雷 毒薬 投げる [日常]
あるところに、有能ではあるが、あまりにアイロニカルでペシミスティックな科学者がいた。確かに彼は科学者としての能力に優れ、科学史に残るような大発見を行うだけのポテンシャルを秘めていた。しかしながら、彼はあまりにも大きな虚無主義を胸に抱え込んでおり、さらには、彼自身のニヒリズムと同じだけの巨大な自己愛が周りの反感を買っていた。それゆえに、学会及び同業者から冷たくあしらわれ、その結果、当然というべきだろうが、彼が持つうらやむべき資質に対し、科学者としては大変不遇な人生を過ごすことになった。
その後、彼は定年とともに都会を離れ、ある岬のてっぺんに家を建て、そこで余生を過ごすことにした。配偶者もいないまま、交誼の友も持たないまま、彼はその岬に引きこもり、ただただ読書と思索にふける日々を送った。しかし、そのような孤独は社会的存在としての人間にとって毒薬以外の何物でもなく、彼の性格も手伝って、その生活の中で日を追うごとに、彼の中に眠る闇は坂道を転げ落ちる雪玉のように膨れ上がっていった。自分はもっと能力があったはずだ、自分は神に選ばれた特別な人間だ、周りのやつらが俺に嫉妬して足を引っ張りやがったんだ。彼の思考を立ち止まらせる障害物がない以上、彼の自己愛と周りへの憎悪は増大し続ける。しかし、それと同じだけの速度で、彼が生来から持つ悲観主義と自己否定観が彼の首と胸を締め付け、希望と気力を徐々に窒息させていった。
そのような状況に置かれた彼が、抽象的意味における世界への復讐と、苦痛しか生み出すことのできない自らの人生の打ち止めを決心するいいたるまで、それほど長い年月は要しなかった。彼はたぐいまれなる科学者的センスと人文科学的教養をいかんなく発揮することで、世界を混乱に貶めるだけの毒薬とテロリズム計画を編み出すとともに、その間のちょっとした時間に報復完了後の自殺方法を思案し続けた。そして、彼の黒く塗りつぶされた情熱は、数年という極めて短い期間のうちに、彼の願望を実現するだけの計画と毒薬を作ることを可能にした。すべての準備が整ったその日は、ちょうど嵐が岬を襲い、外では激しい雷雨がけたたましい音を立てていた。彼は、計画をもう一度抜かりなく点検し、98パーセント以上の確率での成功を確信するやいなや、誰にも見られることなく、ただ一人孤独に小さく、皺によれた右手を固く握りしめた。彼は、若者のような直截的な感情表現をしている自分を急に恥ずかしく思い、さっと顔を赤らめた。しかし、すぐさま誰も自分を見ている者などいないことを思い出すと、途端に冷静さを取り戻し、祝杯として、自分が長年大事に所有していた年代物のワインを空け、一人それを嗜んだ。計画は明日、毒薬を都市でばらまき、その惨状をこの目に焼き付けた後、この岬に戻って自殺をする。彼は自分の計画をアルコールが入った頭の中でシュミレートし、それに満足すると、ぐびっとワインを喉に流し込む。酒に強くない彼の顔は先ほどよりもさらに赤みを増し、ほどよい酩酊状態が彼をさらに上機嫌にさせた。今まで生きてきた中で、今ほど充実した瞬間はない。彼はかすれていく視界と脳に身体と理性を委ねながら、ぼんやりとそう考えた。そのまま彼はおぼつかない足取りで、実験室から母屋へと戻り、固く湿気のこもったベットの上に倒れ込み、そのまま深い深い眠りに潜り込んでいった
しかし、結論から言うと、その日の嵐が彼の計画を台無しにした。統計を取り始めて以来最大規模と言える豪雨と雷は彼が住む岬にも容赦なく吹き荒れ、彼の離れにあった実験小屋にはなんと、不運にも雷が直撃するに至った。彼が目覚めた時には、すでに嵐のあとの爽やかな青空の下で、見るも無残に焼け落ちた小屋が残されているだけだった。彼は目の前の光景を、昨日の酔いのせいだと、なかなか信じようとはしなかった。しかし、その廃屋に近づき、保管してあった毒薬がどこかへ流されてししまっていることに気が付くと、彼の頭は刹那的にさえわたり、まだ若干赤みがかっていた顔は、青色へと変わっていった。彼は現実を現実と受け止めきれないまま、あてもなくその場を離れ、まっすぐ歩き始めた。もちろんまた初めから薬を作り直すことだって不可能ではない。しかし、精神的な体力と余力はわずかばかりしか残されておらず、それも、最後に自殺をするために大事に取っておいたものに過ぎなかった。
もう自殺するしかない。彼はうつろにそう考えた。それが予定として以前から決められていたからか、その思いは強く、そして深く彼の心と理性に根差しているようだった。しかし、彼がそのように思考を働かせ始めたその瞬間、彼の目の前に今までに見たことのないような景色が飛び込んできた。それは丘一面に緑緑しく茂った草木と花だった。それは彼がつい昨日、一昨日見た時には存在していないものだった。彼はそのような異常な光景にふと目を奪われるとともに、科学者の性として、なぜそのような現象が目の前に起きているのかを反射的に考え始めた。そして、それが自分が昨晩まで必死になって作り上げてきた毒薬によってもたらされたものだと気が付いた。人間を死に至らしめる薬に、人間の理解を超えた何かの力が加わり、結果的に目の前の雄大で、壮大な景観を作り上げたのだ。彼はその光景に見とれ、生命と科学の大いなる神秘に身を震わせた。結果的に後日自殺する彼も、その瞬間だけは無邪気に自然と科学を決して振り向いてくれない想い人のように恋い慕っていた若き日々を思い出していた。そして、生命の尊さ、自然の計り知れなさにただただ驚嘆し、ずっとその場で立ち続けていた。そして、一人分の人生に固執する己の矮小さを戒め、命を大事にしようと強く決心した。
だがしかし、計画が台無しになった日から数えて三日後、彼はその考えを改め、予定通り岬の先からその身を投げ出した。なんというかまあ、人生とか人の考え方というものはそういうものだ。