無かった。
「隣にいるのって……」
見覚えのある人影に、博士は必死で頭を働かせる。
「……高見沢?」
「坂崎だよ」
クラスメイトの顔と名前を、博士はまだ一致できていなかった。
それよりも今の問題は、
「なんで花子とそいつが一緒に……?」
どれだけ頭を回してみても、一向にその組み合わせが示す答えは見つかりそうにない。
しばし無言で目を合わせる二人。
これからの行動など、口に出して確認するまでもなかった。
●○●○●○●
放課後の中庭は人が少なく、窓に映る影は二人きり。
「やぁ零野さん、突然のお誘いに来てくれてありがと」
「………」
坂崎の魅惑的な笑顔に対し、花子は無表情で坂崎と相対していた。
そんな二人を草陰からこっそりと見守る影があるとも知らずに。
「この感じ……、やっぱり……」
察する乃良の言葉を、博士が代打で答える。
「……密告?」
「お前の鈍感ってもう計算なのか疑うレベルだよな」
呆れる乃良に、博士は訳が分からないと首を傾げた。
草陰の不毛な言い合いに気付く事もなく、坂崎が早速本題へと入る。
「遠回しに言っても仕方ないし、単刀直入に言うけどさ。零野さん」
「君が好きだ」
「!?」
本人である花子よりも衝撃を覚えたのは、草陰に隠れた博士だ。
博士は自分の場所がバレないように注意しながら、溢れる衝撃のやり場をどうしようかと悩む。
「なっ! あっ、なっ! あいつなんて言った!?」
「落ち着けよ。お前が慌ててどうする」
一方の乃良は至って冷静だ。
「まさかあいつ、そういうつもりで訊いてきたとはな……。にしてもいきなり過ぎだろ」
今日の小休憩の事を思い出して、顔を歪める。
未だに驚愕する博士に、乃良は宥めるようにそっと口を開いた。
「まぁ、こういう奴が遅かれ早かれ出てくるとは思ってたよ。花子って第一印象は仏頂面で来る者寄せ付けないって感じだけど、話してみればそんな奴じゃないって事はすぐに分かるし、何より顔も可愛い。一年も一緒にいりゃあ、告白してくるチャレンジャーも出るとは思ってたけど……」
それでも博士の驚きは、そう簡単に消えそうになかった。
博士の心の整理など待つ筈もなく、坂崎は花子に告白の続きを捧げていく。
「一目見た時から可愛いなって思ってたんだ。それで、クラスの友達と話してる零野さんを見て、僕も君と話したいって、君の笑顔が見たいって思ったんだ。だから」
「ごめんなさい」
告白を遮って聞こえた声。
坂崎だけでなく、博士と乃良も花子に目を奪われる。
「……好きな人いるの」
無表情なその瞳で、花子は確かに坂崎をじっと見つめながら答えた。
花子らしからぬ丁寧な断りに、博士と乃良も言葉を失う。
しかし坂崎は動じていなかった。
「好きな人って、ハカセの事でしょ?」
十秒前にフラれたにも関わらず、坂崎は花子との距離を更に近付ける。
「……うん」
「でも、フラれちゃったんでしょ? もうとっくの昔に」
「!」
一年前の記憶を掘り起こされ、花子の目が一瞬揺れた。
草陰に隠れる博士も、頭に疑問が過る。
「……ん? なんでそんな事あいつが知ってんだ?」
「あー……、えーっと……ごめん」
「お前か!」
あっさりと容疑者が自白したものの、今乃良を尋問する余裕などありはしなかった。
目が離せない現場に、二人はじっと目を見張る。
花子に歩み寄っていた坂崎は花子を壁際まで追いやると、ドンッと花子の顔の間近に腕を伸ばした。
「「「!」」」
それは随分前に博士と花子が予習したものだった。
――壁ドン……!
ただの観客の筈の二人の鼓動が何故か早くなる。
「おいハカセ! これが本物の壁ドンだよ! こうやってやるんだよ!」
「なんだよそれ! 俺が出来てなかったみたいな言い方!」
草陰が壁ドンによって盛り上がってくるも、坂崎は気付く素振りも無く、花子に愛を囁いていく。
「なぁ、ハカセなんて忘れちまえよ。あんなのずっと好きになってたって、幸せになんかなれねぇぞ?」
坂崎の声が耳元まで来る。
「大丈夫、俺が忘れさせてや」
瞬間、坂崎の口はぎゅっと萎む様に掴まれ、花子の傍から引き剥がされた。
「はっ、はにおっ」
間抜けな顔となった坂崎は、潰れた目で花子を見る。
坂崎を掴んだ花子は、無表情にも関わらずどこか感情的だった。
「私はハカセが好き。ハカセが好きだから、私は幸せなの」
迷いなく宣言した花子。
芯の通ったその言葉を疑う余地など、どこを探しても見当たらなかった。
坂崎はしばらく面食らうと、花子の手から逃れる。
「……そっか」
坂崎は花子の手から解放されたにも関わらず、どこかやつれていた。
「……ごめんね。今言った事は忘れてくれ。……それじゃ」
中庭に花子を置いて、坂崎は一人去っていく。
後ろ姿は、まるでそよ風に倒されそうな程に頼りなかった。
草陰に潜んでいた二人にも、坂崎の貧弱な去り際はバッチリ目に焼き付かれていた。
「あー、ありゃ相当参ってるな。俺ちょっと坂崎の方行ってくるから、こっち頼んだぞ」
乃良はそう言って、先に草陰から走り去る。
残された博士は花子のもとへ向かう事もなく、ただその場に腰を下ろしていた。
――………。
否、動けなかった。
――……なんだ、これ。
博士の体を不思議な感覚が襲う。
それが何かは解らなかったが、今はとにかく花子の前に顔を出せなかった。
――なんだ……、これ……?
壁際に残された花子。
草陰に残された博士。
二人の姿は揃わないまま、互いが互いの事を密かに思い合っていた。
この感情の正体は……。
ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!
この話を思いついたのは、作中の時間軸で行くと丁度一年前。
現実世界でいうと三年程前に投稿した『花子の妬きもち』という回を書いた時ですね。
花子の妬きもちをテーマに書いたこの話、どういうサブタイトルにしようか悩んでいました。
その時「これ、ハカセの妬きもちをテーマにしたらどんな話になるんだろ?」と、ふと自分で気になったんです。
そうして『花子の妬きもち』と対になる、『ハカセの妬きもち』が誕生しました。
そこから話の骨組みは、ある程度事前に組み立てられていました。
急遽決まった事と言えば、花子に告白する人選ですかね。
クラス替えの時に出てきたキャラクターを、折角ならここで上手く出せないかと思いまして。
ハカセの内情も、随分差し迫ってきましたね。
妬きもちとは違うような気もしますが、まーいいや!ww
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!