御役降命
当然の事だと思っているが、私は呆然としてベッドに腰かけたまま朝を迎えた。色々な感情がぐるぐる巡っていたが、しかし一番考えていたのは「何故」だった。私は大叔父の関係で湧流貴族と関係があったかも知れないが、新しい大神仕とは面識が無い。また、上流貴族に組したがまだ関係が浅く、聖皇御役などという大役に抜擢される理由が全く思いつかない。
そもそも「聖皇御役」は役職としては絶えて久しい。私の知る限りでは、私の生まれる前から任じられた人はいないはずだ。仰々しい名前は付いているが、要するに聖皇の側仕えである。大神仕がその任を負う事が多いのも当然だろう。しかし、大神仕は高齢だ。若い新聖皇の側仕えを行うには、体力の問題があるのかも知れない。……まあ、私が若いというわけでもないのだが。
とにかく、理由は分からないが行かなくてはならない。今日もいい天気である事を窓から確認し、部屋を出た。冷えた廊下を静かに進み、大堂の中庭に出ると、中央に設置された大きな水盆の周りでは、薄青色の服を着た神仕や白い服を着た神仕助が跳礼をしたり、水を掬って口を清めたりしている。いつもと変わらない朝の風景だ。私の心境以外は。
大神仕の執務室は、大堂の端にある高楼の中だった。大きな扉の前には帯刀した衛士がいて、私を見るとさりげなく柄に手をかけ、低い声で誰何の声を上げた。名乗ると彼は思いのほか丁寧に頭を下げ、脇に退いた。内乱は終わったがやはり上層部は武装蜂起を警戒しているらしく、この大堂でも、一部の帯刀が許されない区域以外には衛士が配備されている。勢力を減衰した湧流貴族には未だに復権を狙う者もいるようなので、これもまた当然だろう。扉を叩いたが、返事は無い。
「お入りになって下さい。大神仕様の許可は得ています」
衛士はぼそりとそう言い、私に代わって扉を開けてくれた。
大神仕は湧流貴族出身で、代々東方諸県を統括する東水総責の一族として大神仕助の地位に就き、中央との結びつきも強かったが、何分穀倉地帯である東方諸県には衛士団や農民の揉め事も多く多忙であったため。長く中央の役職と縁が無かった。しかし、内乱が始まると湧流貴族によって聖都に呼び戻され、戦が起きている間は彼が窓口となって各衛士団、そして大堂内の各派閥との折衝を行ってきた。そして戦が終わり、新聖皇派の大神仕が亡くなると、和平を進めた湧流貴族穏健派の支持と政治力、何より彼自身の人徳によって大神仕に就任したのだった。
「ご苦労」
私の目の前にいる老人は、無感動にそう言った。深く皺の刻まれた細面は常に険しく、どことなく棘があって正視し難い。小柄な肉体は猫背気味で、法衣は何となく大きすぎるようだ。禿げ上がった頭には一部の高位湧流貴族しか着ける事を許されない群青色の頭巾を被っていて、彼にも聖皇後継権がある事を示している。薄暗い部屋には蝋燭が一つだけ立っていて、一杯に書類を広げた大きな机を照らし出していた。私が参上の口上を述べ、跳礼すると、彼は右手の指でとんとん、と机を叩いて略礼し、そして、少しずれた袖を引っ張って伸ばし整えた。神経質な人なのだ。
「ここに来てもらった理由は、昨夜理解したと思う」
理解したかは怪しかったが了解はしていたので、私は頷いた。大神仕は上目で私を見据えると、ゆっくり口を開く。
「聖皇御役はここ数十年空席で、主上のお世話は湧流貴族の子弟から選抜された池子連が行っていた。しかし、今の主上は、なかなか」
大神仕は珍しく言葉を濁し、小さな瞼を閉じて、左手で指輪を玩ぶ。
「……そういうわけにはいかぬ。特に今は、だ。主上の立場は未だ弱い。前の大神仕が亡くなり、私がこの地位に座った今、あの御方の庇護者は無きに等しい」
なるほど、それはそうだ。しかし、私が選ばれた理由は未だに良く分からない。
勇気を出してこの疑問を口にしてみると、大神仕は目を開け、木の枝のような指に指輪を嵌め、のっそりと立ち上がった。見た目はひ弱な老人だが健脚で、杖をついている所は見た事が無い。
「行こう。主上にお会いせねばならん」
大神仕の後ろに着いていく形で、私は初めて主上のおわす寝殿に足を踏み入れた。今は人払いがしてあるらしく、誰もいない。聖都内乱では大堂もあちこちが破壊され、堅牢な石造りの正殿も一部が火災で崩落し、今は少しずつ修理が進んでいる所だったが、最奥にある平屋の寝殿には一切の被害が無かった。いや、被害があったらまずいものなのだが。
「私は、君の立場を利用する」
大神仕の言葉は、実に簡潔だった。
「私に利用される「立場」が一体何であるかは、君が理解せねばならぬ」
素っ気ない響きを残して彼は立ち止まる。執務室の物よりさらに大きく重厚な扉が目の前にあった。
この奥に主上が、件の「聖女」がいるのだ。何となく鳥肌が立って、私は小さく息をついた。
「教義に曰く「澄み渡りて流るる清浄の白き乙女有り、水神の化身にして清き流れなり、地を踏む事を捨つる侵されざるものなり」。それが主上だ」
大神仕の低い声は広い廊下でも良く通った。
「君は主上の代わりに不浄たる部分を踏みしめる「足」にならなくてはならぬ。君は主上のお姿を見た事があるな?」
私は小さく頷く。彼女の姿は、一度見れば忘れられないものだ。だからこそ主上なのであり、聖女なのだろう。
「ここからは君一人で行け。主上に直接降命《こうめい》を頂くのが、聖皇御役の習わしだ」
大神仕はそう言い、もう一歩も動く気配がなかった。覚悟を決めろ、という意味なのか早くしろ、という意味なのか分かり辛い、小さな黒の瞳が私を見据えている。私は頭を下げて、扉に向かい、両開きの扉を押し開けた。
「次はアナタ?」
広い部屋の中央に位置する高寝床に座った少女はからかうような調子で言って、本を放り出してこちらを向いた。
白い少女だった。ほとんど色素の無い、薄い灰色がかった瞳と純白の裾が短い絹の服、布団に垂れる長い髪の毛までもが何故か真っ白で、高寝床にある色彩は赤い革装丁の本だけだ。多少桜色に染まった小さな唇は、不敵な風に微笑んでいる。
「こっちに来て」
薄絹で織られた御簾の向こうから小さな手の平で手招きされ、私は多少ためらった。彼女は聖女、先ほど大神仕が言った通り、教義に曰く「澄み渡りて流るる清浄の白き乙女」なのだ。御簾越しであるにしろ、最高存在である彼女に近づくのは気が引ける。
そんな私の気持ちに気づいたのか、彼女はふふ、と小さく笑った。
「大丈夫よ。私が汚れるわけでもアナタが綺麗になるわけでもないから」
少し不穏当な発言だと思ったが、黙って従う事にした。御簾の前まで来て跪いて頭を垂れ、口上を述べようとした途端、衣擦れの音がしたかと思うと、ずしん、と頭の上に何かが覆い被さって首に巻き付き、私は思わずうめき声を上げた。わりかし軽いものだったが、唐突過ぎて驚いたのだ。
そしてその重みに温もりがあり、さらにそこからくつくつという押し殺した笑い声が聞こえるに及んで、私は戦慄で凍り付いてしまった。
「ダメ、動いちゃ」
耳元で聞こえるのは確かに主上たる彼女の声で、つまりこの重みは主上の重みなのだ。抗議も、ましてや歓喜も出来ずに、私の身体は金縛りにあったように動かず、ただ事実に気づいた産毛が逆立ち、状況を認識した鼓動が早鐘の如く音を立てていた。
「ふーん、何にも言わないんだ?」
高寝床から上半身を乗り出して私の首に抱きついているらしい主上はのんびりとそう言ったが、私はとにかく動揺しているので声どころか呼吸する事もままならない。顔を上げる事はおろか腕すらも脱力し、跪いて両手を地面に付けたまま静止していた。
数時間に思えた数秒の後、ようやく圧迫されていた頭が解放され、主上は私の肩を支えに、腕を突っ張って身を起こした。恐る恐る頭を上げてみると、とんでもなく近くに顔が現れ、真っ白な長い髪の毛がさらりと流れて、にっこり微笑む白い表情が私を凝視していた。
「何も言わないだけなのは、初めてねぇ」
実際には「何も言わない」のではなく「何も言えない」のだが、彼女は妙に感心してしまったようで、大儀そうに何度も頷いた。
「これをやるのは四回目なんだけど、大体泣き出すか失神するかで、逃げ出した後もう一回来る奴は一人もいないの」
その通りだろう。私もようやく思考が働き出して、事の深刻さを認識し始めていた。こんな事が外に待機している大神仕に知られたら、と考えて恐ろしい気持ちになったが、私の心情に反して身体の方は未だに動かず、こちらを凝視するやたらと大きくて丸い瞳から逃げるべく首を下げるのが精一杯だった。
主上は私が思考停止しているのではなく、耐え忍んでるのだと思ったらしい。ごめんね、と言ってはいけないような言葉と共に私の肩から重みが消え、ベッドに腰かけ直したような音が聞こえた。
「お名前は聞いてるわ。でも簡単に言っちゃいけないの」
当たり前だ。
「うん、アナタの態度はとっても気に入ったわ。推薦通り、聖皇御役を降命します」
まるで本の頁を繰るような気軽さで彼女はそう宣い、その気軽さに背中を押された私は、ようやく顔を上げる事が出来た。
御簾は開いたままで、高寝床に座る主上の姿ははっきりと見えた。ちょっと首を傾げてにっこり笑う彼女は、背後にある大きな窓から入る陽光を浴びて、透けるように光っていた。
そんな彼女の、膝上から下が無い両の足を仰ぎ見て、私は汚れた黒き大地を歩く事の無い、純白の乙女の神聖を感じ取った。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載二回目の投稿となります。
ようやく「主上」こと聖皇の初登場となりました。
この話を思いついた発端が彼女でした。そこから宗教的な要素が思い浮かび、こうして形になりました。
まだ形になり切ってないですけどね(笑
感想等ありましたらよろしくお願いします。ひたすら喜びます。