橋の事 壱
主上は「行幸」をひどく嫌う。つまり大堂の外へ出て人民に会う事だが、輿に乗って長く揺られるのが嫌なのか、それとも心情的なものなのかははっきり分からないが、とにかくびっくりするほど人前に出たがらない。聖皇として正しいのか、また「聖女」として正しいのか、大堂でちょっとした議論になった事もあるくらいだ。
何にせよ、聖皇としての役割は果たしている(と認識されている)、と思うので、私は大して気に留めるものではない、と思う。
「でもね、ワタシだって外の事が知りたくないわけじゃないのよ?」
主上はにこにこと笑いながら、高寝床の上で書類の束をめくっていた。書類を整理する私の傍らでは、ラウラが最近覚えた墨摩りを必死でやっている。主上は書類仕事が大好きなので、必然的に墨の消費量も増えるというわけだ。
少し気になる事があるの、と言われた時から、何となく覚悟していた。主上の好奇心は留まるところを知らないのだ。
「これ、これなんだけどね」
主上は一枚の書類を示し、私に手渡した。それは架橋に関する書類だった。
聖都には橋が少ない。当たり前だ。神聖な央河の架橋は禁じられているし、五つの支流も、それらを管理する流水総責の許可が無くては架けられない。
その書類は第二の支流であるクアラ川の、比較的下流の架橋計画について書かれた書類だった。曰く「ここのところ増えつつある聖都への物流に対して輸送経路が乏しく、対応に迫られた為」といった内容が書かれていた。
……特におかしな所は見当たらない。控えめな感じで主上に言ってみると、彼女は何故かあっさりと頷いた。
「物流が増えてるのは事実だし、私も問題無いと思う。でもね、第二流水総責は不許可の沙汰をして、色々あってここまで回ってきたの。商人がかなり強く言ってきてるみたいね」
なるほど。商人が輸送路を求めるのは、当然だろう。
だが、不許可の理由が分からない。
「一応沙汰に関係した書類を提出する様に通達したんだけど、返事が無いの。だから、調べてきて欲しいの」
要するに、現地に行って調査すべし、という事だ。
ラウラは、私の視線を気にも留めずに硯と格闘していた。
「それで、私かね」
無精髭をさすりながら、ナカリ中教授は隈の浮いた眼をこちらに向けた。彼はいつでもむっつりとした表情をしているが、今日は少し疲れているようだ。
学舎書庫の拡張工事は最近終了し、彼は自分の部屋にしている書庫二階の一室に戻った。この部屋も少しだけ広くなったようだが、本の量が増加しているのであまり変わった雰囲気が無い。
「私は構わないのだが、学舎が構うのだ」
彼はうんざりした顔で、傍らの箱の中に山と積まれた木簡を顎で示した。どうやら、書庫の本の管理用らしい。
「私は書庫番ではないのだが、まあほとんどそういう扱いだ。お陰で書庫整理の仕事が全て私に押し付けられてしまった。一応手伝いの者もいるが、少なくともこの書庫は今、私しか分からない事が多すぎる」
それでこれだ、と中教授は呟き、大きなあくびを一つして、茶の入った椀を掴んで中身を一気に飲み干した。
「すまないが、他を当たってくれまいか。少しの間、ここから動ける気がしない」
そういうわけで、私はすごすごと退出した。
仕方ないので一人で出かける準備をしていた所、自室の扉が叩かれた。叩き方と扉の鳴る箇所に覚えがあり、開けると案の定、例の頭巾を被った男だった。
「御役殿、お出かけですかな?」
多分分かって言っているのだろうが、一応頷いた。彼はそうですか、と楽しげに呟き、ゆっくりと部屋に入ってきた。
「その様子ですと、一人ですかな」
これも分かっているのだろう。もう一度頷くと、彼は神妙な雰囲気で居ずまいを正し、腰を少しだけ折って、私の耳元に頭巾を被った頭を近づける。
「御役殿。私の部下を護衛に付けますが、ご理解を」
あの夜の時のような、やけに迫力のある静かな声だった。思わず身を引いて頷いてから、慌てて目を逸らした。どうにも、彼は良く分からない。
恐らく頭巾の奥から私を見ているであろう彼は、小さく笑いながら姿勢を戻し、ぽん、と両手を合わせた。その音に反応したのか、彼の後ろからぬ、と一人の男が姿を現した。
ひどく色の白い男だった。髪の毛は短く切っていて、こちらは妙に黒々しい。手甲と脚絆を付け、腰には短くて幅の広い、鉈のような刃物を下げている。肩幅が無く、割と小柄に見えるが、多分頭巾の男の身長がやたらと高いからだろう。
彼は伏せていた目を上げて、私に跳礼した。目は、猫のような緑色だった。
「タアです」
頭巾の男は変わった名前を告げ、それではよろしく、とタアの肩を叩いて、出て行った。
取り残された私は、何となく気まずくなって同行者に名前を告げた。彼は小さくお辞儀して、それきりだった。
……ちょっとだけ不安である。
馬を用意してもらって、出かける事にした。それを告げると、タアは一瞬眉を上げ、驚いた顔をした。まあ、大堂深部の人間が馬に乗れるとはあまり思うまい。私の場合は流土民時代に覚えたのだ。武人(だと思う)のタアはするりと馬に乗って、私はちょっと不格好によじ登った。
流石に早駆けは出来ないので、自然聖都の中をのんびりと進む事になった。正殿の横にある馬門から出立した私達は、クアラ川のある南西の方に下って行った。
大堂は聖都の北側、なだらかな丘の上にあって、その真ん中を央河が貫いている。央河の川幅は大堂の敷地内にある溜池や階差式の堰で調整され、聖都に入って行く。聖都側から見て大堂の正面にある石造りの正殿は巨大な橋の様になっていて、央河の東と西を跨ぐ格好になっている。その裏側に、主上の寝殿や学舎、大堂院があって、さらにその後ろ、聖皇領となっている正山には、央河の水源である聖鏡湖がある形になっている。大堂が山を背負っている風景は壮大だ。
大堂周辺には大きな館が多い。大抵湧流貴族、もしくは上流貴族の館である。流石に石造りの館は極端に少なく、木と土壁の広大な平屋が軒を連ねている。このあたりは央河から水を引く事が許されているが、前も言った様に架橋は許されないので、河岸の各家には専用の船着き場があるし、河岸から離れて行くほど、央河を使った物流より、聖都の東西からの陸上物流に頼る面が増えて行く。私の実家は聖都の東端に限りなく近かったので、そういう商売をしていたというわけだ。
五つの支流は央河を中心として、東に三本、西に二本ある。内、西側で大堂に近い方が件のクアラ川である。聖都の西に向かって伸びているが途中で大きく南側に蛇行し、結果的に南西に下って行ったところで第五支流、ルシル川に合流している。流水面積で言えば、多分一番小さいだろう。
そして、結果的に西側には巨大な中州が出来る格好になる。そういうわけで、中州を通る商路は川を渡らざるを得ないし、逆に言えば中州の住民は川を越えて来る商路が無いと干上がる事になる。
そこが不思議なのだ。中州の住民からすれば商路は必要だし、逆に中州に商路を確保すれば、彼らの生殺与奪の権利を得るも同然だ。住民には命綱、商人には絶好の条件が揃っているのだから、汚い話だが、橋の通行権などを握れる流水総責がこれを見逃すとは思えない。にも関わらず、主上に話が上がるまでに問題がこじれている。奇妙だ。
考えながら馬に乗っていたら、背後に載せていた荷物の袋がずり落ちそうになっているのに気づかなかった。慌てて手を伸ばしたが、逆に荷物を押してしまい、ずず、と袋が馬の腹の方に落ちていく。
唐突に鋭い蹄の音が聞こえて、次の瞬間には後ろにいたタアが横に来て、左手を伸ばして袋を掴んでいた。馬を止めて袋を載せ直し、礼を言うと、彼は無言で頭を下げて、また私の後ろに馬を戻した。あの調子のいい上司と違って、寡黙な男だ。
数刻進むと、クアラ川の付け根が見えてきた。その横にある高楼の付いた館が、第二流水総責の館である。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
連載11話目の投稿となります。
ようやく聖都の概要を書くような感じになりました。遅いですね(笑
感想等ありましたら、宜しくお願いします。
ガンガン喜びます。




