書庫の事 了
中教授は完全に虚を突かれたようで、目を見開いて硬直してしまった。半開きで固まった口元が、彼の驚愕を如実に表していた。
真面目に、正直な気持ちだった。私は分からないのだ。分からないのだから、分からないと答えるしかない。
そもからして、私は主上を信仰して彼女の側に居る、と言い辛い。当たり前だ。私が聖皇御役になった理由は、私自身が未だ理解し切れていないのだ。あの日に大神仕が言った「私に利用される「立場」が一体何であるかは、君が理解せねばならぬ」という言葉は、未だに私の中で意味を持たずに渦巻いてた。さらに言うなら、私が神仕になった理由も、新聖皇派になった理由も、動機が不純に過ぎてお話しにならない。中教授の言う「悪」が「悪」でないとしたら、正しく私が「悪」なのだろう。
そして、何より彼の言う「聖女」が分からなかった。それは何より主上自身の性格がそうさせているのかも知れない。万人に対する「聖女」でも主上ではない、天真爛漫と言っても良い、ただの本好きな少女になった彼女を見ているから、そう思えないのではないか、と思っている。
とにかく分からないのだ。呆けたままの中教授に、私は身振り手振りまでまじえて、必死にそう主張した。疲れるまで必死で言葉を並べ立て、少し息継ぎをしていると、中教授はぽつりと呟いた。
「そうか」
納得したのかそうでないのか良く分からず、私はまだ黙っていた。中教授はそれきり虚空の一点を見つめたままぼんやりとしていたが、唐突ににやりと笑い、ぼやけていた目の焦点が不意に定まった。そして、肩を震わせて高笑いを始めた。
「ふふ、ふっふ、ふは、ははははははははっ!」
全く唐突な出来事だったので、今度は私が固まる番だった。中教授はさんざん笑い、ひたすら笑い、延々と笑い続けて、またいきなりぴたりと黙った。そして、急に机の上にあった書類を跳ね飛ばし、最初に落とした木簡を拾い上げて、ものすごい速度で筆を墨壷に放り込み、取り出すや否や書き始めた。
あまりに早いのと字が流麗であるのが相まって、ただうねった線のような文字群が流れていくのを私は見守るしか無かった。数刻立っても筆は止まらず、中教授に宿った恐ろしいまでの情熱は全く冷める様子も無く、彼は淡々と文字(というよりは最早絵だった)を木簡に綴り続けていた。大きな束になっていた木簡群は、そろそろ無くなりそうである。そして、私に気づく気配は皆無だ。
仕方ないので、私は跳礼して部屋を辞した。結局、高笑いした後の中教授は一言も発さなかった。
彼は、まあ大丈夫だろう。私には仕事ができた。
実を言うと、私は忍び足が得意である。
コツを知っている、というのだろうか、とにかくこの芸(芸という事にする)で危機的な局面を乗り切った事すらあるし、あるいはちょっとした笑いのタネにした事もある。どんな場所でも音を立てずに歩ける、というのはちょっとした自慢だ。存在感の薄さも相まって「幽霊のようだ」とからかわれるが、まあ、褒め言葉という事にしている。
だから、私は蝋の引いてある扉を音も立てずに開け、忍び足のまま書庫の裏手に回った。
予想通り、あの下男が節を抜いた長い竹筒を耳に当て、二階の音を聞いていた。
私には全く気づかなかったようで、声をかけると彼は目玉が飛び出るのではないかというくらい驚き、地面を蹴っ飛ばしてひっくり返り、後ずさった。
最初から怪しかったのだ。私をここに連れて来た時はさっさと帰ってしまったし、あらゆる箇所が古くて軋む書庫の中で、唯一表の扉には蝋が引いてあって音がしない様になっていた。つまり、書庫にこっそり入りたい輩がいるという事だし、書庫の中身に用があるということだ。そこに中教授の身の上が加われば、中教授は監視されている、と考えるのが妥当だ。
完全に動転し切っている下男に全てを話す様に言うと、彼はがくがくと頷き、震える声で許しを請いながら全てを話した。それは大体私の予想通りで、中教授が何も喋らないか監視する事、喋った場合は速やかに彼と話し相手を殺す事、それら全てが南方大堂の指示である、という事だった。
ここまではいい。さて、次だ。
彼の話を、出来るだけ無感情に告げると、大教授は脂汗を流し、口元をもごもごと動かしていた。
これもまた当然の話で、あの場で下男に案内を指示した大教授が状況を知らないはずが無いし、つまりこの件に加担している、という事だ。
そして、それは彼と南方大堂の間に連絡があった、という事でもある。恐らく、中教授が「聖都に連絡が行っていない」と言ったのは事実ではなく、彼がそれを伝えられていなかっただけなのだろう。南方大堂は密かに大教授に連絡を取り、こちらの繋がりを利用して、新たな「聖女」を奉じた中央進出を目論んでいたのだ。
それが失敗した理由は単純で、その「聖女」が死んでしまったことだ。だから彼らは諦めざるを得なかったし、箝口令も敷いた。ただし、全てを知った上で最初からこの件に反対していた中教授は、彼らにとってまったく致命の弱点と化した。だから、彼を聖都に送ったのだ。南方で殺せば足が付く可能性があるし、内乱直後の聖都ならどさくさに紛れる可能性もあった。また、喋らないのなら放っておけば良かっただろう。その確率は低く、実際こうなってしまったが。
が、中教授が書庫に引きこもってしまったため、簡単にどうこうするわけにはいかなくなった。だから待っていたのだ。彼が誰かにこの話をしてしまう瞬間を。私が来たのは、正に渡りに船だっただろう。現聖皇派の重鎮(私にそのつもりはあまり無いが)が単独でやってくれば、彼の口も滑りやすいだろうし、何より私も一緒に殺してしまえるのだ。聖皇の側付で、彼らの敵である私を。
私の考えをかいつまんで話すと、湧流貴族出身の大教授は汗でぐっしょりと濡れた首周りを震える袖で拭いて、何か言い訳をしようと口を開きかけた。
が、その言葉を言う機会は失われた。私の背後にある扉が大きく開いて、帯刀した衛士が数人、どたどたと踏み込んで来たからだ。その先頭には、あの運命の夜に、私の元に聖皇降命を携えて来た頭巾の男がいた。
「大教授殿、貴殿を聖皇猊下に対する謀反の疑いで逮捕致す。連れて行け」
完全に生気を失った大教授は、呆けた顔のまま抵抗もせず、衛士達に引きずられるようにして出て行った。
「御役殿、お手柄でしたな」
頭巾の男は面白そうな口調で私にそう言った。私は答えず、跳礼して頭を下げた。彼は頭巾の中で小さく笑い声を上げた。
「南方大堂には手出ししませぬ。大教授殿の首一つで理解するでしょうから。勿論、同じ事を考えるような輩もね」
彼はそう言うと大仰に一礼して、踵を返し衛士達を追って行った。私は、その場に立ち尽くしていた。
思えば書類の件から不可思議だったのだ。書庫の増築、という案件が主上の処理すべき案件であるはずが無い。そんな物が主上が目を通す書類群に混じっていた、という事は、それが好奇心旺盛な主上の目に留まらなくてはならない理由があったからだ。つまり、動けない主上の代わりに動く「足」が必要だった、ということだ。
主上が関わっているのか、大神仕が関わっているのか、はたまた大堂内部の誰かが関わっているのかは分からないし、現状では分かりたくない。確率は低いが、あるいはたまたまかも知れない。というより、そういう事にしたい。
何より、ひどく疲れてしまった。
「大教授が罷免された。理由を知っているかね」
中教授は開口一番そう言った。私は首を横に振って、肩をすくめてみせた。彼はそうか、と小さく言って、私に花茶の入った茶碗を差し出した。
私はそれを受け取って礼を言い、ついでに書庫の改築が決定された事を告げると、彼は感嘆の声を上げた。
「それは良かった。早速本の分類整理をしなくては」
それからしばらく、私も中教授も黙って花茶を啜っていた。先に飲み干した中教授は、ふと目だけを上げて、私を見据えた。
「この間の、その、主上の話なのだが」
彼は少しだけ逡巡して、口の端をちょっとつり上げて笑った。
「分かった。完全に分かった。感謝する」
私も微笑み返すと、彼はまた無表情に戻り、照れくさそうに視線を逸らして窓の外に目をやった。
綺麗に染まった青い空に、茶碗のような雲が一塊だけ浮いていた。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載七話目の投稿となります。
書庫の事、というか中教授編?はこれで終了です。彼には今後も登場してもらう予定です。
何だか強引なオチでしたが、如何だったでしょうか?
感想等ありましたら、宜しくお願いします。
ぐんぐん喜びます。