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04話 怪物誕生

 ――ばしゃっ。

 水路の奥で、水しぶきが跳ね上がった。

 咲は、思わず足を止めた。

 ほんの少し前まで、そこには細い水路があるだけだった。

 夜に沈みかけた住宅街の裏側で、誰も気に留めない場所。

 けれど今、水面の一部が不自然に盛り上がっている。

 ……波紋ではない。

 流れに逆らうように、そこだけがゆっくりと持ち上がっていた。

(……来る)

 背中を冷たいものがなぞる。

 咲の目には、すでに見えていた。

 水の塊の内側に、歪な輪郭がある。

 水ではない何かが、包まれるようにして、形を作ろうとしている。

 そのすぐ隣に、燈真が立っている。

 二人は、横並びで立っている。

 咲の視線の先を、燈真も見つめていた。

 はっきりとは見えない。

 それでも、そこに“普通ではない何か”があることだけは、燈真にも分かっていた。

「……あれ」

 燈真が、低く呟く。

 水面が、ゆっくりと割れた。

 ばしゃり、と鈍い音を立てて、水の塊が水路の縁にせり上がる。

 まだ、形は定まっていない。

 胴体のような膨らみと、引き伸ばされた影。

 表面は水と泥に覆われ、輪郭は揺らいでいる。

 けれど咲には、それが「生まれかけている」と、はっきり分かった。

(……怪物だ)

 喉の奥がひりつく。

  怪物は、水路の外へ、ゆっくりと滲み出てくる。

 足元へ、水が広がる。

 咲は、無意識に半歩、下がった。

 その瞬間だった。

 ――ぬるり。

 足裏が滑った。

「……っ!」

 体が前に崩れる。

 濡れたコンクリートに、膝と手のひらを強く打ちつけた。

 息が、喉に詰まる。

「……いた……」

 思わず、声が漏れた。

 立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。

  視界が、少しだけ滲んだ。

 ――泣かない。

 そう思ったのに、鼻の奥がつんと痛くなる。

「ん…..大丈夫? 」

 すぐ近くで、燈真の声がした。

 腕を掴まれ、引き起こされる。

「……平気です」

 無理に笑おうとして、声がわずかに震えた。

 怪物は、止まっていなかった。

 水路の縁を越え、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。

 距離が、近い。

「……まずいな」

 燈真が、短く息を吐いた。

 「走れる?」

 咲の顔を見る。

 一瞬だけ迷ってから、咲は小さく頷いた。

「……はい」

 怪物の輪郭が、また歪んだ。

 咲の視界で、それはゆっくりと形を変えながら、こちらを向いている。

「……こっち!」

 燈真が、咲の手首を掴む。

 二人は同時に地面を蹴った。

 背後で、水が弾ける音がした。

 フェンス沿いの細い通路を、ただ前へ走る。

 咲の呼吸が、すぐに荒くなる。

 膝が、さっき打ったところでずきりと痛んだ。

 それでも、止まれない。

「……あの……!」

 走りながら、咲は必死に声を絞り出す。

「……まだ……完全じゃないです……!」

 燈真が、ほんの一瞬だけ視線を横に向ける。

「……分かる?」

「……見えてるので……」

 「……助かる」

 それだけ言って、燈真はさらにスピードを上げた。

 背後から、重たい水音が追ってくる。

 近づいてきているのが、はっきり分かる。

 曲がり角の先に、街灯の光が見えた。

 そのときだった。

「……こっちだ」

 前方から、低い声が響いた。

 暗がりの中に、二つの人影が立っている。

「……燈真?」

 零だった。

 制服にウィンドブレーカーを羽織っている。

 その横に、制服姿の瞬がいる。

「……間に合ったな」

 瞬が短く言う。

 二人の前で、燈真と咲は足を止めた。

 咲は、大きく息を吐いた。

 背後の通路の奥で、水音が止まる。

 怪物は、まだ追ってきてはいない。

 だが、消えたわけでもない。

 この距離でも、咲の目には、あの歪な輪郭が暗闇の奥に残っているのが見えた。

 零と瞬の姿を見た瞬間、咲の肩から、張りつめていた力が抜けた。

 知らないうちに、歯を食いしばっていたらしい。

 顎の奥が、じんと痛んだ。

「……あの」

 小さく声を出すと、自分の声が思った以上にかすれているのに気づく。

「追って……きてます」

 燈真が、すぐに振り向いた。

 「今は?」

 咲は、首を横に振る。

「……止まってます。でも……」

 言葉を探す。

 暗い水路の奥。

 あの歪な輪郭は、さっきよりも、はっきりしていた。

 形になろうとしている。

「……あれは」

 咲は、思いきって言った。

「たぶん……完全に出てきたら、もう……」

 言葉が詰まる。

 零が、静かに口を開いた。

「戻れなくなる、って感じか」

 咲は、驚いて顔を上げる。

  零は、水路の闇だけを見ていた。

「……そうです」

 小さく、頷く。

 瞬が、短く息を吐く。

「生まれる途中、ってやつか」

 この人たちは、状況を理解している。

 怖がってはいても、混乱していない。

 燈真は、視線を水路から外さずに言った。

「どれくらいで……変わる?」

 咲は、すぐに答えられなかった。

 けれど――

「……長くは、ないと思います」

 水の動きが、さっきとは違う。

「……水が、集まってます。あそこに」

「なるほどな」

 瞬が、低く言う。

「……見えるの、私だけみたいで……」

 思わず、口に出す。

「そうみたいでも、何かいるのはわかる」

 零が、あっさり言った。

「そこに何かあるってことは分かる。でも、形までは見えない」

 瞬も言う。

「気配だけだ」

 胸の奥が、少しだけ軽くなる。

「……ありがとうございます」

  小さく呟く。

「……じゃあ、見えてる側の意見は重要だな」

 燈真が言う。

「……でも、私……戦えません」

「分かってる」

 燈真は即答した。

「無理に何かさせる気はない」

 その一言で、胸が詰まった。

「……さっき、転んだとき……すみません」

「なんで謝るんだ」

 瞬が、ぽつりと言う。

「さっきの足場、普通に危ない」

「怪我してないなら、それでいい」

 水路の奥で、小さく水が跳ねた。

 咲の視界で、あの輪郭が、わずかに膨らむ。

「……動きました」

 三人の空気が、一気に引き締まる。

「……もう、隠れてる感じじゃないです」

 零が、小さく息を吐いた。

「時間はなさそうだな」

 瞬が、一歩だけ足を踏み出す。

「この通路、逃げ道としては悪くない」

 燈真が、咲のほうを見て言った。

「……さっきのメール、助かった」

 咲は、はっとする。

  自分のしたことは、無駄じゃなかった。

 水路の奥から、また重たい水音。

  水音は、連続しては鳴らなかった。

 間を置いて、思い出したように、水が落ちる。

 ぴちゃり。

 ぐしゃり。

 濡れた布を、どこかで引きずっているような、不快な音だった。

 咲は、無意識に燈真の制服の袖をつかんでいた。

 自分でも、指先が震えているのが分かる。

「……ごめんなさい」

 小さく言う。

「また……」

「いい」

 燈真は、すぐに言った。

 振り向きもせず、低い声で。

「離れないほうがいい」

 その言い方は、咲を気遣っているというより、状況を整理しているようだった。

 零が、周囲を一度だけ見回す。

 通路の先。

 民家のブロック塀。

 少し開いた路地。

「一般の人、いないな」

 小さく呟く。

 瞬も頷いた。

「今の時間帯、この裏道はほとんど通らない」

 咲は、その会話の意味を理解して、胸の奥が少し冷えた。

 ――もし、誰かが通りかかったら。

 自分には見えているあれを、説明できない。

 説明しても、信じてもらえない。

 燈真が、静かに言った。

「咲」

 名前を呼ばれて、肩が跳ねる。

 「……はい」

「見えてるままでいい」

 一瞬、意味が分からなかった。

「無理に、整理しなくていい」

 水路の奥を見たまま、続ける。

「おかしいと思ったまま、言ってくれたほうが助かる」

 咲は、はっとした。

 今まで、自分はずっと、

 “分かるように説明しなきゃ”

 “ちゃんとした言葉にしなきゃ”

 そう思っていた。

 けれど――

「……はい」

 短く返事をする。

 胸の奥が、少し軽くなる。

 水路の奥で、また、水が歪んだ。

 咲の視界の中で、あの輪郭が、わずかに沈み込み、すぐに盛り上がる。

 呼吸しているように見えた。

「……今」

 思わず声が出る。

「……中が、へこんで……」

 三人の視線が、同時にそちらへ向く。

「……たぶん……」

 喉が乾く。

「……外に出る準備、してるみたいです」

 零が、ほんのわずかに眉を寄せた。

「引く動きか」

 瞬が、低く続ける。

「溜めてる感じだな」

 咲は、二人の言葉に、背中を押されるような感覚を覚えた。

 自分の見ているものが、ちゃんと通じている。

 それが、はっきり分かる。

 燈真は、短く息を吸った。

「……位置、分かる?」

「はい」

 即答だった。

「今は……水路の、ちょうど真ん中より、少しこっち側です」

 自分でも驚くほど、すらりと出てきた。

 さっきまでは、こんなふうに言えなかったのに。

 「……でも」

 一瞬、言葉に詰まる。

「……広がってます」

「広がる?」

 燈真が聞き返す。

「……端が、にじんでる感じで……」

 輪郭が、少しずつ、薄くなっている。

 水と、闇と、空気の境目に溶けるように。

「……大きくなってる、というより……」

 咲は、必死に言葉を探した。

「……染み出してる、みたいで……」

 沈黙が落ちる。

  その沈黙は、重くなかった。

 皆が、頭の中で状況を組み立てているのが分かる。

 瞬が、ぽつりと呟く。

「……厄介だな」

 零が、小さく頷いた。

「一点に固まってくれたほうが、まだ分かりやすい」

 その言い方に、咲は、この人たちがこれまでにも似た場面を経験してきたのだと、はっきり感じた。

 燈真は、わずかに肩を回す。

 無意識の仕草だった。

 ――何度も、似たような場所に立ってきた身体の動き。

 咲は、その背中を見て、思う。

(……私とは、立ってる場所が違う)

 怖い。

 怖いのは同じなのに。

  それでも、この人たちは、前を見ることを選んでいる。

 水音が、また近くで鳴った。

 ぴちゃり。

 水路の縁のすぐ下。

 咲の視界で、輪郭が、わずかにこちらへ傾く。

「……寄ってきてます」

 声が、少しだけ上ずる。

 燈真が、すぐに言った。

「距離は?」

「……まだ……大丈夫です」

 言いながら、自分に言い聞かせているのが分かった。

 大丈夫。

 まだ。

  瞬が、咲の膝にちらりと視線を向ける。

「膝の傷、平気か」

「……はい」

 反射的に答える。

 零が、短く付け足す。

「無理してるなら、すぐ言って」

 その声は、淡々としていた。

 けれど、突き放す感じはなかった。

 咲は、小さく頷く。

「……ありがとうございます」

 言葉が、少しだけ震える。

 怖い。

 それでも。

 ひとりじゃない、という感覚が、確かにそこにあった。

 水路の奥で、水が、ぐにゃりと持ち上がる。

 さっきよりも、はっきりと。

 咲の視界で、あの存在が、もう隠れることをやめたように見えた。

「……来ます」

 短く言う。

 三人の空気が、一気に張りつめる。

 燈真が、静かに息を吐いた。

 そして――

 咲の背中に、冷たい感覚が走る。

「そうえば彼女……さっき、メールくれた一年生。名前は確か白石咲」

 燈真が、咲を一瞬だけ見て言う。

 咲が少しだけ頷く。

「俺達の自己紹介は、やってる時間ないか」

 一拍置いて、

「よし零、瞬――速攻で終わらせよう」

 零が、小さく息を吐く。

「……そのつもりだ」

 瞬も、視線を水路の奥から外さずに答えた。

「長引かせる気はない」

 燈真が、半歩前に出る。

 その左右に、零と瞬が並んだ。

 三人は、自然と横一列になる。

 水路の方角を、まっすぐに見据える形だった。

 燈真のすぐ後ろで、咲は立ち止まる。

 三人の背中が、静かに並んでいる。

 零の肩越しに、暗い水路の気配が見える。

 瞬の横顔は、張りつめていた。

 そして、咲は、燈真の背中だけを見ていた。

 前には出ない。

 出られない。

 けれど――

 この距離なら、伝えられる。

 見えたものも、感じた違和感も。

 全部。

 水路の前で、

 燈真・零・瞬は、横並びで立っていた。

 そのすぐ後ろに、咲がいる。

 静かに、

 だが確かに、

 “何かが始まる直前”の空気だけが、そこにあった。

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