3話 鳶が鷹を産むって言われて、不名誉って思う事はなかなかないと思う。
「息子、夜露の部屋はこっちなのです。早く来るのです」
夜露は俺の袖を引っ張り、玄関へと促す。
「待て待て、順序ってものがあるだろ。まずは家全体を把握させてくれ。君の部屋には後で行くから」
俺がそう言うと、夜露はぴたりと足を止め、頬を膨らませた。
「……。ゲバラなのです」
「??????」
何を言っているんだ、この子は。ゲバラ? あの革命家のことか?
「こいつ、『チェッ』って舌打ちしたい時に『ゲバラ』って言うんよ。語呂がいいからってな」
父の解説が入る。なるほど、「チェ」・ゲバラということか。なんという高度で面倒な洒落だ。
「アッティラなのです!」
夜露がさらに声を荒らげる。今度はなんだ。俺は無言で父に翻訳を求めた。
「あー、そんなに怒るなって。斉昭も悪気があったわけじゃないんだ」
「今度はなんて言ったんだよ」
「アッティラってのは、5世紀のフン族の王様だろ? だから『フンッ!』っていう鼻息の最大級を表現してるんだよ。彼女なりの怒りのサインだ」
世界史の知識をこんな形でアウトプットする奴が、この世に他にいるだろうか。変人だが、ある種の高知能を感じさせる。
「今、失礼なこと考えてたのです?」
「い、いや、そんなことは……」
「むー。もうSiH4なのです」
夜露はそう吐き捨てると、階段をタタタッと駆け上がっていった。
「……SiH4?」
「モノシラン(シラン)。つまり『もう知らない』ってことだな。化学式まで持ち出してきたか、今日は機嫌が悪いな」
父は呑気に鼻をほじっている。知識の無駄遣いも甚だしい。だが、この奇妙なコミュニケーションこそが、この家の日常なのだろう。
俺はため息をつきながら、改めて玄関の引き戸を開けた。古い木材の香りと、少し湿った土の匂いが鼻を突く。廊下に一歩踏み出すと、ギシッ、ギシッと床板が悲鳴を上げた。
「お、誰かいるな。賑やかでいいじゃないか」
廊下の奥から、シャワーの音が聞こえてきた。脱衣所の明かりがついている。父は迷うことなく、その扉へと突き進んだ。
「ちょっと待て、親父! 誰か入ってるんだろ!」
「挨拶は早いほうがいいからな!」
ガラガラッ
「キャーーー! ちょっと、何入ってきてんのよバカ親父!!」
ゴンッ!!
凄まじい打撃音と共に、父が脱衣所から吹き飛ばされてきた。続いて出てきたのは、頭にバスタオルを巻き、顔を真っ赤にした少女だった。
「……って、あんた誰!?ジロジロ見ないでよ変態!」
「いや、俺は別に……」
「イタタ……斉昭、紹介するわ。こいつは藤堂彌生。お前と同級生だ。それとな、かなりの露出きょ……」
ゴンッ!!
父の言葉が終わる前に、彌生の拳が再び父の脳天を捉えた。
「誰が露出狂よ! あんたがデリカシーなく入ってくるから、結果的にそうなってるだけでしょ!」
彌生は肩で息をしながら、俺を鋭い目つきで睨みつけた。
「第一、こんなデタラメな男の息子なんて、ロクな奴じゃないんでしょ。どうせ覗き魔の素質があるに決まってるわ。カエルの子はカエルって言うじゃない?」
「それはわからんぞ。鳶が鷹を産むって言葉もある。こいつの腕は確かだ」
父が頭を抑えながら俺を庇う。だが、その言葉選びがまた絶妙に鼻につく。俺が「鷹」だとしても、お前が「鳶」であることを認めているわけだし、彌生の文脈からすれば「覗きの技術において鷹」という意味に取られかねない。
「ふん、そうであることを願いたいものだわ。精々、お父さんよりはマシな人間であることを証明しなさいよね!」
彌生はそう言い捨てて、バスタオルを握りしめながら自室へと消えていった。




