書庫の事 参
これもまた、唐突な話だ。
なんと答えようか、というよりはどういう意図なのか考えていると、中教授は静かに姿勢を正した。
「不敬である事は分かっているつもりだ。御役殿の立場があるのも分かる。だが、ここには私と御役殿しかいない。私は、知りたいのだ」
真摯な声で彼は言い、私は気圧されて、思わず視線を手元の茶碗に向けた。どうにも、私の周りには好奇心の強い人が多いようだ。
取りあえず顔を上げ直してみると、中教授はまだ私の事をじっと見つめていた。が、すぐに目を伏せて、実は、と呟いた。
「私の故郷で、ある事件があった。自分の家にも「聖女」が降臨した、と宣う家族が現れたのだ。私はここに赴任する前で、南方大堂の学舎で小教授として働いていた。それで、そこの神仕達と一緒に真偽を確かめに行った」
初耳だ。そんな事があったのなら、聖都に連絡があっても良さそうなものだが。
「その家族は茶摘みで生業を立てる貧しい一家で、子供が八人もいた。その末の子が「聖女」だと、私たちにすがりつくように主張して、私たちを一番奥の部屋に通した」
中教授の声はいつの間にかひどく低くなっていて、かすれていた。
「そこには幼い女子が寝ていて、下半身は布でくるまれていた。私の上司だった神仕がそれを取ると、確かに両の足が腿までしか無かった。そして、私は一目でその女子が断じて「聖女」ではない事が分かった」
彼はそこで一旦言葉を切って、茶碗に残っていた花茶を一気に飲み干した。それから少し間を置いて、伏せていた目を上げた。
ひどく疲れたような表情だった。
「腿の断面はひどいもので、ぐずぐずに腐って蛆が湧き、少女は、文字通り、虫の息だった。誰の目にも明らかだった。この少女の足は、断ち切られたのだ、と」
絶句する私の前で、中教授は下唇を噛みながら、しばらくの間黙って茶碗をいじっていた。それから、小さくため息をついて、また私の方を向いた。
「家族は元からこうだったと主張し、自分たちを「聖女」の家族として保護するように求めた。神仕は、それを」
受け入れた、のだろう。
視線で私が理解した事が分かったようで、中教授は微かに唇の端を持ち上げた。
「私の主張、要するに最初からその家族を信用せず「聖女」認定もしない、という主張は当然聞き入れられなかった。だが、その「聖女」は聖都に連絡を入れるまでもなく、数日の後に死んだ。足の腐肉から毒が回ったのだろう。家族は狂った様に泣き叫んだが、神仕は容赦なく彼らを大堂から叩き出し、箝口令を敷いた。少女の遺体がどうなったか、家族がどうなったかは私には分からない」
彼はもう一度ため息をついて、目を閉じた。
「本当に下らない数日間だった。私は少女が死んだ次の日に転属を願い出て、全てを忘れ、誰にも言わない事を条件に教授の号を賜り、ここに赴任した。……ということだ」
小さな声でそう結んだ中教授は、ゆっくり立ち上がって私に背を向け、花茶をもう一杯注いで、私の方を肩越しにちらりと見た。
「いるかね」
黙って茶碗を差し出し、彼が受け取り、また小さな水音がして湯気が立ち、私の元に差し出され、私が受け取る。この間、私も中教授も一音たりとも発しなかった。中教授は椅子に座り直して、花茶を傾け、呟く様に言葉を紡ぐ。
「私は間違った事をしたのかも知れない。もっと強硬に主張して「聖女」認定をさせるべきではなかったのかも知れない。が、私は抗い切れなかった。正しい事を出来なかった。……茶摘みで生計を立てる彼らの生活が、どれほどの環境であるかを知っていたからだ」
私も、流土民時代に日雇いの茶摘み人として働いた事があった。暑い中、広大な茶畑の中を腰を曲げて歩き、茶の若葉を一枚一枚丁寧に摘んで、籠に入れる。一杯になるまで摘むのに丸一日かかって、稼いだ金は極々僅かだった。小さく頷くと、中教授は自分の茶色く染められた着物をちょっと広げてみせた。
「この通り、私は土の民だ。水神によって清められるべき不浄の土塊だ。元は南方の茶畑で鍬を振るう農民だ。まだそこそこの家だったからこうして学問を修め、神仕として聖水を拝してここにいるが、結局は彼らと変わらぬ」
中教授はまた自嘲気味に微笑んで、すぐに無表情に戻る。しかし、額には深い皺が刻まれていた。
「彼らは欲を持って我が子の足を斬り落とし、大堂の保護を求めた。それは当然の如く罪だ。許されざる悪行だ。だが、私はそれが、許されぬと、分かって」
だんだんと声が小さくなって、最後の方は殆ど聞き取れなかった。彼は俯き、黙ってしまった。なんと言って良いか分からず、私は湯気の立つ茶碗を握りしめていた。しかし、彼が何を言いたいのかは、何となく理解した。
数分の間、彼は身じろぎもしなかった。ゆっくりと顔を上げた時には、額の皺も失せ、静かな無表情をたたえていた。
「御役殿。私は主上を信じている。信仰している。それは確かだ。ただ、それは主上が「聖女」であるからではない。足が無いくらいで「聖女」になれるのなら、世の母親はすべからく娘の足を斧で斬り落とすだろうよ。私の見た家族の様にな」
彼は吐き捨てるようにそう言い、腕を組んだ。
「主上は生まれながらにして大地を踏む足を持たなかったのだ。故に聖女、故に主上たりえる。……何より、主上は聡明であらせられる。立派な方だ。拝謁する機会には恵まれていないが、方々の噂で判断出来る」
それには全面的に同意出来るので、私は深く首肯した。彼も軽く頷いて答え、机に肘をついて、私を見た。
「……主上とあの薄暗い部屋の中にいた少女が、全く違う者である事を分かっているはずなのに、それを信じる者は、全く同じなのだ。あの茶摘みの一家は「聖女」を信仰するが故に娘を「聖女」に仕立てた。それは「聖女」を信仰する事だ。彼らは「聖女」を信仰するからこそ、彼らはあのような悪行を為した。否、分かるのだ。彼らは水教を、水神を信仰する事をやめ、ただ「聖女」を信仰するだけの民になってしまったのだ。だがしかし、それは果たして「悪」なのか? そうだ、私は水教を、水神を、その使徒たる主上を信仰しているのに、私は「聖女」を信仰する事が出来ぬ。出来なくなってしまった。故に、せっかく念願叶って聖都大堂に来ても授業をする事無くここにこもりきりだ。笑ってくれて構わない、巫山戯た論理で戯けた思考で、まるで児戯のような問答だ。それは私が一番理解している」
言葉の氾濫に飲み込まれ、私はただ黙って中教授を見つめるのみだった。彼は確かにこちらを向いていたが、その瞳に私が映っているのかどうかは判然としない。
「私には分からぬ。もう、分からないんだ」
中教授は言葉を切って、暑そうに襟首に手をやり、ばたばたと震わせて胸元に空気を送り込んだ。そうして一呼吸置き、小さな声を吐き出した。
「だから尋ねるのだ、御役殿。御役殿は主上を、いや「聖女」を、どう考えているのか」
彼の目は非常に真剣で、ひどく冷めている様にすら見えた。
だから、正直に言った。
分からない、と。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載六話目の投稿になります。
予定から遅れてしまい、申し訳ございません。お楽しみ頂ければ幸いです。
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