或る日の壱
主上は、足の無い姿で生まれてきたらしい。
これは大変な事で、生まれた当初は恐ろしがられ、そのまま殺されかねない勢いだったと聞いている。当たり前だ。いきなり足の無い子供が生まれたら、誰だって焦るだろう。
しかし、前の大神仕(当時は正神仕だったが)がその子供を見つけ、水神によって召され、汚れた大地を踏む事の無い身体を持つ「聖女」であると宣言した。噂はあっという間に広がり、彼が多くの信者と強力な後ろ盾を得た彼女を奉じて中央に進出したのは記憶に新しい。
不思議なのは、彼女の生家についての情報が全く無い事だった。地方に点在している湧流貴族か、あるいは上流貴族であると推察され、利益を独占するため前の大神仕によって家系断絶の憂き目にあったとか色々な悪い噂も飛び交ったが、主上となった今ではそんな事を言う者はいないし、死人は何も語らない。
何より、彼女は神々しい。姿は勿論だが、特にその美声は聖歌で人を魅了する力を持っている。聖女の降臨以来、信徒も寄付金も増加の一途をたどっているのだから、文句を言うような輩もいない。褒められた事ではないが。
……しかし、彼女の中身はというと、なかなか奇矯であった。
「おはよう!」
朝、寝殿に参じると、彼女は大抵の場合もう起きていて、元気に挨拶する。最初の頃は朝の口上を述べていたのだが、ほぼ聞いていないようなので、最近は跳礼で済ませている。枕元には昨晩私が置いていった本が積んである。彼女はとにかく本を読む。それはもう、色々だ。物語も教義本も、木簡から紙の本まで、大陸由来の物も区別無く読む。どうやら大堂にある書庫の中身はほぼ網羅しているらしい。
「これはね、面白くなかったわ。あ、こっちはまだ読み終わってないから置いといて。ああ、それとこれは続きがあるみたいだから今晩持ってきてね!」
矢継ぎ早に本を示し、私が頷くと、次は朝餉である。小柄な主上は小食で、朝は粥の一杯以上を食べようとしない。しかし、そういうわけにはいかないので茹でた菜とか、蜜を溶いた湯とかを、割と無理に食べさせる。
「美味しくないんじゃなくて、お腹が一杯なんだけど」
涙目一歩手前の表情で言う主上に、最初の頃は私も怖じ気づいてなかなか食べさせられなかったが、饗応処の神仕が毎日非常に心配そうな顔で粥の椀を受け取るのを見て、この部分だけはなんとかしようと頑張っている。おかげで主上は多少なら食べるようになったし、饗応処の神仕もほっとしているようだ。
今日は、塩で漬けた柔らかい若菜がちょこんと小皿に載っていた。
「……しょっぱいね」
彼女は二口ほど食べて感想を述べ、後はひたすら粥を食べていた。まあ、及第点だろう。
朝餉が終われば、髪の手入れなど身だしなみを整える作業になるが、主上は頑なに私がやる事を拒否する。
「いいの! 自分でやるからそこにいて!」
朝餉の後なので私も強くは出れず、結局いつも御簾の向こうで髪を梳る主上をぼんやりと見ている事しか出来ない。ぬるま湯の入った桶と柔らかく織った布巾を渡すと、それで顔を洗う。歴史上には女性の聖皇の記録が二つほどあり、彼女達は朝の手入れにそこそこ時間をかけていたらしいが、主上はあっさりと終える。化粧もしない。いいのだろうかと不安になって聞いてみたのだが、彼女はきっぱりと答えた。
「面倒だもん」
……本当にこれでいいのだろうか。
今日は朝の儀式がある。彼女は勿論歩けないので、輿が用意される。彼女が高寝床から面倒くさそうに這いずって乗り込むと、輿はゆっくり持ち上げられる。担ぎ手は四人の若い神仕で、私はその横を付いていく。
主上は輿の上でも本を読んでいて、私は「おかわり」を二冊ほど小脇に抱えている。今日はどうやら献立本を読んでいるらしく、彼女は食い入る様にして頁をめくっていた。
「これ、夕餉に出せないかしら?」
そう言って横の私に本を差し出すと、開かれた頁には蜜菓子の作り方らしき物が載っていた。饗応処に確認してみなくては分からない旨を告げると、彼女はそのまま私に献立本を持たせてにっこり笑った。
「よろしくね」
深く頭を下げ、それから視線を戻してみると、彼女は心無しか頬を膨らませていた。理由は分からないが、取りあえず「おかわり」を渡す。すると機嫌が良くなったようで、今度はそれを開き、鼻歌まじりで読み出した。輿を担ぐ二人の神仕は無言だが、ちらちらと私の方を見ている。……なんと言うか、いたたまれない風な視線なのは私の気のせいなのだと信じたい。
正殿にある祭壇に着く頃には、主上も本を閉じ、すっかり無表情で「聖皇猊下」の顔つきになっている。静かな湖面の如き顔は、先ほどとはまるで別人だ。輿が下ろされ、彼女が祭壇の上に座ると、大神仕以下高位職に就いている神仕達が祭壇の下にある扉から入ってきて整列し、全員で跳礼する。
私は、主上の座る祭壇の後ろでじっとしている。跳礼はするし口上は述べるが、基本的にはじいっと儀式の進行を待つ。
時期も時期なので儀式はさっさと終了し、神仕達が退出していって、輿が来ると主上は疲れた顔で乗り込み、寝殿に着くまで一言も発さなかった。
輿持ちの神仕がいなくなると、高寝床に収まった彼女は大げさなため息をついた。
「疲れたぁ」
座って口上を聞いているだけなのだが。
「のぺーっとした顔のままでいるのが疲れるの!」
私の言わんとする所が分かったらしく、主上は頬を膨らませた。いまいちしっくり来ない表現だが、多分無表情の事を言っているのだろう。
どうも私は思っている事がすぐに顔に出るようで、主上は「疲れてるもん!」と両腕をぶんぶん振り回して抗議し、勢い余ってその場に転げた。一瞬吹き出しかけてしまったが、何とか堪える。
「もう! もういいから次の予定教えて!」
転げたまま足、否、腿をばたばたさせる主上に次の仕事を伝えると、彼女はさらに嫌そうな顔になり、動きを止めた。
「……それ、本当にやらなきゃ駄目?」
頷くと、主上は答えず、小さくため息をついた。
正殿で行われた祈祷集会は満員で、入りきれない民衆は大堂の外でそれぞれ跳礼したり、何かを大声で唱えたりしていた。皆、主上を一目見ようと集まっているのだ。
彼女は対外に於いて完璧な「主上」だった。微笑して自らの人差し指に口づけ、その指を水盆に注がれた聖水に浸すだけで、熱狂的な歓声が大堂を支配し、集まった人々はこぞってひれ伏し、一雫でも頂こうと我先に群がるのだ。
私もこの光景はあまり好きではない。が、少なくとも主上を必要としている民衆がいるのだ。そして、それは主上にも必要なモノだ。
大神仕の言った通り、主上の立場は未だ危うい。今は湧流貴族側の不満を大神仕が受け止め、上流貴族側の専横は古参の聖皇派が(大神仕と協力して)食い止めているが、いつ天秤が傾くとも限らない。主上の支持基盤は、誰より「聖女」の降臨を喜んでいる多くの民衆なのだ。それによってもたらされている多くの利点があるからこそ彼女は主上になれたのであり、主上でいられるのだ。
それでもその夜、彼女は部屋に戻ると、不機嫌そうに本を開いてそこに顔を突っ込み、ぶつぶつ何か言っているのだった。
「救われたいっていうのは分かるんだけど、救われたいって思うのは違うと思うの」
彼女は私にそう言って嘆息した。意味が分からず黙っていると、彼女は続けて「私に向かって「救え」って命令するんなら分かるんだけどね」と呟き、大きくため息をつくと、横になって目を閉じた。
「ところで、夕餉に出たお菓子の事なんだけど」
朝頼まれた蜜菓子に関しては、珍しく「食」に興味を示した主上に喜んだ饗応処が全力を挙げたため、大変美味しく完成して、主上に出されていた。饗応処をまとめている隻眼の老年神仕によると、北方の流土民よりもたらされた特殊な製法の蜜と東方産の小麦粉を使った、珍しい菓子であるという事だ。
「凄く美味しかったね」
主上は目を閉じたまま静かにそう言って、薄く微笑んだ。
この時ばかりは、あらゆる期待と欲望を一身に背負っている主上が、本を読んで笑ったり軽口を叩いているときよりも年相応の、儚い少女に見えるのだった。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載三回目の投稿となります。
いまいち話の進まない回となってしまいましたが、こんな日常パートのような物も挟みつつ進めていきたいと思います。
感想等ありましたら、宜しくお願いします。
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