第3話
父から聞いた住所を頼りに、交番に訊ねたり電柱とにらめっこしたりして、不動産屋を捜し当てる事が出来た。
扉を開けた僕は、一番近くにいた男性に話しかける。
「佐久間さんはいらっしゃいますか? 父の紹介で来た石本という者なんですが」
「あ、ちょっと待ってください」
男性はそう言って部屋の奥へと消えた。
辺りを見回してみると、掲示板が目に止まった。貸し物件の写真と詳細が記載されている紙が、いくつも張ってある。その中の一つに、三階建てのマンションの中の一室があった。ワンルーム。トイレとバスは別室で、ロフト付き。駅まで徒歩三分の部屋か。家賃は六万八千円。敷金礼金あり。少し高い気がするが、都内ではこんなもんなのだろうか。
「やあ、どうも。佐久間です」
掲示板を流し読みしていると、奥から中年の男性がやってきた。おおらかそうな外見で、いかにも人の良さそうな人だ。
「どうもこんにちは。今日はお世話になります」
軽く会釈をして、僕はそう言った。
「君が石本さんの息子さん? あはは、全然似てないな。お父さんと違っていい男だ」
佐久間さんは笑いながら、僕の肩をポンと叩いた。初対面なはずなのに、やたらなれなれしい人だ。少したじろいしまいそうだった。
とりあえず適当に愛想良く笑みを浮かべたりしてみて、さっそく僕は本題を切り出した。
「それで、何部屋か紹介してもらえる部屋があるって聞いたんですが……」
「そうそう、いくつかあってさ。……ちょっと待ってね」
そう言って、再び佐久間さんは部屋の奥へと引っ込む。そして、机の引き出しを開ける音や、何か戸を開けるような音がしてきた。だが、しばらく待っても彼はなかなか戻ってこず、時計の秒針が何周も回った。
「なあ、この子に見せる部屋の資料どこ置いたっけ?」
ようやく戻ってきたと思えば、僕が最初に話しかけた男性にそんな事を聞いたりしている。おいおい、大丈夫なのか。
「え、僕は知らないですよ。佐久間さんのお知り合いとの事だから、この件は完全に佐久間さんに任せたんじゃないですか」
「……だよなあ」
二人はしばらくそんな会話をしていたが、やがて佐久間さんが、頭をぽりぽりと掻きながら「まあ、実際に見てもらうわけだし、別にいいか」と、そういう結論を出した。なんて適当な人だ。
「じゃあ、外に車があるから、さっそく見に行こうか」
佐久間さんは車のキーを持って、外へと出ていく。僕は少し心配だったが、彼の後に続いて扉を抜けた。
*
突然の急ブレーキに、僕は驚いた。隣では、佐久間さんが訝しげな表情をしながらステアリングをバンバンと叩き、何度もクラクションを鳴らしている。
「あぶねえなあ、轢き殺しちまうぞ」
どうやら、目の前を歩行者が横切ってきたらしい。見晴らしのいい道路じゃなかったので、お互いに障害物の陰になって、気付かなかったのだろう。一歩間違えば、本当に恐ろしい事故になっていた。皆さんも交通事故には気をつけよう。
「今日は、まっすぐウチに来たの?」
ふいに、佐久間さんが言う。
「いえ。そちらへ向かう前に、ちょっと駅前や住宅地をぶらぶらしてました」
僕の言葉に、彼は前を見たまま頷いた。
「ふうん。どうだい?この辺りは。暮らしていけそうかい?」
「ええ、良いところだと思いますし、やってけそうです」
それは嘘では無かった。大学までは電車で二駅でいけるし、このあたりの部屋代は東京にしては安い方だろうし。それに先ほど歩いてみた感じでは、穏やかそうなところも良かった。まあ、駅前はともかく。
それだけか?……いや、もう一つある。
僕の頭の中で、先ほどの女性の顔がちらついた。胸の高鳴りが再び蘇ってくる。
また、逢えるだろうか。そんなことを思ったりした。
「さあ、ここだ」
その佐久間さんの声に、僕ははっとした。
車道の端に車を止め、佐久間さんは指差した。見ると、三階建てのマンションがある。白い外壁が、何とも清潔そうなイメージを彷彿とさせる。
「この102の部屋がそうだよ。ええと、ちょっと待って」
そう言って、彼は水道メータボックスの蓋を開ける。すると、中に部屋の鍵が入っていた。
それを部屋の鍵穴に差し込み、シリンダーを回す。ガシャン、と重厚感のある音がした。
1Kと呼ばれる間取りの部屋だ。一つの部屋だが、居室とキッチンのスペースが戸で分けられてある。
トイレは、浴室と一緒になっているタイプだ。風呂に入ってる最中に、もよおしてきてしまった時なんかは便利そうだが、もし友人なんかが泊まりにきた場合、どちらかが風呂に入るとトイレも使えない。
ちなみに僕は、風呂の最中に小便がしたくなった場合は排水溝に……って、そんな事はどうでもいい。
「駅までは二分と掛からない距離だし、ここなんかいいんじゃないかな? 賃金も月六万と手頃だよ。敷金礼金あるけど」
六万……。悪い額じゃない。むしろ都内だという事を考えれば、結構安い部類に入るだろう。だけど、少し渋ってしまう点もあった。
両親と約束していた事があったのだ。『僕が大学に入り、東京で一人暮らしをする事になったら。学費は両親に払ってもらうかわりに、部屋の家賃は自分で払う』というものだった。
もちろん、月に六万でも払えないというわけじゃないが、できる事ならなるたけ安い部屋の方が助かるのだ。
それともうひとつ。この部屋が駅に近すぎるという点だ。先ほども述べたが、駅近くの雰囲気は好きじゃない。さすがに部屋にまで雑踏や雑音が響いてくるという程ではないが、窓を開けて外の景気を見るだけで、ため息が出てしまいそうだった。
「……すいません、別に駅から離れていても構わないので、なるべく安い部屋がいいんですが」
せっかく勧めてくれた部屋を断るのは気が引けたが、僕は申し訳なさそうにそう言った。
「ああそうかい? んん、でも安さだけでいったら、この部屋が候補の中で一番安いんだけど……」
そう佐久間さんが返す。やはり、こちらが望むような部屋なんかそうそう無いのかもしれない。どうするべきか……。他の不動産屋にも回ってみた方がいいのだろうか。
「……ああ、そういえば一軒、ボロアパートだけどかなり安い部屋があるよ」
僕が考え込んでいると。思い出したように佐久間さんは言った。
「いくらなんです?」
「たしか……敷金礼金なしで、月に三万三千円」
思わず飛び上がりそうになった。かなり安い。地元にだって、そんな格安の部屋はあるかどうか……。
「その部屋はワンルームなんだけど、駅から離れてるし、それに風呂が付いてないんだ。若い子は嫌がるかなと思ってたんだけど……。見てみるかい?」
「ぜひ、お願いします」
風呂無しでも、三万三千円は大きい。かなり生活も楽になるはずだ。
そして僕たちは、さそっく車に乗り込み、その部屋へと向かった。
どんどん駅が遠ざかって、駅前の落ち着かない店並も消えた。かわりに現れたのは、閑静な通りと、のどかに散歩を楽しむ人がちらほら。
やがて、車は小さい路地へと滑りこんだ。
そこで、僕は気づいた。その通りには見覚えがある事に。それも、何年とか何か月前とかの事では無い。何時間か前の事だった。
間違いない。この路地、この軒並み。つい先ほど通った道なのだ。見間違えるはずなど無い。
もしかしたら……。そんな高揚感が満ち溢れてきた。目的の物件をいち早く見つけようと、行く道の先を凝視する。
そして、車は一軒のアパートの前で止まった。コンクリートの小さい塀で仕切られた、壁の塗装の痛みが目立つ、いかにも古そうなところだ。
塀の入口には、一匹の猫がいる。雑種のようで、白地に黒いぶちの入った猫だった。




