8話 家出①
「ただいまー。あー、お腹いっぱい。あの店のパフェ、生クリームが重すぎて逆に殺意沸いたわよね」
「わかるわ〜」
玄関の引き戸が乱暴に開く音と共に、能天気な声が響いた。パフェの食べ歩きから帰還した彌生と皐月だ。親父が荒波に向かってクロールで旅立ったというのに、見送りもせず甘味に興じていた二人。正直、俺の中での彼女たちに対する好感度は、今のところ氷点下を下回っている。だが、凝固点降下でも起こしているのだろうか、ただの冷たい塊には思えない。
「えー、皆さん。お取り込み中失礼。今日から新しい同居人が増えた。紹介する」
「結城友希です。この家の『白い化け物』の心臓に魅入られて、今日からお世話になることになったわ。よろしくね」
青いR34を外に停めた絶世の美女が、ライダースジャケットを脱ぎながら微笑む。
「む? 夜露は構わないのです。新しい知識の供給源は大歓迎なのです」
「私は皐月〜。よろしくね、お姉さん」
夜露と皐月はそれぞれのスタンスで受け入れた。だが、一人だけ、空気が凍りついたままの奴がいた。藤堂彌生だ。彼女は握りしめたカバンのストラップを指が白くなるほど強く引き絞り、結城さんの美貌と俺の顔を交互に、何度も、何度も、穴が開くほど見つめていた。
「…………。」
「おい、彌生? どうしたんだよ。挨拶くらい」
「………ない。」
「あ?」
「許せない……! 絶対に許せないわ!!」
突然、リビングの空気を切り裂くような絶叫。
「なにがだよ。俺が何か地雷でも踏んだか?」
「私と皐月がいない間に、こんな……こんなモデルみたいな美女を連れ込むなんて! やっぱり、あのデリカシー皆無な男の息子は、エロガッパのサラブレッドだったのよ! カエルの子はカエル! 覗き魔の子は女たらし!もういい、こんな破廉恥な家、こっちから願い下げよ!!」
彼女は自分の論理の飛躍にブレーキをかけることなく、玄関を蹴るようにして飛び出していった。バタン!という衝撃音が余韻となって響く。夜露は我関せずと、前足に見立てた手で顔を拭う仕草を始める。
「ごめんなさいね。私のせいで、可愛い同居人さんの逆鱗に触れちゃったみたいで」
「いや、結城さんに責任はありませんよ。あいつが勝手に沸騰しただけですから」
それから三時間が経過した。外は、いつの間にか世界を塗り潰すような大雨に変わっていた。雨量にして時間70mm。視界が白く霞み、排水溝が飲み込みきれない雨水で溢れている。俺は窓の外を黙って見つめていた。この暴力的な雨音を聞くと、嫌でも思い出す。かつて、クソ親父と淡路島を一周した時のことだ。あの時は運悪く巨大な台風が直撃し、最大瞬間風速は45m/sを超えていた。周囲の看板が紙屑のように舞う中、親父は「斉昭、これは天然のシャワーだぞ。人生の汚れを落とせ」などと抜かし、傘もささずに一昼夜歩き続けた。俺にとって、雨とは「耐え忍ぶもの」であり、誰かに助けを求める理由にはならなかった。
「斉昭くん。流石にそろそろ、まずいんじゃない……?」
背後から、皐月が不安そうな声を漏らす。
「何がだ?」
「何がって、彌生のことよ! 外を見てよ、あんなに降ってる。あの子、傘も持ってないのよ?」
「勝手にあいつが出てったんだ。自己責任だろ。どうして俺がそんな面倒なことを」
「面倒なこと? あんた、正気!? 人の命がかかってるかもしれないのよ!」
皐月の言葉に、俺の中の何かが逆撫でされた。
「なら、お前が探しに行けばいいだろ。うちの親父をほったらかして、一緒にパフェ食いに行くくらいには仲が良いんだろ?」
「…………。私は、だって……」
「ほーら見ろ。自分で行くのは怖い、濡れるのは嫌だ。でも良心だけは痛むから、俺に身代わりを頼む。命がかかってるんだろ? 行けよ。今すぐ飛び出せよ!」
「……っ。最低。……薄情者。」
絞り出すような罵倒。だが、俺の心には響かない。母が泣きながら家を出たあの日から、俺は他人の涙に対する免疫ができすぎている。
「なんだぁお前は?お前は何もできないくせに、俺が拒否ったら『…薄情者。』だってか?ふざけんじゃねえぞ!いいか、俺は困ってる人を助けるヒーローでもなければ、感情でヒロインを助けに行く様な主人公でもない!」
リビングを重苦しい沈黙が支配した。その沈黙を破ったのは、夜露の震える指先だった。
「息子……行くのです。お願いなのです……」
「夜露、お前まで俺を否定するのか」
「違うのです、違うのです……! このままだと、彌生は……多分、死んじゃうのです」
夜露の顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。いつもの「猫」のような飄々とした空気は微塵もない。彼女はガタガタと全身を震わせ、今にも崩れ落ちそうな顔で俺を見上げていた。
「……なんで、そう言い切れるんだ?」
夜露は短く息を吸い、過去の深淵から言葉を汲み上げるように話し始めた。
「……昔の話なのです。夜露の両親は、酷い喧嘩をしていたのです。原因は、父の女友達が訪ねてきたこと。母は怒り、狂ったのです。父は何も悪くなかったのに、母は被害妄想に囚われて、大雨の中、家を飛び出したのです。……父は『頭を冷やせば帰ってくる』と言って、探しに行かなかったのです」
夜露の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「一週間後、夜露は学校帰りに橋の下で……泥にまみれて倒れている人を見つけたのです。近寄って、よく見たら……それは、冷たくなった……『私』のぉっ……!」
夜露は子供のように嗚咽を漏らし、俺のシャツの裾を掴んだ。
「お願いなのです……同じことを繰り返したくないのです。あんな、冷たいお別れは、嫌なのですぅ……!」
涙に対する免疫はあるはずだが、単なる「情」なのか、それとも「恐怖」への共鳴なのかはわからない。だが、この涙を無視してここに留まれば、俺は確実に「人間」としての何かを永遠に失う。そんな確信があった。
「……わかった」
俺は二千円札をポケットに突っ込み、玄関に置いてあった古い合羽を掴んで、土砂降りの外へと飛び出した。




