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記憶の陰・6

「行ってきます」

 土曜の午前10時。恵子が友達の家に出かけてから30分後、奈津子は以前からの予定通り、仙台の友達に会うために家を出た。

 シンプルな黒のパンツスーツ。とても男に逢いに行くような姿には思えない。どちらかというと葬儀にでも出席するのではないかという印象を受ける。

 隼人はいつもと同じように素知らぬ顔で奈津子を見送った後、急いで服を着替えると後を追いかけた。

 新幹線の時刻はわかっている。

 間違っても先に家を出た奈津子とかち合ってしまわぬよう気をつけながら、一本後の電車で奈津子を追いかける。

 東京駅には11時に着いた。

 周囲に気遣いながら、奈津子の姿を捜して新幹線ホームへと進む。

 なかなか奈津子の姿を見つけられない。

(本当にこの新幹線なのか?)

 小さな不安が頭をもたげてくる。

 もし、浮気をしているとすれば、仙台に行くと言っていたことも嘘である可能性がある。

 家を出た時から後をつけるべきだったかもしれない、とわずかに後悔の念が心のなかを過ぎる。

 その時、売店の陰から奈津子が歩いてくるのが見えた。

 思わず階段の脇に身を隠し、奈津子の動きを見張る。

 奈津子はゆっくりとした足取りで新幹線の出発時間を示す表示板を見上げながら、ホームに立った。

 スーツ姿の若い男が二人すぐ前に並んでいるが、その二人と奈津子とはまったく関係が無さそうだ。

 一先ずホッと胸を撫で下ろす。

 やがて新幹線がホームに滑り込んできて、それから間もなく乗車のためのドアが開く。奈津子はゆっくりとした足取りで中のほうへと入っていった。

 隼人も少し距離を開けて中へと入っていく。

 入り口付近に立ち、座席に座る奈津子のほうを伺った。

 誰かが乗り込んでくる様子は見えない。奈津子の隣には小学生の男の子を連れた母親が座りこむ。奈津子は売店で買ったらしい週刊誌に視線を落としている。どうやら連れが現れる心配はなさそうだ。


   *   *   *


 2時間が過ぎ、新幹線が仙台に着くことをアナウンスが伝える。隼人は、奈津子が座るほうへ視線を向けた。だが、奈津子はいつまで経っても立ち上がる気配が無い。

(仙台で降りるんじゃないのか?)

 結局、仙台で奈津子は降りようとはしなかった。

 奈津子が降りたのは仙台の次の停車駅である古川だった。

 隼人もその後を追いかけた。

 改札を抜けると、奈津子は迷うことなく陸羽東線のホームへと向かっていった。そして、10分後発の新庄方面の電車に乗り込む。

 それからさらに30分。奈津子が降りたのは、名城という駅だった。

 春とはいえまだちらほらと雪が残っており、空気は肌寒い。

 数人の乗客が駅の改札のほうへと向かって歩く。その中に奈津子の姿が見える。あまりに人の姿が少なく、隼人は性急に追いかけるのを避け、少し離れて奈津子の様子を伺った。

 奈津子は駅を出ると、真直ぐに駅前に停まっていた1台のタクシーのなかへと入っていった。

 すぐに追いかけたかったが、運悪く駅前には1台のタクシーも停まっていない。奈津子が乗るタクシーの走り去るのを見送りながら、駅の前に立って駅周辺の案内板を眺める。

 そのなかに書かれた一つの地名が目に付いた。

『中里町』

 案内板の一番端のほうにオマケのように書かれている。

 その地名に、確か奈津子が生まれた場所だということを思い出す。

 奈津子の両親は、彼女が幼い頃までそこで農業を営んでいたと聞いたことがある。その後、奈津子が大学に入学した年に両親が事故で死に、妹の幸恵と二人で上京してきた。

 ひょっとしたら彼女が昔が住んでいた家は、まだそこにあるのかもしれない。

 早くタクシーが来ないものかと周囲を見回す。だが、タクシー乗り場にはいつまでもタクシーはやって来ない。ふと、すぐその向こう側に小さなレンタカーの営業所があるのが見えた。

 隼人は営業所に飛び込むと、マツダのセダンを借りることにした。

 営業所近くのガソリンスタンドでガソリンを満タンにすると、隼人は中里町へと車を向けた。

 奈津子が向かったのはおそらく自宅がある中里町に間違いないだろう。

 左右に広がる田園風景を眺めながら、車を中里町へと進める。20分も走るとすぐに『中里町へようこそ』と書かれた看板が現れた。

(こっからどっちに行けばいいんだ?)

 奈津子の田舎が中里町であることは知っているが、その正確な住所までは把握していない。

 迷っていると酒屋の前に設置された電話ボックスが目に止まった。隼人は酒屋の前で車を停めると、電話ボックスに飛び込み電話帳を調べ始めた。

 ひょっとしたら『沢松』の名前で見つけられるかもしれないと思ったからだ。だが、すでに奈津子の両親が亡くなって20年以上が過ぎていることもあってか、そのなかから奈津子の実家を見つけ出すことは出来なかった。

(役所にでも行けばわかるのかもしれないな)

 だが、そんなことをすれば、こっそりと後をつけている意味がなくなってしまう。

 途方に暮れながら電話ボックスを出ると、酒屋のなかに一人の老人の姿が見えた。

「すいません」

 隼人はすがる気持ちで店のなかに足を踏み入れた。

「何だね?」

 店の奥にいた老人が顔を上げて隼人のほうを見た。この老人ならば、20年前に亡くなった奈津子の父のことも知っているかもしれない。

「沢松さんのお宅はどう行けばいいかご存知ですか?」

「沢松ぅ? どこの沢松だ?」

 老人は眉を潜めて聞き返した。

「沢松……義信さんの家です」

 奈津子の父親の名前を思い出しながら答える。「ご存知ですか?」

「義信? あいつぁもうずっと前に死んでるぞ。あの家には今は誰もいねえはずだ」

 老人はしゃがれた声で答えた。口を大きく開けて話そうとはしているが、歯が何本の抜け落ちているせいか、その言葉はやたら聞きづらい。

「ええ。知っています」

「だったら何っさ行くんだ?」

「ちょっと……用事がありまして……」

「用事って?」

 老人は疑うように隼人を睨む。「ひょっとしてオメエも不動産屋か?」

「……え? ええ」

「そうかぁ。今度、あそこに道路をこしらえるってのは本当だったのか」

「道路?」

「違うのか? この前来た不動産屋はそう言っとったぞ」

「え、ええ、そうです」

 隼人は適当に答えた。用地買収の話など聞いたこともないが、今はそんなことにこだわっている場合ではない。

「義信の家だったら、この道を真直ぐ行って二つ目の信号を右に曲がればいい。そっからは真直ぐ行くだけだ。30分も走れば見えてくっから」

「わかりました。ありがとうございます」

 隼人は礼を言って車に戻ろうとした。その隼人に老人はさらに声をかけた。

「あ……そういえば、あんた10年前も同じようなこと、わしに聞いたんじゃなかったかな。そうだ、そうだ。あんただよ」

 老人は隼人の顔を指差して言った。

 その瞬間、脳裏にある一つの考えが思いついた。

(孝雄だ)

 おそらくこの老人は国松と自分とを勘違いしているに違いない。


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