03話 ――水面の下で
水路の向こうで、ばしゃっと、水しぶきが上がった。
咲は足を止める。
夕方の空気はまだ明るいのに、水路の影だけがやけに濃い。
今の音は、石を蹴ったような軽さではなかった。
「……今の、なに……?」
思わず、独り言が漏れる。
少し迷ってから、咲は水路沿いの柵に近づいた。
流れは緩やかだ。
いつも通りの、見慣れた用水路――のはずなのに。
水面の一部が、不自然に揺れている。
風でもない。
落ち葉が当たった様子もない。
まるで、水の内側だけが、別の動きをしているみたいだった。
「……」
咲の視界に、違和感がはっきりと浮かび上がる。
水が、盛り上がっている。
形が、ゆっくりと変わっている。
それは、
――水ではない何かが、内側から動いているように見えた。
背中が、ひやりとした。
(……見える)
咲には、それが“ある”と分かってしまった。
人の形ではない。
でも、ただの水の塊とも違う。
輪郭だけが、曖昧にまとまっていて、
そこに「存在している」感じだけが、異様に強い。
「……っ」
息を詰めた瞬間。
水面が、また小さく跳ねた。
ぱしゃ、と。
今度は、はっきりと、内側から押し出されたような水しぶきだった。
(……だめ)
本能的にそう思う。
けれど、同時に。
(知らせなきゃ)
咲の頭に浮かんだ名前は、ひとつだけだった。
――燈真。
ポケットからスマホを取り出し、指を動かす。
『今、水路の近くにいます』
一度、消して。
打ち直す。
『水路で、変なものを見ました』
少し迷ってから、続ける。
『水じゃない……何か、です』
送信。
咲が知っている連絡先は、燈真しかない。
それで十分だと思った。
むしろ、他の誰に説明しても、きっと信じてもらえない。
視線を水面に戻すと、その“何か”は、さっきよりもはっきりと、形を持ち始めていた。
水の膜の奥に、別の輪郭がある。
ぞっとするほど、静かだった。
音もなく、ただ、そこにある。
(……怪物、って言葉しか、浮かばない)
咲は一歩、後ずさる。
柵に背中が当たった。
そのまま、目を離さずに、ゆっくりと距離を取る。
――追ってこない。
少なくとも、今は。
咲は、走り出した。
水路から離れるために。
そして、もう一度スマホを握りしめる。
燈真に、届いてほしいと願いながら。
自分の部屋で、燈真はベッドの端に腰を下ろしたまま、スマホを握っていた。
画面には、さっき届いた咲からのメッセージが残っている。
『水路で、変なものを見ました』
『水じゃない……何か、です』
短い文なのに、やけに胸に残る。
イヤホンは片耳だけつけたまま、再生も止めずにいるのに、音楽はほとんど耳に入ってこなかった。
(……やっぱり、あそこか)
帰っているとき、胸の奥にひっかかっていた、あの感覚。
公園で白石と話していたときから、ずっと消えなかった違和感。
理由は分からないのに、なぜか水路のほうが気になって仕方なかった。
燈真は、スマホの画面を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
頭の中に浮かぶのは、あのとき、自分がはっきり感じた感覚だ。
(……何か、嫌な予感がする)
小さく息を吐いて、指を動かす。
『どの辺の水路?』
咲に送信する。
すぐに既読がついた。
少し間があって、返事が届く。
『学校から少し下ったところです』
燈真は、画面を閉じた。
椅子の背にかけていた上着を手に取る。
(……行くしかない)
立ち上がり、部屋のドアへ向かいながら、別のトーク画面を開いた。
零と瞬の名前が並んでいる。
家に帰ってから送った、あのメッセージの履歴が、そのまま残っていた。
画面を一度だけ見てから、新しく打ち込む。
『今、水路の近くで変な情報が入った』 『あとで詳しく話す』
送信。
スマホをポケットに入れ、靴を履く。
ドアを開ける直前、ほんの一瞬だけ、立ち止まった。
(……あのとき感じた違和感は、間違ってなかったんだ)
そう思いながら、燈真は部屋を出た。
プール棟の外に出たところで、零は立ち止まっていた。
すでに着替えは終わっている。
制服の上からバッグを肩にかけ、スマホを見下ろしていた。
「……燈真から?」
隣で靴を履き替えていた風間が、ちらりと画面を覗く。
「うん。水路で、変な情報が入ったって」
零は短く答える。
瞬も、自分のスマホを取り出した。
ほぼ同じタイミングで、通知が表示されている。
「こっちにも来てるな」
風間は、画面を見ながら小さく息を吐いた。
「……また、水絡みか」
無意識に、二人とも言葉を選んでいた。
あのプールで起きた出来事が、まだ頭から離れていない。
「どうする?」
風間が聞く。
「帰り道だし、様子だけ見に行く」
零は、即答だった。
「燈真も、たぶん向かってる」
瞬は一瞬だけ考えてから、バッグを担ぎ直す。
「……だよな」
二人は並んで歩き出す。
校門を出て、夕方の道へと溶けていった。
水路から少し離れた場所で、咲は立ち尽くしていた。
背後から聞こえる水の音が、さっきよりも大きく感じる。
何度も、振り返りそうになるのをこらえて、前だけを見る。
スマホが震えた。
燈真からだ。
『今から向かう』
短い文だった。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
すぐに、もう一通届く。
『無理しないで、離れてて』
咲は、小さくうなずいた。
『はい』
それだけ返す。
本当は、もっと伝えたいことがあった。
怖い、という気持ちも。
あれは絶対に普通じゃない、という確信も。
でも、今は、この一言でいい気がした。
水路に近づくにつれて、燈真の足取りは自然と速くなっていた。
夕方の風が、頬に冷たく当たる。
遠くに、水路の柵が見える。
その近くに立っている人影。
――咲だ。
そして、その視線の先。
水面の一部が、不自然に盛り上がっている。
燈真の目には、それがはっきりと分かった。
水の奥に、別の輪郭がある。
(……いる)
咲にしか見えないはずの存在。
けれど、覚醒している自分には、その異常が分かってしまう。
燈真は、足を止めず、そのまま水路へと向かった。
胸の奥に広がる、はっきりとした確信とともに。
(――この違和感の正体は、ここだ)
水路のそばで、咲は動かずに立っていた。
近づいてくる足音に気づいて、はっと顔を上げる。
「……燈真先輩」
小さな声だった。
燈真はうなずくだけで、すぐに水路へ視線を向ける。
フェンス越しの水面は、一見すると、いつもと変わらない。
夕方の光を反射して、ただ静かに流れているだけだ。
――けれど。
咲には、はっきり見えていた。
水の中央。
わずかに盛り上がった水面の下で、
水ではない何かが、形を変えながら存在している。
まるで、水の中に別の空間が押し込まれているみたいだった。
「……あれです」
咲は、指先で示した。
「さっき、水しぶきが上がって……」
言葉の途中で、喉が詰まる。
思い出すだけで、背中がひやりとした。
燈真は、咲の指の先を見つめた。
けれど、咲が見ている“それ”は、燈真の目には、はっきりとは映らない。
ただ――
水面の奥に、違和感の塊が沈んでいるように感じる。
空気が、そこだけ歪んでいるような。
「……確かに」
燈真は、低くつぶやいた。
「変だな」
それは、見えているからではなかった。
自分の内側が、警鐘を鳴らしている。
近づくな、と。
ここだ、と。
同時に告げている。
咲は、燈真の横顔を見て、少しだけ驚いた。
「……見えるんですか?」
燈真は、すぐには答えなかった。
「……いや」
正直に言う。
「はっきりは、見えない」
咲の胸が、きゅっと縮む。
けれど、次の言葉で、少し救われた。
「でも……いるのは分かる」
燈真は、水路から目を離さないまま続けた。
「水じゃない、何かが」
その言い方が、咲の感じているものと、ぴたりと重なっていた。
咲は、小さく息を吐く。
「……よかった」
「一人で見てるだけかと思って」
燈真は、ほんのわずかに視線を咲へ向けた。
「一人じゃないよ」
それは、咲を安心させるための言葉であると同時に、
自分自身に言い聞かせるようでもあった。
そのときだった。
水面が、わずかに揺れた。
ちゃぷん、と。
小さな音。
けれど、咲には、それがはっきり分かった。
水の動きとは、違う。
内側から、押し上げられるような揺れ。
「……っ」
思わず、息をのむ。
次の瞬間。
水しぶきが、ぱっと跳ね上がった。
大きな音ではない。
けれど、明らかに不自然だった。
ただ流れているだけの水路では、起きないはずの動き。
「今の……」
燈真が、低く声を漏らす。
見えていなくても、異常は分かる。
音と、空気と、胸の奥をざわつかせる感覚が、はっきり告げていた。
――ここで、何かが起きている。
咲は、後ずさりそうになる足を、必死に踏みとどめた。
「……さっきも、こんな感じでした」
声が震える。
「急に、水が跳ねて……そのあと……」
言葉にできない。
形も、輪郭も、説明しようとすると、どこか壊れてしまう。
水なのに、水じゃない。
生き物みたいで、でも、生き物とも違う。
咲の視界の中で、
それは、ゆっくりと存在感を増していた。
水面の下で、
別の影が、重なっている。
燈真は、ポケットの中で、無意識にスマホを握りしめていた。
零と瞬の顔が浮かぶ。
家に帰ってから送った、あのメッセージ。
まだ返事は来ていない。
(……間に合うか)
いや。
間に合わせる。
そう決める。
「咲」
燈真は、咲のほうを見て言った。
「少しだけ、離れよう」
「え……?」
「ここ、近すぎる」
咲も、同じことを感じていた。
怖さよりも先に、
“近い”という感覚が、はっきりある。
水路と、自分たちの距離が、
思っているよりずっと短い。
咲は、無言でうなずいた。
二人は、フェンスから数歩、距離を取る。
それでも、視線だけは、水路から外せなかった。
そのころ。
学校の正門を出たところで、
零は、スマホの画面を見下ろしていた。
すでに着替えは終えている。
制服の上に薄手の上着を羽織り、プール帰りの湿った髪を、無造作にまとめていた。
「……来てる」
ぽつりと呟く。
画面には、燈真からのメッセージ。
『今、水路の近くで変な情報が入った』
『あとで詳しく話す』
少し遅れて、もう一通。
『できれば、来てほしい』
零は、短く息を吐いた。
「……また、か」
嫌そうな口調ではない。
むしろ、どこか覚悟を含んだ声だった。
すぐ横で、瞬がスマホを取り出す。
さっきまで着ていた袴姿はもうない。
今は制服姿だ。
ベルトを締め直しながら、画面を確認する。
「……俺にも来てる」
零のほうを見る。
「燈真からだよな」
「ああ」
二人の視線が、一瞬だけ交わる。
説明はいらなかった。
この短い文面だけで、
状況の重さは、十分に伝わる。
「水路、って」
瞬が、歩き出しながら言う。
「前に話してた場所か」
「たぶんね」
零は、歩調を合わせる。
「……日向が、気にしてた」
その名前を口にしてから、すぐに言い直すように続ける。
「燈真が、だ」
瞬は、苦笑する。
「もう、どっちでもいいだろ」
それでも、
二人にとって、その名前の揺れは、まだ少しだけ引っかかっていた。
「……で」
瞬は、画面を閉じながら言う。
「今回も、あれか」
「多分」
零は、短く答えた。
「普通の人には、分からないやつ」
瞬は、空を見上げる。
夕焼けが、薄く伸びている。
「……面倒だな」
そう言いながらも、
足は迷わず、水路の方向へ向いていた。
一方で。
咲の視界の中で、
水の中の異物は、さらに存在感を増していた。
さっきよりも、
水面の歪みが大きい。
影の重なり方が、変わっている。
「……大きく、なってます」
思わず、そう口にしていた。
燈真は、咲の言葉に反応して、水面を睨む。
やはり、見えない。
けれど。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
嫌な圧迫感が、広がっていく。
(……近づいてる)
何かが、こちらに意識を向けている。
そんな感覚さえあった。
その瞬間。
水路の中央で、
もう一度、水しぶきが上がった。
先ほどよりも、はっきりと。
ぱしゃっ、という音が、静かな住宅街に響く。
咲は、思わず燈真の袖をつかんだ。
「……今……」
「うん」
燈真も、目を細める。
音と振動が、
地面を通して、わずかに足裏に伝わった。
――生まれかけている。
咲の中で、はっきりとした言葉が浮かぶ。
まだ完全じゃない。
でも、
確実に、そこに向かっている。
「燈真先輩」
咲は、小さく言った。
「……これ、たぶん……」
言い切る前に、口を閉じた。
怖いのは、
自分の想像が当たっていることだった。
燈真は、ゆっくりと息を吸う。
「……零と瞬、呼んでる」
「え……」
「もうすぐ、来ると思う」
その言葉に、咲はわずかに目を見開いた。
自分が知っている連絡先は、燈真だけ。
けれど、その先に、
ちゃんと仲間がいることを、今、初めて実感する。
水路の水面が、
再び、不自然に揺れた。
さっきよりも、長く。
さっきよりも、深く。
咲の目には、
水の内側で、
輪郭が、ゆっくりと形を作り始めているのが見えた。
水ではない何かが、
ここで――
確かに、目を覚まそうとしていた。




