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記憶の陰・7

 老人に言われた通りに、二つ目の交差点を右折して真直ぐに北に向かう。

 30分も走った頃、雑木林の向こうに青い屋根の家が見えた。

 隼人はゆっくりとスピードを落とすと、その家の前に車を停めた。

 車から出て門を潜ると、庭に赤い軽自動車が置かれているのが見えた。駅前で奈津子が借りたものに間違いない。

 玄関に近づきドアに手を伸ばす。

 だが、ドアには鍵がかけられ、中からは人の気配がしない。

 隼人は家のなかの様子を伺いながら、家の裏手へと歩いていった。庭のあちらこちらに雑草が生い茂り、長年人が住んでいないことが感じられる。

 行方不明になっている幸恵が隠れ住んでいるのではないかと、微かに想像していたが、どうやらそんなことはなさそうだ。

 家の裏手にある雑木林の隙間から、小さな小屋が建っているのが見える。雑木林の中央に人一人が歩ける細い道が見える。隼人はその道を辿って雑木林を抜けた。

 雑草だらけの空き地が広がり、その隅に古ぼけた小屋が見える。小屋の脇には薪がいくつか積み上げられている。

 隼人が小屋に近づいていくと、わずかに開いた木戸の隙間から人の後ろ姿が見えている。奈津子だった。

 小屋の片隅にしゃがみこんでいるのが見える。

 隼人は木戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。

 振り返った奈津子は驚いたように立ち上がり、隼人を見つめた。

「あなた……」

「ここで何をしてるんだ?」

 近づきながら隼人は訊いた。キリキリと万力で締め付けられるような痛みが頭を襲っている。

「……どうしてここに?」

「おまえを追いかけてきたんだ。仙台で友達に会うんじゃなかったのか?」

 小屋の中を見回しながら隼人は言った。

 小さな小屋のなかには一画に薪が積み上げられ、もう何年も使われていないような錆付いた小さな斧と鉄のスコップがたてかけられている。

「それは……」

 うろたえるように視線を泳がせる。

 その足元に花束が見えた。

 まるで誰かを弔うかのように、小屋の隅に大きな石が置かれ、その上に花が置かれている。

「それは?」

「……」

「奈津子、答えてくれ。いったいどうなっているんだ?」

「……ごめんなさい」

 奈津子は声を絞り出すように言った。「私は……奈津子じゃないの」

「奈津子じゃない? それじゃ誰なんだ?」

「幸恵です」

「幸恵……ちゃん? そんな……10年前から行方がわからなくなっていたんじゃ……」

 頭が混乱している。

「じゃあ、奈津子はどこへ行ったんだ?」

「姉さんはここに……」

 幸恵は足元に置かれた大きな石を指差した。

「それじゃ……入れ替わっていたっていうのか? いったいいつから?」

「10年前から」

「10年前? じゃああの事件の時……教えてくれ。いったいあの時、何があったんだ?」

 幸恵は辛そうに隼人を見つめ、やがて、ゆっくりと口を開いた。

「私が姉から電話をもらったのは、長野の旅館に着いてすぐでした。姉は凄く慌てていて、よく意味のわからないことを喋ってました。私は姉に何かあったんだろうと思い、姉を追って急いでここにやってきたんです。でも、もう遅かった。姉は拳銃で頭を撃って死んでいました」

「それじゃ――」

「姉は自殺したんだと思います。たぶん自らの罪を裁くために」

「自らの罪?」

「隼人さんを殺そうとした罪です」

「奈津子が俺を?」

 ズキンと大きな衝撃が頭のなかを走り、隼人は思わず頭を押さえて膝をついた。

「隼人さん……大丈夫?」

 幸恵が心配そうに隼人に寄り添う。

「あ……ああ……大丈夫だ。それより教えてくれ。どうして奈津子は俺を殺そうとしたんだ?」

「姉さんは国松さんと付き合っていたみたいです。そう遺書に書いてありました」

「遺書?」

「姉は遺書を残していました」

「どこにあるんだ?」

「姉と一緒に埋めました」

「……そうか」

「遺書には、国松さんに誘われたと書かれていました」

「孝雄に? でも、あいつは君と付き合ってたんじゃないのか? 君のことを愛していたんじゃないのか?」

 幸恵は節目がちに小さく首を振った。

「私もずっとそう思ってました。孝雄さんは隼人さんのことを恨んでいたって。だから姉のことを奪って、隼人さんのことを殺そうとしたって」

「まさか……あいつが?」

「本当です。私……本当は知ってたんです」

「知ってた?」

「お姉ちゃんと孝雄さんのこと……私はお姉ちゃんに止めてくれるように頼んだわ。でも……お姉ちゃんは聞いてくれなかった」

「そんなことがあったのか……」

 信じられなかった。今、隼人が思い出せるのは学生の頃の奈津子だけだ。あの頃の奈津子は決してそんなことをするような女ではなかったはずだ。

「信じられないのも無理ないわ。隼人さんが知ってるのは昔のお姉ちゃん。でも、お姉ちゃんは変わってしまった」

「それじゃ君は……奈津子の罪を詫びるために奈津子の身代わりになったっていうのか?」

「身代わりなんて言い方しないで」

「幸恵ちゃん……」

 その時、突然背後から声が聞こえた。

「なるほど。そういうことですか」

 その声にハッとして振り返る。そこには満足そうに笑みを浮かべながら立っている川崎の姿があった。

「あなたは……」

「話は聞かせてもらいました。なるほど。ここに君島奈津子さんが眠っているというわけですね」

「つけてきたんですか?」

「事件を洗いなおすのが磯辺さんからの依頼ですから」

 ゆっくりと小屋のなかを見回しながら川崎が答える。「ここに何かあるんじゃないかとは思ってたんですよ」

 ふと、さっきの老人の言葉を思い出した。老人が言っていた不動産屋とは川崎のことだったのかもしれない。おそらく川崎が自分たちの周辺を探るために、不動産屋と偽ってここに来たのだろう。

「どうするつもりですか?」

「もちろん依頼人に報告しますよ」

「そんなことをしてどうなるんですか? 磯部さんはもう亡くなられているんでしょう?」

「だから黙っていろというんですか? まあ、黙っていてあげても構いませんけどね」

 川崎は口元をニヤつかせた。

「脅すつもりですか?」

「二人の命を奪っておいて何を言うんですか」

「姉さんは自殺したんです。隼人さんは何も悪くありません」

 幸恵が川崎に向かって言った。

「あなたは勘違いしているかもしれませんよ」

 川崎は幸恵に顔を向けた。

「勘違い?」

「そうです。あなたは奈津子さんが自殺したと思い込んでいるようですが、ひょっとしたら殺されたのかもしれません」

「ええ?」

「奈津子さんは拳銃で自殺したと言いましたね? なぜ、そんなことを?」

「なぜって……」

「罪の意識ですか? おかしいですね。彼女が亡くなったのはいつです? あなたが発見したのが3月20日。つまりそれ以前に亡くなられてるということですね。彼女はどんな罪を犯したというんですか?」

「それは隼人さんを殺そうとしたから――」

「ほら、おかしいじゃありませんか。国松孝雄さんが君島さんを殺そうとしたのは、3月20日の夜なんですよ。もし罪の意識があるというのなら、それ以前に国松さんを止めればいい話しですよ。彼女が3月19日のうちに自殺する理由など何もないんです。つまりね、君島奈津子さんは自殺なんかじゃないってことですよ」

 川崎は幸恵に向かってそう言うと、隼人のほうへ顔を向けた。「どうです? 何か間違ってますか?」

「……奈津子が自殺じゃないとすれば……」

「当然、誰かに殺されたということになります」

「誰に?」

「実はここに来る前に町の人にちょっと話を聞かせてもらいました。たこ焼き屋のおじさんにもね。あのおじさん、いろいろ話してくれましたよ。年のわりに10年前のこともよく憶えてらっしゃった。10年前、君島奈津子さんはあのバス停でバスを降りた後、タクシーでここまでやって来たようです。その後、すぐにその後を追いかけるようにレンタカーでやってきた男がいたそうです。誰だかわかりますか?」

「孝雄……?」

「違いますよ。国松さんはその日、東京にいたことが確認されています」

「それじゃ……誰が?」

 考え込む隼人に向かって川崎は突きつけるように言った。

「あなたですよ」

「俺?」

「あなた、本当に憶えていないんですか? あなたは奈津子さんを追いかけてここにやって来たんです。そして、彼女を自殺に見せかけて殺したんです」

「何をバカなことを! 俺がどうしてそんなことをしなきゃいけないんだ!」

「浦沢真澄という女を知ってますか?」

「浦沢……?」

「あなたが以前勤めていた会社で庶務をしていた女性です。あなたは彼女と不倫関係にありましたね?」

「なにを――」

「誤魔化してもダメですよ。ちゃんと裏は取れてますからね。あなたは彼女と一緒になるために奈津子さんを殺そうとしたんです。そして、国松さんと奈津子さんが二人で共謀して、あなたを殺そうとしたように見せかけた。稚拙な計画です。本来ならもっと早く暴かれていても不思議じゃない。ただ、あなたが偶然記憶をなくし、幸恵さんが奈津子さんの遺体を隠したことで、単純な事件が複雑なものへと変わってしまった。でも、これでお終いです。奈津子さんの遺体が発見され、それが殺人ということが証明出来れば、10年前の事件も洗いなおされる」

 そう言って川崎は花の置かれたところに近づいた。

 ズキズキと頭痛が酷くなっている。

――どうして?

 あの時の奈津子の声が思い出される。

 追いかけてきた隼人に向かって奈津子は叫んだ。

「孝雄のことを待ってるのか? あいつはここには来ない」

「どうしてそのことを――」

「ふん、おまえと孝雄のことはずっと知っていたよ。俺を殺す計画まで立てるなんてたいした奴だな」

「……ごめんなさい。でも、あなたのことを殺そうなんて思ってないわ。ただ、あの人と一緒にいたいだけ……」

「気にすることないよ。初めからこうなることになってたんだ」

「どういうこと? それに孝雄さんは?」

「言ったろ。あいつは来ないよ」

 あの時の奈津子の表情がはっきりと脳裏に蘇ってくる。

 奈津子一人を自殺に見せかけて殺すことなど、それほど難しいことではなかった。

 もともと孝雄に奈津子を唆すように頼んだのは隼人自身だった。

――なぁに心配は無い。あいつが俺を殺す計画を立てたという証拠が手に入ればそれでいいんだ。それで俺はあいつと綺麗に別れることが出来る。

 隼人に借金のある孝雄は渋々承諾した。

 隼人の狙い通り、奈津子は孝雄に気持ちを奪われ、隼人を殺そうと企んだ。隼人は奈津子を自殺に見せかけて殺し、そして、孝雄のことも事故に見せかけて殺そうとした。予定外だったのは、途中で孝雄に気付かれたことだ。

 孝雄は最後の力を振り絞り、隼人のことを巻き添えにしようとした。

 その結果、隼人までが事故に巻き込まれ、幸い命は取り留めたものの記憶を失うことになった。

 思い出されてきた記憶……その現実に隼人は眩暈を感じながら、川崎の後ろ姿を見つめた。

 川崎は奈津子が埋まっているはずの地面を見つめ、ポケットから携帯電話を取り出した。警察に連絡するつもりなのだろう。

 その時――

 突然、幸恵が動いた。

 小屋の片隅に立てかけてあった斧に飛びつくと、川崎の後頭部に向けて一気に振り降ろした。

 鈍い音が響き、血が飛び散る。

 川崎の手から携帯電話がポロリと落ちた。そして、川崎は悲鳴をあげることもなく、グラリと前のめりに倒れた。

 目の前の出来事に、隼人は目を疑った。

 幸恵は斧を両手で握ったまま、川崎を見下ろしている。

 ハッと我に返り、隼人は幸恵に声をかけた。

「……幸恵……ちゃん」

 その声にピクリと身を動かし、幸恵がチラリと視線を隼人のほうへ向けた。斧を持つ指先が震えている。

「うぅ……」

 弱々しく川崎が苦しそうに唸る。斧の刃が錆付いていたことと、幸恵の力が弱かったことで即死を免れたのだろう。だが、その傷はかなり深く、後頭部から流れ落ちる血が川崎の顔を真っ赤に染めている。

 幸恵が再び視線を川崎に向けた。

 川崎はゆっくりと顔をあげ、脅えたような声を出した。

「なぜだ……なぜ……」

 幸恵はそれには答えようとせず、再び斧を振り上げた。

「やめてく……」

 斧が再び振り下ろされ、川崎の言葉は悲鳴へと変わった。

 ガツン……

 斧が避けようとした川崎の左肩に食い込み、鮮血が飛び散る。

「うぅぅ……」

 川崎は顔を仰け反らせ、後ろ向きに倒れた。幸恵はさらに追いかけるように斧を振り上げ、川崎の頭に叩き込む。

 1発……胸元に、2発……こめかみに、3発……喉元に……

 一撃ごとに川崎の動きが鈍くなっていく。

「幸恵ちゃん!」

 溜まらずに、隼人が背後から幸恵の体を抱きしめた。「やめろ! もうよすんだ!」

 すでに川崎は動かなくなっていた。目を大きく見開き、口を半開きにしている。その顔に既に生気はなかった。

 幸恵は大きく息をしながら、虚ろな眼差しで、ぼんやりと血で染まった川崎の死体を見下ろした。

 やっと幸恵の手のなかから斧が滑り落ちる。

「幸恵ちゃん……なぜだ?」

「私だって……私だって、そのくらいのこと考えたこともあったわ。でも、私は隼人さんを警察に渡すようなことはしたくなかった」

 大きく肩で息をしながら幸恵は答えた。

「でも、俺は奈津子を……君の姉さんを殺したんだぞ。それに孝雄までも……」

「お姉ちゃんはもう死んだわ。そして、孝雄さんも。私にとって、今、誰よりも大切なのは隼人さんなの。何があってもあなたのことを守ってみせる。それに……もともと隼人さんを好きになったのは私のほうが先だった」

 幸恵はそう言うと、くるりと体を反転させて隼人に抱きついた。わずかにその体が震えているのが感じられる。

「いいのか……本当に……これで」

「今の私にとって、何より大切なのはあなたと恵子のことなの」

 幸恵はわずかに体を離し、隼人の顔をジッと見つめた。揺らぐことのない強い意思がその瞳から読み取れる。

 その瞬間、隼人はハッとした。

 幸恵は初めから全てを知っていたのではないだろうか。自分が奈津子を殺したことも、孝雄を殺そうとしたことも全て知った上で自らの存在を消し、奈津子として暮らしてきたのではないだろうか。

「大丈夫よ。私が全部うまくやってみせる。さあ、帰りましょう。恵子が待ってるわ」

 幸恵はそう言って小さく微笑んた。


   了


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