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16話 お疲れ様です

 「はぁ……。終わった。マジで疲れた……」


 俺はリビングの、あのスプリングの死にかけたソファに泥のように沈み込んだ。学校から帰ってきてからの数時間は、まさに戦場だった。玄関を開けた瞬間、一秒でも早く自室に籠もる者、真っ先に風呂を占拠する者、座るなり「お菓子を出せ」と宣う者。住人たちは、驚くほど自由に、自分勝手に動く。だが、彼らが自由でいられるのは、誰かがその裏で泥臭い仕事をこなしているからだ。即ち、俺である。


 昼食は軽めに、ご飯と辛子高菜、そして卵焼き。俺が焼き上げた鮮やかな黄色の卵焼きを見て、彌生は「……何これ、毒?」と本気でドン引きしていた。彼女いわく、卵焼きとは「もっと炭素化した漆黒の物質」らしい。あいつは一回健康相談所に行った方がいい。


 昼食の片付けもそこそこにスーパーへ走り、夕食の仕込み。買ってきた挽肉とバジルを使い、俺は「ガバオライス風の何か」を大量に錬成した。かつてクソ親父が「タイの屋台で拳銃を突きつけられながら教わった」とか抜かしていた、数少ないまともなレシピだ。


 冷凍保存もきくこの料理は、意外にも女子たちに大好評だった。「こんなの初めて食べた!」と目を輝かせる彼女たちを見て、俺は首を傾げる。親父はここで飯を作っていたのなら、食べさせたことがあると思っていた。あいつ、一体彼女たちに何を食わせていたのだろう。


 食器を洗い、洗濯機を回し、風呂を済ませて……現在、夜の22時。二階の騒がしさがふっと消え、静寂が訪れた頃。


 ブォォォォン……


 夜の闇を切り裂く、RB26エンジンの重低音。


 「ただいまー……」


 玄関から現れたのは、結城さんだった。学校で見せていたあの「取り繕った教師の顔」はどこへやら、肩を落としたその姿は、完全に疲れ切った一人の大人だった。


 「斉昭くーん……。ご飯、ある?まだ何も食べてなくて、胃が壁を突き破りそうなんだけど……」


 「あー、はい。今出しますから、ちょっと待っててください」


 俺はソファから這い出し、冷凍しておいたガバオライスをレンジに放り込む。チンという音と共に、香ばしいナンプラーの香りが漂った。


 「美味しそう……。ありがとう。」


 彼女は差し出された皿に食らいつき、噛んでいるのか怪しいスピードで胃に流し込んでいく。


 「ちゃんと噛んでください。体に悪いですよ」


 「ごめんごめん、まだ仕事が山積みでさ……」


 「あー、例の『しおり』ですか。手伝いましょうか?」


 「いいわよ、それは私の仕事。……さて、戦場に戻るかな」


 「風呂はどうしますか?」

 

 「しおりを作り終わったらシャワーでも浴びるよ」


 彼女は力なく立ち上がると、自室へと消えていった。俺は再びソファに横たわる。


 カタカタカタカタ、カタカタ、タタッ……。


 天井越しに聞こえる、規則正しいキーボードの打音。無機質な音が深夜の静寂に響く。この単調なリズムから、明日俺たちが手にする「しおり」の文字列が生まれていると思うと、少しだけ不思議な気分になった。


 カタカタカタカタ……カチカチッ、タタッ、……。

 キュギィィィ、……ダダダンッ!!


 突如、天井から心臓を鷲掴みにするような衝撃音が響いた。

 

 「おい、今の……椅子から転げ落ちた音か?」


 俺は反射的に階段を駆け上がった。ノックもせずに結城さんの部屋に飛び込むと、そこには床に大の字になって倒れている彼女の姿があった。


 「結城さん!大丈夫ですか!」


 「あ〜……えへへ……。ごめんねぇ〜、斉昭くぅん……。ちょっと、酔っちゃったみたい……」


 明らかに異常だった。顔は林檎のように赤く、瞳の焦点が迷子になっている。ふと机に目をやると、ノートパソコンの横に、およそ日本の机には置いてはいけない魔境の酒瓶が二本、鎮座していた。「Spirytus」と「Gocce Imperiali」である。


 「……なんでこんなもん飲んでるんですか!これ酒っていうか燃料ですよ!まだ消毒用アルコールの方が度数低いですよ!」


 「だってぇ〜。酒でも飲まないとぉ……やってらんないでしょぉ〜?こぉんなぁ面白くない事務仕事ぉ……」


 ベロベロである。あのアスファルトを削り取るようなドライビングテクニックを持つ女性が、アルコールの暴力に完敗していた。


 「しっかりしてください。まだやる事があるでしょう?」


 「え〜、もぉいいじゃんよぉ。しおり作り終わったんだからさぁ〜。許してよぉ。」


 「シャワー浴びるって言ってたじゃないですか!」


 「……………………」


 返事がない。


 スー、スー……。


 驚異的な速度で寝落ちした。このままでは風邪をひくし、なによりアルコール中毒が心配だが、今はそっとしておくしかない。俺は彼女のベッドから布団を引っ剥がし、床の上の「担任教師」にそっと被せた。


 「先生……お疲れ様です。」


 画面の中で光る「宿泊学習のしおり」を横目に、俺は静かに部屋の電気を消し、階段を降りた。深夜23時。俺の長い一日は、目は冴え切っているが、ようやく幕を閉じた。

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