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記憶の陰・4

 いつものように田村とともに会社のすぐ近くにある蕎麦屋で昼食を取った後、隼人は一人本屋に立ち寄った。

 売り出されたばかりの週刊誌に手を伸ばそうとした時――

「失礼ですが……君島隼人さんじゃありませんか?」

 振り返ると分厚い眼鏡をかけた40歳くらいの男が覗き込むようにして隼人を見つめている。

「あなたは?」

「川崎といいます。憶えてませんか? 以前、一度だけお会いしたことがあるんですが……10年前、退院されたあなたに取材をお願いしたことがあります」

「取材というと……事故の時の?」

 隼人の言葉に川崎は頷いた。

「その頃、私は北日新聞の記者をしていました」

 そう言われて記憶を手繰ろうとするが、その男のことを思い出すことは出来なかった。

「……すいません。ちょっと思い出せないんですが……」

「しょうがないですね。2、3立ち話をしたくらいですから。すいませんが、ちょっと時間いただいてよろしいですか?」

 そう言って川崎は本屋の前の喫茶店を指差した。チラリと腕時計に視線を走らせる。すでに昼休みも40分を過ぎている。

「何か? そんなに長くは取れないんですが――」

「ええ。ですが、ちょっと立ち話というようなものでもありませんから……」

 10年前の事件のことは会社の同僚には話していない。隼人としてもあまり周囲の人に知られたくはなかった。

 仕方なく隼人は川崎に促されるままに向かいの喫茶店に入った。店内は若いOLや学生の姿がちらほら見え、スーツ姿の会社員の姿は見受けられない。見知った顔がないことにホッとしながら席につき、コーヒーを注文する。

「実は先日、磯部康弘さんが亡くなられました。お耳には入ってますか?」

 聞いたことのない名前に、隼人は首を捻った。

「磯部? それは誰です?」

「国松孝雄さんのお父さんですよ」

「父親? 何か勘違いしてはいませんか?」

 孝雄の父親が誰なのかは、自分が一番良く知っている。

「いえ、そういう意味ではありません。国松さんの父親があなたのお父さんである君島尚之さんであることは知っています。磯部さんというのは、孝雄さんのお母さんの再婚相手です」

「……言ってる意味がわかりません。孝雄の母親はもう20年ほど前に病気で亡くなってるんじゃありませんか?」

「ええ。その通りです」

「だったらどうして?」

「もともと孝雄さんの母親の雅子さんは磯部康弘さんと結婚されていたんですよ」

「それじゃ親父は……」

 ダブル不倫ということか。さすがにこれは隼人も初耳だった。

「そういうことです。磯部さんは孝雄さんの実の父親が誰なのかをわかったうえで、自分の子供として育てようとしました。けど、雅子さんにとってはそれも苦痛だったのでしょう。孝雄さんを産んで5年後に磯部さんとは離婚されています」

「そんな……そのこと孝雄は?」

「当然、知っていたでしょうね」

「そうですか。それで?」

「磯部さんは生前からずっと孝雄さんが起こした事件のことを気にされていました。それで亡くなる一週間前に私にある依頼をされたんです。10年前の事件のことを調べてくれとね」

「……どうして?」

「磯部さんは、孝雄さんがそんな事件を起こしたということを信じられなかったんでしょう。それで、出来たら10年前の事件についてお話を聞かせてもらいたいんです」

「それは……構いませんが……」

 ズキリと前頭部に痛みが走り、隼人は思わず眉間を押さえた。

「どうしました?」

「いえ……別に……でも、私で力になれるかどうか……」

「ひょっとして……まだ思い出せないんですか?」

 川崎は片方の眉をピクリとあげた。

「……すいません」

 事件の概要については知っているが、それは全て奈津子や警察から聞かされたことだ。

「孝雄さんとの間に何かあったかどうかは?」

「……すいません」

 その言葉に川崎は失望したように小さくため息をついた。

「ところで沢松幸恵さんからその後連絡は?」

「沢松……?」

「奥さんの妹さんですよ」

 そんなことも憶えてないのかというような呆れた顔で川崎は隼人を見た。「国松さんとも親しくしており、事件後、行方がわからなくなったじゃありませんか」

「そう……なんですか」

「本当に覚えていないんですか? 確かにあなたは事故の後、記憶を無くなされた。でも、医者は記憶の喪失は一時的なものだと言っていたんですがね」

 川崎は疑っているような眼差しを隼人に向けた。


   *   *   *


 一日中、川崎の言葉が耳に残って離れなかった。

 帰りの電車のなかでも、駅からの道の間もずっと10年前の事件のことを考えていた。もちろん考えたからといって思い出せるものでもない。

 ただ、胸の奥にはっきりしないモヤモヤした感じが心地悪かった。

「夕飯、まだなんでしょ? すぐに仕度するわね」

 家のドアを開けると、奈津子が鞄を預かりながら言った。奈津子の明るい声が、胸のなかにあるわだかまりを晴らしてくれる気がする。

 リビングに恵子の姿は見えない。いつも夕飯の後は部屋で宿題をすることになっている。

「今日、新聞記者に声をかけられた」

 上着を脱ぎながら隼人は奈津子に言った。

「新聞記者?」

 驚いたように奈津子が振り返る。「どうして?」

「なんでも磯部って人が死んだそうなんだ」

「誰なの? 知ってる人?」

「それが……孝雄の父親なんだそうだ」

 そう言って隼人はソファに腰を降ろすと、テーブルの上に置かれた新聞に手を伸ばした。

「孝雄さんって……」

 一瞬、奈津子は表情を暗くした。「でも、あの人のお父さんってあなたの――」

「ああ。ただ、孝雄の母親はその磯辺って人と結婚していたそうなんだ。つまり親父が寝取ったってことさ」

 隼人は川崎が話したように奈津子に説明した。「磯部って人と孝雄との間に実際には親子関係はないんだが、磯部って人はずいぶん孝雄のことを気にかけていたみたいだ」

「でも、それがあなたに何の関係があるの?」

「10年前の事件について教えてくれといわれたんだが、俺はその頃のことをほとんど憶えていない」

「どうして今頃になって……」

「その磯辺って人は孝雄がやったことが信じられないと言っていたそうだ。それでその人に事件について調べなおすように頼んだそうだ」

「そう……それで?」

「何も。事件のことを教えて欲しいといわれても、俺はあの時のことをほとんど憶えていないからな」

「……」

「おまえ、何か憶えてるか?」

「どうして?」

「俺も事件については知りたいと思ってる」

「あなた……」

「俺はあの時のことについて、何も記憶していない」

「話したはずだわ」

「正直言って俺にはまだ信じられないんだ。孝雄が……本当に俺のことを殺そうとしたなんて……」

「あなたが信じられないのも無理ないわ。あなたは孝雄さんのことを信頼していたから」

「もう一度あの時のことを話してくれないか?」

「どうして?」

「どうしてって――」

「もうその話はやめましょう。あれはもう終わったことなんだから」

「おまえは気にならないのか?」

「私が?」

「幸恵ちゃんのことだ。彼女が姿を消したのだってあの時からだ」

「あの子は関係ないわ。現にあの後、手紙だって来たじゃないの」

「そりゃそうだが……」

 そう言い掛けた時、ドアが開いた。

「あ、お父さん、帰ってきてたんだ。おかえり」

 恵子が隼人に声をかけながら、テーブルの上のテレビのリモコンのスイッチをいれる。たちまちリビングがテレビからの音であふれかえった。

「それじゃ、すぐに夕飯の支度しますね」

 奈津子はそう言うと、話を拒否するように立ち上がった。


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