記憶の陰・2
晴天の日曜ということもあり、遊園地は家族連れで賑わっていた。
恵子は先頭になって、遊園地のアトラクションを次から次へと回っていく。一日中ディスクワークの隼人にとってはついて回るだけでも良い運動になる。今年で45歳。8歳の恵子にとって、自分はそれほど若い父親とはいえない。
夕方、少し早めに遊園地を出ると、途中、ファミレスで食事を済ませ、家に帰りついたのは午後8時を少し過ぎた頃だった。
恵子は日中はしゃぎすぎたせいか、帰ってくる頃には眠そうな顔をして、家に帰ると風呂にも入ろうともせず、眠い目を擦りながら真直ぐに部屋へと向かっていった。今頃はもうベッドで熟睡していることだろう。
ソファで寛いでいると、奈津子がコーヒーをいれて持ってきてくれた。
「疲れたんじゃない?」
「ちょっとね。さすがに俺も年なのかな」
笑いながらテーブルに置かれたコーヒーカップに手を伸ばす。「でも、あれだけ喜んでくれると、また連れてってやりたくなるな」
「良いお父さんね」
小さく微笑みながら奈津子は隼人の前に座った。
「まあな。良い旦那だろ?」
笑いながら熱いコーヒーを啜る。
「そうね。じゃあ、その良い旦那さんにちょっとお願いがあるんですけど」
「何? 改まってお願いなんて言われると、ちょっと怖いな」
「来週の日曜なんですけど、友達に会ってきても良いですか?」
「来週? ああ、そっか。3連休なんだな」
隼人は壁にかけられたカレンダーを眺めて言った。日曜日が祝日のため、月曜が振替休日になっている。
「いいかしら?」
「友達って?」
「高校の時の友達。仙台で会うことになってるの。1泊しても良い?」
奈津子は宮城の出身で、仙台の大学を卒業している。どんな友達がいるのかは詳しく聞いたことがないが、きっと仙台に住んでいる友達も多いのだろう。
「いいよ。ゆっくりしてくるといい。恵子はどうするんだ? 一緒に連れて行くのか?」
「ううん。友達の家に遊びに行きたいって」
「泊まるのか? 誰? まさか男の子じゃないだろ?」
「違うわよ。同じクラスの子。及川みどりちゃんって言うの」
その名前なら時々恵子から聞いている。
「迷惑じゃないのか?」
「奥さんも遊びに来ていいって言ってくれてるの。いいでしょ?」
「じゃあ、家には俺一人か」
「寂しい?」
少しからかうように奈津子は言った。
「いや、たまには一人で一日を過ごすっていうのもいいもんだと思ってね。独身の頃を思い出してみるよ」
冗談のように言い返す。
「なんか無理して言ってるみたいよ」
「そんなことないよ。おまえだって毎日家にいるのも退屈だろ。たまには羽を伸ばしてこないとな」
「ありがとう」
「なあ、今度、二人で旅行にでも行ってみるか?」
「旅行? どうしたの急に?」
「結婚してからどこにも行ってないだろ」
「……そうね」
「どこが良い? 北海道……九州……ああ、京都なんかも良いかもしれないな」
「京都? 良いわね。私、京都には行ったことがないから」
奈津子が嬉しそうに目を輝かせた。だが、その表情に隼人は何か引っかかるものを感じた。
「そうだったか?」
「どうして?」
「前に一緒に行ったことがあるような気がするんだけど……」
「え? そうだった?」
「……結婚前だったかな」
ズキリと額の辺りが傷む。
思わず顔をしかめて手を当てるのを、妻の奈美子が心配そうに見つめた。
「また頭痛?」
「うん、ちょっとね」
「大丈夫なの?」
「いつものことだよ」
「無理しないで。昔話は止めときましょ。少し横になってたほうがいいわ」
「……ああ」
奈津子に言われるままにソファに身を横たえる。昔のことを思い出そうとすると、すぐに頭痛が酷くなる。特に10年前のこととなると尚更だ。
10年前、隼人はある事件に逢っていた。
それは腹違いの弟による殺人未遂事件だった。
* * *
隼人の父は印刷会社を経営していた。経営といっても社員はほんの3人程度しかない小さなものだった。それでも朝から晩まで、汗と印刷油にまみれて働く父親を隼人は子供ながらに尊敬していた。
――隼人君はお父さんに良く似ているわね。
そう言われるたびに、嬉しさが心のなかから湧き上がってきた。
だが、ある夜を境に隼人の心は一変した。
隼人が大学に入学して間もない頃、父は一人の学生服を着た中学生を連れて帰宅した。その少年の顔を見た瞬間に隼人は嫌な予感を感じた。
その少年は隼人自身が驚くほど隼人に、そして、誰よりも父に似ていたのだ。
驚く隼人を前に父はこう言った。
「これはおまえの弟の孝雄だ」
一瞬、父が何を言っているのか理解出来なかった。母が唇を噛みながら、その少年を睨んでいる。その目にわずかに涙が浮かんでいるのが見えた。
孝雄もまた困ったような表情を浮かべながら、ずっと俯いたままだった。そんな孝雄の肩に手をおきながら、父はさらに隼人たちに向かって言った。
「別におまえたちにどうしてくれと言うつもりはない。ただ、孝雄の存在を知っておいたもらいたかっただけだ。こいつの母親は3年前に病死している。こいつにとって肉親といえるのは、俺とおまえだけだ」
そんなことを言われても、とても理解出来るはずがなかった。父がずっと母や自分を欺いていたことに隼人は憤慨した。長い間、父を尊敬し、理想としてきた隼人にとって、その行いはとても許せるものではなかった。
隼人はすぐに家を出ると、働きながら学費を稼いだ。時々、父から連絡があったが、隼人はそれに応えることなく無視し続けた。
それから間もなくして父は首を吊って死んだ。後から聞いた話だが、父は既に肺がんの末期の状態で、死を待つような状態だったらしい。父が愛人との間に出来た子供のことを自分たちに告げたのは、自らの死を覚悟していたからかもしれない。
それから1年後、母もまた父の後を追うように病死した。
腹違いの弟である国松孝雄と再会したのは、会社に就職してちょうど10年が過ぎた時だ。隼人が勤める部署に中途採用の新人として連れてこられたのが孝雄だった。それはまったくの偶然で、孝雄のほうもそこで隼人が働いていることは知らなかったようだ。
孝雄のことを意識しないように心がけた。だが、やはりそれは無理というものだった。同じ職場にいる限り、どうしても孝雄の存在を気にかけてしまう。精神的にチグハグになり、仕事でミスを繰り返した。
隼人は思い切って孝雄を飲みに誘った。もし、お互いを認め合うことが出来ないのなら会社を辞めることも考えるつもりだった。
飲み屋に着くと共に孝雄が頭を下げた。
「申し訳ありません。こんなことになるとは思っていませんでした。ご迷惑なのはわかっています。もし、君島さんが望むのなら明日にも辞表を出します」
その孝雄の態度に一気に溜飲が下がった。
罪を作ったのは父であり孝雄ではないのだ。
これまでの孝雄への憎しみは、逆に信頼へと変わっていった。既にお互いが両親を亡くし、お互いこそが最後の肉親であるという気持ちが、二人をより近づけたのかもしれない。孝雄のほうもまるで父親でも慕うかのように、隼人を兄として慕ってくれた。
当時、結婚して間もなかった妻の奈津子の妹である幸恵を紹介したのも隼人だった。
そんな孝雄が突然、隼人を車に乗せたまま埠頭から海へ飛んだ。
隼人はなんとか難を逃れ、岸にたどり着くと駆けつけた警察官に、薄れゆく意識のなかで孝雄が自分を殺そうとしたのだと告げた。
なぜ孝雄が隼人に対して殺意を持ったのか、それは今でもわからない。そもそも隼人には事件前後の記憶がないのだ。
事件後、一週間もの間、隼人は意識を失ったまま眠り込んだ。
その後、警察からも事件のことをいろいろ訊かれたが、事件の時の記憶は戻ることが無かった。ただ、海で溺れるような夢をたまに見ることがある。あれはあの時の記憶をわずかに思い出しかけているからかもしれない。
隼人が孝雄と海に落ちた同じ頃、孝雄の恋人だった奈津子の双子の妹である幸恵が姿を消した。幸恵は友人と共に新潟に旅行に行っていたのだが、その夜、突然、一人で帰ると言い出しそのまま行方がわからなくなった。
隼人の殺人未遂事件と関係があるのではないかと、警察も彼女の行方を捜したが、未だに見つかっていない。




