【108不思議】家庭教師にトライ
空気の澄んだ晴れの日、太陽は人の街を燦々と照らしていたが、コートを手放す事は出来なかった。
住宅の並ぶ街の一軒に、ピンポンとインターホンが鳴り響いた。
「はーい」と中の人が声を上げ、こちらに向けての足音が聞こえてくる。
ガチャッと扉が開くと、中から銀髪の斎藤が顔を出した。
「どうも、今日は来てくれてありがと! ハカセ君!」
扉の前で立ち尽くしていた博士に、斎藤がそう笑いかける。
対する博士はあまり上機嫌では無さそうだ。
「いえ、まぁ先輩からのお願いですから仕方なく」
「ハッ、ハハッ……」
素直な事は良い事だと自分に言い聞かせ、斎藤は必死で笑顔を作るもどうも苦しそうだった。
すると中からまた足音が耳に入ってくる。
その足音はとても小さく、こちらに駆けてくるように早足だった。
足音の正体が玄関までやって来ると、博士に向かって跳びかかった。
「ハカセさぁーん!」
金髪をツインテールした少女、アリスだった。
斎藤アリス、斎藤の実の兄である斎藤大輔の長女で、斎藤から見ると姪っ子に当たる。
以前の夏休みにオカ研の部室に訪れ、その時にかくかくしかじかで博士に懐いてしまった。
今日はその日以来の再会だったが、アリスは鮮明に博士を覚えているようだ。
「お久し振り! ハカセさん元気だった!?」
「あぁ。お前は……元気そうだな」
目をキラキラと輝かせるアリスに、博士は口元を緩ませて答える。
アリスも博士との再会に心躍らせているようだった。
しかし、気になる点が一つ。
アリスは博士に抱き着いたまま、そーっとそちらへと目を動かす。
そこにはじーっとアリスを見つめている、無表情の花子が立っていた。
「……何でいるの?」
アリスの質問に、花子が答える様子はない。
「何か話したら行くって聞かなくて。仕方ねぇから連れてきた」
代わりに答えた博士の説明にも納得がいっていないのか、アリスの不機嫌な目は収まる気配が微塵も無かった。
膠着状態となる斎藤宅の玄関だったが、斎藤の促しで何とか家の中へと入っていった。
●○●○●○●
初めて入る斎藤宅の中は、綺麗な外観に相応しく清廉だった。
玄関から入ってすぐの廊下を歩いていくも、その足取りはどうも歩きづらい。
それもその筈、博士の左腕をアリスの両腕が絡んで離さないのだ。
その上後ろから花子が冷ややかな視線を向けているのだが、それに至っては博士は全く気付いていない。
「本当に助かるよ。僕が課題見るの頼まれてるんだけど」
「先輩受験生でしょ。自分の勉強してください」
博士が今日斎藤宅に足を運んだ理由は、アリスの課題の面倒を見る為である。
簡単に言うならば、家庭教師と言ったところだろうか。
「しかし塾ですか。アリスって何歳だっけ?」
「五才! もうすぐ六才になる!」
「来年の春から小学生だもんね」
「うん!」
張り切るアリスに、斎藤が柔らかい笑顔を向ける。
「早いなぁ。まさかあの自由そうな親が、未就学から塾に通わせるなんて……」
博士は頭の中にその親の顔を想像する。
斎藤大輔、アリスの父親、斎藤の兄。
実の兄にも関わらず、斎藤の顔ですら思い出して少し引きつっていた。
「自由にさせたいからこそ、今のうちに色々やらせてるみたいだよ」
「へぇ、意外と結構考えてるんすね」
弟の前で悪口同然な事を口走るも、斎藤が異論を申し立てる事は無かった。
「んで、その親は今どこに?」
そもそも弟に面倒を頼むのではなくて、自分で見ればいい話だ。
そんな素朴な疑問からの質問に、斎藤はあっさりと答える。
「あぁ、兄ちゃんならパトリシアさんと一緒に真冬の海にシュノーケリングしに行ったよ」
「自由だなぁ」
どこまでも自由奔放な夫婦に、博士はもう何の驚きも湧かなかった。
そうこうしていると、目的地に着いたようだ。
「それじゃあ僕は二階の部屋で勉強してるから、何かあったら呼んで。後で飲み物とお菓子持ってくね。あっ、トイレはそこを突き当たって左だから」
「はい」
斎藤は博士の返事に会釈すると、目の前の階段を上がっていった。
博士はしばらくその背中を見送ると、すぐ隣に設置されたドアを開く。
そこは斎藤宅のリビングのようだ。
大きめなテレビにテーブル、端にはアリス用と思われる玩具の山が見える。
その玩具の山に、やっと腕から離れたアリスが飛びついた。
「ねぇハカセさん! 何して遊ぶ!? おままごとしよ!」
「バカ、何言ってんだ」
子供らしくはしゃぐアリスに、博士が冷たい温度でそう声を放った。
「今日はお前の勉強見に来たんだよ。解ったら課題持ってここに座れ」
博士はカーペットの上に腰を下ろすと、前のテーブルに自分用の参考書やら筆記用具やらを出している。
隣の花子も同じように鞄の中の勉強道具を探していた。
「……分かってるよ」
そう呟いたアリスは少し寂しそうだったが、玩具の山から身を剥がした。
可愛らしい鞄から塾の課題を取り出して、博士の隣にちょこんと座る。
それぞれがそれぞれの難問に身を投していた。
「……ハカセさん」
「ん?」
隣のアリスに呼ばれ、博士は自身の問題を中断して目を移す。
「これが分かんない」
アリスが指差したのは、算数の文章問題だった。
「あぁ、これはな」
博士は問題の内容を理解すると、五歳児に分かるよう噛み砕いて説明する。
「文章で考えるから難しく感じるだけだ。普通に指使って考えてみろ」
「うん」
博士のアドバイス通り、アリスは両手をグーにして数えた。
「やまださんがリンゴを4こもってて、さとうさんが1こつまみぐいしちゃって、たなかさんがやまださんにリンゴ1こくれて、でもさとうさんがリンゴ2こぬすんじゃったから」
「問題文酷いなこれ」
「2こ!」
「正解」
問題文に違和感を覚えたが、取り敢えず正解なので良しとする事にした。
「やったー!」
問題が解けた快感に、アリスは大いに喜んだ。
そのまま問題を解き始めたアリスに、博士も自分の問題に目を戻す。
「……ハカセ」
「「………」」
その声に、博士まででなくアリスもペンの動きを止めた。
静かに顔を上げると、花子が博士に助けを求めたそうにこちらを見ている。
「分かんない」
「……どれ」
仕方なく博士はペンを置いて、花子の問題集に目を向けた。
花子は解けない問題を自分の指で示す。
「これ」
花子が指差したのは、アリスと同じ算数の文章問題だった。
「何でお前も分かんねぇんだよ!」
突然声を荒げた博士に、アリスは肩をビクンと弾かせた。
「お前高校生だろ! こんな問題ぐらい分かるだろ! 大体なんでお前も算数やってんだよ! さっさと両手使って数えろ!」
「いや」
花子は荒ぶる博士を抑えようと、解らない部分をピンポイントに差す。
何の変哲もない、ただの『む』だった。
「これが読めない」
「お前よく赤点回避できたな!?」
どうやら火に油だったようだ。
「お前もうそれ算数じゃねぇから! 国語からやり直せ!」
そうは言いながらも博士は丁寧に読み方を教えてやり、花子は納得したようにペンを走らせる。
そんな光景を、アリスは頬を膨らませて眺めていた。
このイライラをどこかにぶつけたくて、課題を書く鉛筆の筆圧が濃くなる。
すると解らない問題が、アリスの前に現れた。
アリスはパーッと顔を明るくし、博士に尋ねようと顔を上げる。
「ハカ」
「ハカセ」
しかしアリスの声に被せる様に、再び花子がSOSを出した。
「……何?」
博士もアリスの方に目を向けようとせず、花子の問題集に視線を注ぐ。
アリスの頬は更に膨らんでいった。
花子の問題集は先程の算数ドリルから、国語の漢字ドリルに変わっていた。
「意味が分からない」
「なぞるだけだよ! 書くだけなのに質問してくるな!」
どうやら問題集の根本的な使い方が分からなかったらしい。
花子は使用方法が分かると、素直に薄く書かれた漢字の跡をペンで辿っていった。
そんな花子を見て、博士にどっと疲れが押し寄せてきた。
「……トイレ」
「あっ、アリス案内する!」
「さっき教えてもらったから結構」
立ち上がろうとするアリスを声だけで制して、博士はリビングを後にした。
リビングに残ったのはアリスと花子だけ。
アリスは膝立ちだった体を元に戻し、花子を凝視する。
花子はすっかり漢字ドリルに夢中になっていた。
「……ねぇ」
声が聞こえていないのか、花子は漢字をひらすらに書き続けている。
「ねぇってば!」
ようやく声が聞こえて、花子はアリスへと目を向けた。
腕を組んで花子を睨むアリスは、部室で初めて会った時の様にツンツンしていた。
「アンタ、ハカセさんの何なの!?」
小動物が威嚇する様にしか見えないアリス。
そんなアリスに花子は無言を極めていた。
「ちょっと、何か答えなさいよ!」
いかにも手が出そうなアリスだったが、花子は淡々と、ただし堂々と言われた通りに答えてみせた。
「……彼女」
「! かっ、彼女!?」
「(仮)」
「(仮)!?」
驚愕の上に意味不明な回答が飛んできて、アリスの頭は混乱状態に陥った。
「……よっ、よく解んないけど、彼女ではないらしいわね!」
自分の中でそう結論づけて、アリスは勝手に納得する。
「いい!? ハカセさんはアリスのおむこさんになるの! アリスとハカセさんの邪魔しないでよね!」
どこかのドラマの様な台詞を平然と吐くアリス。
これで子供の力というものだろうか。
一方、花子はというと、その言葉に打たれも屈しもせず、ただ言ってやったと言わんばかりの表情のアリスをじーっと見つめていた。
「……ハカセはあげない」
「!?」
そうサラリと宣戦布告され、アリスは堪らず反論した。
「何よ! アリスだってハカセさんあげないもん!」
「ハカセは私の」
「いい!? ハカセさんはアンタよりアリスの方が好きなの!」
「ううん、私の方が好き」
「なにぃ!?」
「はーい、みんなー。カステラとジュース持ってきたよーって何これ!?」
斎藤がそう言ってリビングのドアを開けた時、その場は戦場と化していた。
アリスが花子の髪を掴み、花子がアリスの頬を引っ張る。
斎藤が持っていたお盆を置いて止めようとしても、その戦いが一向に止む気配は無い。
花子の力が強かったのかアリスが泣き出し、博士がトイレから帰ってきた時には既に冷戦状態になっていた。
●○●○●○●
ついさっき斎藤宅に来た気分なのに、もう空は夕暮れ色に染まっていた。
帰りの準備を済ませた博士と花子は斎藤宅の外に立っていた。
結果として、博士は自身の課題に全くと言っていい程手が付けられていない。
見送りで玄関までやって来た斎藤が、博士に感謝を伝える。
「今日は本当にありがと! 助かったよ」
「いえいえ、今度からは後輩に頼らず、なるべく自力で済ませるようにしてください」
「……はい」
博士のオブラートなんて捨て去った言葉に、斎藤の心は音を立てて崩れた。
斎藤は何とか持ち堪えて、自分の影に隠れたアリスに目を落とす。
「ほら、アリスちゃんも」
寂しいのか、その表情は夕陽に混ざって暗かった。
それでも何とか必死に声を振り絞ろうと、斎藤の服を掴む手に力が入る。
「……今日は、ありがと。……また来てね」
「……あぁ」
博士の無感情な返事に、固かったアリスの表情に柔らかさが見えた。
しかしその表情はすぐ豹変する。
隣の花子に目が向き、今日の激昂を思い出して威嚇したからだ。
「?」
勿論、博士がそんなアリスの心情を読解できる訳ない。
トイレから帰ってきた後、明らかに空気は違ったが、元々の鈍感と必死な斎藤のフォローも相まって、博士はその全容を知らない。
斎藤は苦笑いを浮かべ、花子は無表情でその喧嘩に乗っかろうとしている。
帰り道、気になった博士が「何かあったのか?」と花子に聞いてみたが、花子はYesもNoも言わず、ただ無言で帰路を歩いていた。
斎藤宅で家庭教師しました。
ここまで読んで下さり有難うございます! 越谷さんです!
長期休暇間の話は今までもずーっと考えていて、その中で書きたいと思っていたのが家庭教師でした。
ハカセが誰かの家庭教師をするって話。
その生徒として真っ先に候補に浮かんだのが、斎藤アリスちゃん。
こうして実に六十話振りにアリスちゃんの再登場が実現した訳です!
しかし蓋を開けてみれば花子ちゃんとアリスちゃんの修羅場展開に。
家庭教師要素は小さじ一杯程度になりましたが、まぁよし!
それにしても幽霊と未就学児の修羅場って……、ハカセ変なのに好かれるなぁww
僕は家庭教師のお世話になった事ないですが、結構楽しそうですよね。
機会があればやってみたいです。
それでは最後にもう一度、ここまで読んで下さり有難うございました!