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6話 行っちまったか。

 「……ううっ、三途の川で親父が水球してるのが見えた……」


 後頭部に響くズキズキとした拍動で目が覚めた。視界がチカチカする。リビングには静寂が満ち、女子たちの香水の残り香と、親父が最後に食べた「あたりめ」の匂いだけが虚しく漂っていた。


 「やべぇ! 親父、今日行くって言ったよな!?」


 柱時計を見れば、出発時刻まであとわずか。空港まで約10キロ。フルマラソンの選手でも30分はかかる距離だ。俺は反射的に、裸足にサンダルをつっかけて家を飛び出した。


 『まだまだだな斉昭。そんな鈍足じゃ、特売のタイムセールにも、運命の分岐点にも間に合わんぞ』


 脳裏に再生される親父の薄笑い。負けるたびに、あいつはそう言って俺を煽った。今がその「運命の分岐点」じゃねぇのかよ!


 「ふっ、ふっ、はぁっ……!」


 全速力。心臓が口から飛び出しそうなほどの激走だ。歩道を弾丸のように突き進む俺に、散歩中の犬が腰を抜かして吠えかかる。肺が焼け付くような熱を帯び、視界の端が真っ白に染まっていく。


 (待ってろ、クソ親父……! せめて一発、殴らせてから行け!)


 空港のターミナルビルがようやく視界に入ったその時。


 ゴォォォォ……ッ!!


 凄まじい轟音と共に、一機のジャンボジェットが銀色の翼を煌めかせて、成層圏へと急上昇していった。


 「……はぁ、はぁっ……間に合わ、なかった……のか……」


 俺は膝をつき、アスファルトに滴り落ちる汗を見つめた。生意気で、自由で、生活能力ゼロで、息子に炭を食べさせるような女と同居させる無責任な父親。それでも、この広い世界にたった一人の血の繋がった男なのだ。


 「頑張れよーーーー!!くそ親父ーーーー!!ちゃんと生きて帰ってこいよーーー!!」


 俺は空に向かって、喉がちぎれんばかりに叫んだ。あの飛行機に親父が乗っているという確証はない。だが、この想いだけは、高度1万メートルの空へ届いてほしかった。


 「……息子、脳の側頭葉に異常をきたしたのです?」


 背後から、温度の低い声がした。振り返ると、そこにはいつの間にか追ってきた夜露が、不思議そうに首を傾げて立っていた。


 「……夜露? なんでここに?」


 「心配で見に来たのです。さっき彌生にフルスイングされた時、完熟したスイカが割れるような佳い音がしたから、脳挫傷を疑ったのです」


 「……不吉な例えはやめろ。それより、親父は行ったか? あの飛行機か?」


 俺が指差した空の彼方を、夜露は冷めた目で見つめた。


 「いいえなのです。城太郎は、もっと……エコロジーな手段を選んだのです」


 「エコロジー……? 帆船か何かか?」


 「いいえ。城太郎は、クロールで外国へ行ったのです」


 「……は?」


 耳を疑った。自分の平衡感覚が、彌生の一撃で狂ったのかと思った。


 「……泳いで? どこを?」


 「言葉通りなのです。砂浜で『じゃあな! 潮の流れが速いから急ぐわ!』と言い残すと、バタ足で時速40ノットくらい出しながら、水平線の彼方へ消えていったのです。夜露はカナヅチだから、あの推進力はシュレーディンガーの猫並みに不可解なのです」


 「え、俺の親父って世界大戦中の駆逐艦かなんかなのか?」


 俺は呆然と、空港の向こう側に広がる海を見た。飛行機でも船でもなく、自力で太平洋を渡る。それが佐渡城太郎という男の「自由」だと言うなら、俺が全力疾走したこの10キロは、一体何だったんだ。


 「ああ、そういえば遺言……じゃなくて、伝言を預かっているのです。『幾らか金を分厚い辞書の中だ。』と言っていたのです」


 「……最後まで、普通に金を渡せないのかよ、あの男は」


 俺は力なく笑った。水平線の彼方、親父が立てているであろう白い水しぶきを想像しながら、俺は夜露のパーカーの裾を掴んで家路についた。

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