9話 家出②
何であんなことを、言ってしまったんだろう。雨音にかき消される、私の独白。私はあの瞬間の自分を、心の底から憎んでいた。あんなくだらない嫉妬と、勝手な思い込みを口にしなければ。ただ、新しく来た結城さんに「よろしく」と一言挨拶をしていれば。今頃は温かいリビングで、斉昭の作った温かいご飯を食べていたはずなのに。寒い。とにかく、寒い。ずぶ濡れになったブラウスが、氷のように冷たく肌に張り付いている。この街は、引っ越してきたばかりで私の居場所なんてどこにもない。あのボロい別荘を除いては。どうしてあんなに怒ったのか、本当は自分でも分かっていた。
「……バカみたい。本当に、バカね……私」
小さな川にかかる、古いコンクリート橋を見つけた。私は逃げるようにその下に滑り込む。橋の下は少しだけ雨を凌げたが、地面は湿り、増水した川がすぐ足元で濁流となって渦を巻いている。ゴォォという地響きのような川の音が、私の孤独を煽る。
どこへ行けばいいのだろう。このまま朝までここで凍えていれば、誰かが気づいてくれる? いや、あんな酷いことを言った私を探しに来る人なんて、いるはずがない。雨に濡れた服が、自分の体の一部のように重く、気持ち悪い。気づけば、私は泣いていた。雨水と涙が混じり合い、どこからが悲しみで、どこからが天候なのか判別がつかない。
「……もう、どうでもいいわ」
意識が混濁し始めたその時、雨音の向こうから、ありえない音が聞こえた。バシャバシャと、水溜りを力任せに踏みつける、荒々しい足音だ。
「おい! 藤堂! 彌生! どこだ、返事しろ!!」
必死そうな、ひっくり返った男の声。涙を拭って目を凝らす。視界の先に、全身ずぶ濡れで、息を切らしながら橋の土手を駆け下りてくる男の影が見えた。
「……斉昭……くん?」
「いた……! おい、大丈夫か! 生きてるか!」
彼は私のそばに駆け寄ると、迷うことなく自分の合羽を脱いで私に被せた。
「帰るぞ。こんなとこにいたら、今度は川に流されて死ぬぞ」
「……なんで。私、あなたにあんなに酷いこと……」
「いいから! 説教は家でしてやるから、今は黙って俺に捕まれ!」
彼は強引に私の腕を引き、その大きな背中に私をおぶった。彼の背中は、雨に濡れているはずなのに、驚くほど熱かった。激しく、痛いほどに降り注ぐ雨。でも、彼の背中で揺られていると、その雨音さえもどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「……ありがとう」
小さな声で呟いた私の言葉に、彼は何も答えず、ただ泥濘を蹴って家へと走り続けた。
「はぁ。」
深夜。俺は一人、風呂場で濡れた頭を洗いながら、深い溜息をついた。結局、助けてしまった。夜露があんな風に泣かなければ、俺は本当にあいつを見捨てていたのだろうか。いや、もしかしたら、どこかで理由を探していたのかもしれない。
俺は昔から、人助けは「偽善」だと思っていた。無償の愛なんてものは存在しない。情けは人のためならず。他人を助けることは、巡り巡って自分の「自己満足」や「贖罪」のため、あるいは「薄情者」というレッテルを貼られないための自己防衛に過ぎない。今日、俺が彌生を助けたのも、夜露のトラウマを緩和させるためであり、延いては自分の管理責任を果たすためだ。……そう、自分に言い聞かせる。
だが、腑に落ちない。もしすべてが自分のためなら、どうしてあいつに「ありがとう」と言われた時、あんなに胸の奥がざわついたんだ?感謝される筋合いなんてないはずなのに。
「はぁ……。俺も、老いたのかな」
親父のような鋼のメンタルには、程遠い。
「……タッ、タオル、ここに置いておくわよ。」
脱衣所から、少し掠れた彌生の声が聞こえた。
「いっ、一応、あなたには感謝してるわ。……助けてくれて、ありがとう。あと、その……勝手に出てって、ごめん」
「……はいよ」
短く答えて、俺はシャワーの音を強めた。なぜ感謝される? なぜ、申し訳なさそうにする?自分のためにやったことに対して、他人から報酬(感謝)を受け取るのは、計算が合わない。そんな理屈をこねながら、俺は熱い湯を頭から被り続けた。鏡に映った自分の顔は、クソ親父にそっくりで、それが無性に腹立たしかった。




