記憶の陰・3
「浮気?」
同僚の田村俊一の言葉に隼人は思わず聞き返した。
「おまえ、気付かなかったか? 最近、おかしいと思ったんだ。課長の様子」
田村は声を潜めながら、難しい顔をして資料を睨む三沢課長のほうへ視線を向けた。
「本当なのか? 課長の奥さんが……浮気だなんて」
隼人もそっと田村のほうへ椅子を動かしながら言う。
「らしい。この前、奥さんと若い男と一緒にいるのを、総務課の女の子が見たんだそうだ」
「なんかの間違いじゃないのか?」
「まさか。課長の奥さんは時々会社にも来てるから見間違うはずないよ」
「でも、一緒にいたってだけで浮気っていうのも……」
「鈍い奴だな。それだけで噂になんかなるわけないじゃないか。もっと具体的に言えばホテルに入っていくところを見られたってことだよ」
田村は小さく笑いながら言った。どこか他人の不幸を楽しんでいるように見える。
「このこと課長は知ってるのか?」
「耳に入ったんじゃないか? 最近、妙に元気ないだろ?」
「ああ。それでこの前から浮かない顔をしてるのか。かわいそうに」
「いやぁ、お互い様ってとこだろ」
「どうして?」
「課長だって似たようなことをしてるってことさ」
「本当か?」
隼人は驚いて聞き返した。課長の三沢は今年45歳、まったくの仕事人間で、浮気などとてもしそうもない雰囲気を持っていた。
「本当だよ。男なら……いや、男も女も同じようなもんだろ。付き合いだした頃は、相手のことを想っていても、結婚してしばらくすると不満が出てきて、他の相手を探したくなる。おまえだってそうだろ?」
ニヤつきながら田村は隼人の肩を突付いた。
「よせよ」
「まあ、おまえんとこの奥さんは綺麗だからな。おまえがそういう気にならないのも無理ないか。でも、奥さんのほうはどうだろうな。おまえも気をつけろよ」
「うちは大丈夫だよ」
「どうしてそんなことが言える? 女なんてわからないもんだぞ。うちの女房だって――」
「なんかあったのか?」
田村は笑って――
「まさか。何もないよ。課長やおまえんとこの奥さんとは月とスッポンだからな。ただ、昼メロを見ちゃあ、やれあの俳優が素敵とか、ああいう恋がしたいとか言ってるよ」
「そんなの浮気でもなんでもないだろ」
「浮気願望は誰にでもあるってことだよ。うちの奴の場合は浮気したくても相手がいないってだけさ。あいつが浮気でもしてくれりゃあ、俺も綺麗に離婚出来るんだけどなぁ」
ゲラゲラと声をあげて笑い、その声に課長がジロリとこちらを睨む。
隼人は田村と共に首を竦めてパソコンの陰に隠れた。
(浮気か……)
奈津子に限ってそんなことがあるわけがない。いや、あの事故以前の奈津子ならば、そういうこともあったかもしれない。結婚前には何人の男友達がいたことも事実だ。だが、あの事故の後、奈津子は以前と変わりむしろ潔癖なほどに、そういうものを嫌うようになった。
ただ……
――友達に会ってきても良いですか?
その言葉にふと去年のことを思い出す。
3月20日。
理由は違ったような気がするが、確か去年も同じ日に奈美子は旅行に行くと言って出て行ったような覚えがある。そして、おととしも……ひょっとしたらその前の年もそうだったかもしれない。
浮気?
(まさかな……)
一年に一度の浮気など、ありえるはずがない。
心の片隅に生まれた疑惑を隼人は打ち消そうとした。
奈津子がそんな女でないことは、自分が一番良く知っているはずだ。そんなことを思いながら、隼人は奈津子と出会った頃のことを思い出していた。
* * *
沢松奈津子と出会ったのは隼人が27歳の時だ。
隼人の同僚の結婚式、そこに奈津子の妹の幸恵がいた。
幸恵は都内の市立病院で看護婦として働いていた。その性格は大人しく、披露宴の席でもあまり自分のほうから喋ろうとするタイプではなかった。ただ、ある出来事が隼人の注意を惹いた。
披露宴も終盤、新郎の親戚の男が酔っ払って花嫁に絡み出した。誰もがどうしていいか迷っていた時、幸恵がツカツカと男の前まで近づいていき、その男の頬を力いっぱいビンタした。
皆が唖然として静まり返るなか――
――どうです? 目が覚めました?
幸恵は呆然として佇む男に対し、ニッコリと微笑んで見せたのだ。
男はバツが悪そうに自分の席に戻り、その後、披露宴は落ち着きを取り戻した。その時の幸恵の堂々とした態度に隼人は感心させられた。そして、今時の女性にない何かを隼人は幸恵に感じ取り、隼人のほうから幸恵に話しかけた。その後、幸恵とも親しくなり、飲み会などで遅くなった時にはいつもマンションまで送っていった。それがきっかけで姉の奈津子とも知り合うことになった。
当時、既に奈津子たちの両親は他界しており、二人の姉妹だけでマンションで生活していた。奈津子はアパレルメーカーで働いていた。同じように両親を亡くしていた隼人にとって、奈津子たちの存在は身近なものに思えた。隼人は度々用事を作っては二人の元を訪れるようになった。
外見はそっくりだが、性格はまるで正反対の二人だった。
幸恵は普段から大人しく、物静かな性格だった。それでも自分というものを強く持ち、自分の意見を決して崩すことはなかった。姉の奈津子は明るく社交的で、積極的な女性だった。活発的で物怖じせず、奈津子のほうからデートに誘われることも多かった。
仕事柄、隼人が訪ねて行っても幸恵がいない時が多く、次第に隼人と奈津子の二人っきりで会うことが増えていった。
そんなある時、隼人は奈津子からプロポーズを受けた。
「女の私からこんなこというのも恥ずかしいんだけど、私と結婚してくれない?」
奈津子はそう言って真剣な眼差しで驚く隼人を見つめた。
結婚後、奈津子は子供が産めない体だということがわかった。医者は二人に向けてはっきりと言った。
「99%、妊娠することはないでしょう」
その日、病院から帰ってくると、奈津子は一人部屋に篭って泣き続けた。
「ごめんなさい。私のせいで」
慰める隼人に向かい、奈津子は泣きながら謝った。
父が愛人を作ったことで壊れた自らの家庭を憎み、新しい愛のある家庭を隼人が夢見ていたことを奈津子は知っていた。
「大丈夫。まだ1%の望みがある」
そう言って隼人は奈津子を抱き寄せた。
奈津子が自分にとってかけがえのない存在であることに変わりはなかった。それでも家庭を持つことが出来ないという事実に、隼人の気持ちは少しずつ変化していた。奈津子に対する愛情が薄れ、離婚を考え始めた頃、あの事件があった。
事件から1年後、恵子が生まれた。事件がなければ仕事を変わることも、引っ越すこともなかったろう。
それどころか奈津子と離婚していたかもしれない。
あの事件こそが二人の愛を取り戻してくれたのかもしれないと思うことがある。




