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02話 水路のそばで

 マンションへ続く道の途中に、小さな公園がある。

 夕方の名残がまだ空に残っていて、街灯は点いていない。

 滑り台とブランコの影が、地面に細長く伸びていた。

 ――今日も、なにもない日だと思ってたんだけどな。

 燈真は、その言葉を頭の中でなぞりながら、公園の脇を歩いていた。

 マンションまでは、あと少し。

 そのとき、微かに水の音が耳に届いた。


 公園の奥。

 フェンスの向こうに、細い水路が走っている。

 そのそばに、女子生徒が二人いた。

 一人はスマホを構え、もう一人はしゃがみ込み、水路の中を覗き込んでいる。

(……同じ学校の制服だ)

 気づけば、歩く速度が落ちていた。

 立っていたほうの女子が、こちらに気づいて小さく会釈をする。

「あの……すみません」

 少し控えめな声。

 「ちょっと、聞いてもいいですか?」

「この辺で、変な音とか聞いたことありませんか」

「水の音とは、ちょっと違う感じの……」

 燈真は一瞬だけ言葉に詰まる。

 けれど、足が止まった理由は、自分でも分かっていた。

「……さっき、ここを通ったときに」

「水の流れとは違う音は、しました」

 正直に答える。

 女子は、ほっとしたように小さく息をついた。

「ありがとうございます」

 それから、こちらを見て、はっきりと名乗る。

「青葉高校一年、白石咲(しらいしさき)です。」

 燈真は軽く頷いた。

「同じ学校の……燈真。二年」

「先輩なんですね」

 咲は、少しだけ表情を緩める。

 水路を覗いていたもう一人の女子が、顔を上げた。

「やっぱり、聞こえてたんだ」

「うん。場所も、この辺で合ってそう」

 二人は小さく顔を見合わせる。

「部活なんですか?」

 燈真が聞くと、咲は首を横に振った。

「部活というか、愛好会なんですけど」

「愛好会?」

「怪奇現象の調査、みたいなことをしてて」

 さらりと言い切る。

「学校には、ちゃんと届け出してます」

 念のため、というように付け足した。

 もう一人の女子が、スマホの画面を見ながら言う。

「今日、水路まで行こうかな」

「うん。今の音、はっきりしてたし」

 二人の視線が、同時に水路へ向いた。

 フェンス越しに、風で草が揺れる。

 その直後だった。

 ちゃぽん、という水音とは違う、

 鈍く、こもったような音が、水路の奥から響いた。

 咲の表情が、わずかにこわばる。

「……今の、聞こえました?」

「うん」

 燈真は短く答えた。

 一瞬、公園の空気が重くなる。

「無理に付き合ってもらうつもりはないので」

 咲がすぐに言った。

「教えてもらえただけで、大丈夫です」

「答えてくれて、ありがとうごさいました」

 はっきりした声だった。

 燈真は小さく首を振る。

「いえ……気をつけてください」

 咲に連絡先を聞かれ、簡単にだけやり取りしてから、燈真はその場を離れた。

「はい、本当にありがとうございました」

 咲は軽くお辞儀をし、水路へと視線を戻す。

 燈真は、それ以上踏み込まず、公園の出口へ向かって歩き出した。

 途中で、一度だけ振り返る。

 二人はライトを点けて、水路の脇へと戻っていくところだった。

 嫌な感じがしたわけではない。

 ただ――

 胸の奥に、ほんの小さな引っかかりが残る。

 マンションのエントラが見えてくる。

 自動ドアの前で足を止め、ポケットから鍵を取り出す。

 ――さっきの水路のほう、

 なんだか、嫌な予感がする。

 ただの思い込みだと、自分に言い聞かせるように、息を吐いた。

 ……零と瞬にも、一応伝えておくか。

 自動ドアが、静かに開く。

 燈真は、そのままマンションの中へ入っていった。


 同じ頃。

 学校の屋内プールには、夕方特有の湿った空気がこもっていた。

 レーンを切る水音が、規則正しく響く。

 水着姿の零は、壁を蹴ってターンし、そのまま鋭く水面を割った。

 無駄のないフォームで、一定のリズムを刻む。

 ゴールに触れたところで、ようやく顔を上げる。

「いいペースだ」

 顧問の短い声。

 零は軽く頷き、プールサイドへ上がった。

 タオルで髪の水を拭きながら、壁の時計を見る。

(……まだ、いける)

 そう判断して、もう一度キャップを直した。

やがて練習が終わり、零は更衣室へ戻る。

ロッカーを開け、着替えを取り出してから、シャワー室へ向かった。

汗と塩素の匂いを洗い流し、短くシャワーを浴びる。

そのあと、タオルで髪と身体を拭き、

練習用ジャージに着替えてから、ロッカーの前に戻った。

ロッカーを閉めようとした、そのとき。

ロッカーの奥で、スマホが震えた。

画面には、燈真からのメッセージ。

『今日、帰りに水路の近くで、ちょっと変な音がしてた』

零は、短く画面を見つめる。

(水路……)

 続く文も読む。

『気のせいかもしれないけど、一応』

「……分かった」

 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

 スマホをポケットに入れ、ロッカーを閉めた。

 燈真が、わざわざ連絡してきた。

 その事実だけが、胸に残る。


 一方、弓道場。

 張りつめた静けさが、床の上に広がっていた。

 袴姿の瞬は、射位に立ち、ゆっくりと弓を引き絞る。

 呼吸を整え、狙いを定める。

 ――放つ。

 乾いた音が、道場に響いた。

 矢は、ほぼ真ん中に刺さっていた。

「ナイス」

 後輩の声に、瞬は小さく手を上げて応える。

 最後の立ちを終え、片付けを済ませる。

 弓を弓立てに戻し、矢筒を整えてから、道場を出た。

 更衣室で袴を脱ぎ、制服に着替える。

 帯をほどき、袖に腕を通すと、

 ようやく身体の力が少し抜けた。

 ロッカーを閉める前に、スマホを取り出す。

 画面には、燈真からの通知。

『今日、帰りに水路の近くで、ちょっと変な音がしてた』

「……水路?」

 小さく呟く。

 続きの文も確認する。

『気のせいかもしれないけど、一応』

 冗談にしては、文面が静かすぎた。

「零にも……届いてるよな」

 スマホをポケットに入れ、廊下へ出る。

 胸の奥に、さっき的を外した瞬間の違和感が、まだ残っていた。


一方、公園の水路脇。

 咲はライトで足元を照らしながら、ゆっくりとフェンス沿いを歩いていた。

 水路の縁は苔で滑りやすく、靴の裏が時々きしむ。

「……やっぱり、ここだと思うんだよね」

 咲の隣で、もう一人の一年生がスマホの地図を見せる。

「苦情が出てる場所、この辺に集中してる」

「夜に、変な音がするってやつ?」

「うん。あと、水が逆流したみたいに見えたって話も」

 咲は小さく頷いた。

 どれも、決定的な証拠にはならない。

 けれど、気のせいで片づけるには、少しだけ重なりすぎている。

「さっきの先輩……」

「燈真先輩?」

「うん」

 名前を思い出すように、咲は小さく口に出した。

「ちゃんと、聞こえたって言ってた」

「外の人にも聞こえるなら、気のせいじゃない可能性は高いね」

 二人は、フェンス越しに水路の奥を見つめる。

 街灯が届かない場所は、暗く沈んでいる。

 そのときだった。

 ――ぐにゃり。

 水面が、わずかに歪んだ。

「……え?」

 声が、思わず漏れる。

 波紋とは違う。

 内側から押されるように、水の表面が持ち上がり、すぐに元に戻った。

「今の……見た?」

「見た」

 即答だった。

 咲の喉が、ひくりと鳴る。

 ライトを向けると、水路の底には、石とゴミと落ち葉しか見えない。

「……風、じゃないよね」

「うん」

 二人とも、同時に一歩だけ後ずさる。

 怖い、という感情よりも先に、

 理解できない、という感覚が胸に広がっていた。

「今日は……無理しないでおこうか」

 咲が、静かに言った。

「うん。最低限、場所だけ記録して帰ろう」

 スマホのカメラが、水路を写す。

 シャッター音が、やけに大きく聞こえた。


 公園をあとにして、マンションの部屋に戻ってから、少し時間が経っていた。

 自分の部屋に戻った燈真は、制服のままベッドに腰を下ろした。

 スマホを手に取り、少しだけ迷ってから、メッセージ画面を開く。

 宛先は、零と瞬。

『今日、帰りに水路の近くで、ちょっと変な音がしてた』

『気のせいかもしれないけど、一応』

 送信。

 画面を閉じてからも、しばらくスマホを握ったままだった。

 右耳のワイヤレスイヤホンに、そっと触れる。

 ――本当に、なにもなければいい。

 ベッドの上で、燈真はしばらく天井を見上げる。

 右耳のワイヤレスイヤホンからは、音楽ではなく、環境音だけが小さく流れている。  完全に遮断してしまうのが、どうしても落ち着かなかった。

 片耳だけ。

 それが、自分の中で決まっている形だった。

 部屋の外を通る車の音。  どこかの部屋のテレビの音。  エレベーターが止まる低い振動。

 それらが、薄く混ざって耳に届く。

 静かすぎないことが、今はちょうどよかった。

 スマホの画面を、もう一度だけ確認する。

 零と瞬のトーク画面。  まだ、どちらにも既読はついていない。

(……練習中だよな)

 零は、今ごろプールだろう。  瞬も、弓道場にいる時間帯だ。

 すぐ返事が来るなんて思っていない。

 それでも、送ったあとから、  胸の奥に、小さなざらつきが残ったままだった。

 燈真は、ゆっくりと息を吐く。

(なにか、嫌な予感がする……って)

 自分で送った言葉を、頭の中でなぞる。

 はっきりとした根拠があるわけじゃない。  見たわけでもない。  正体が分かったわけでもない。

 ただ、

 あの水路の音だけが、  普通の生活の中に、少しだけ混ざりきらなかった。

 それだけだ。

 それなのに――

 スマホを置こうとして、  ふと、指が止まった。

 窓の外。

 カーテンの隙間から見える、向かいの建物の明かり。

 その下の暗がりが、  なぜか、一瞬だけ気になった。

 燈真は、体を起こし、  カーテンをほんの少しだけ開ける。

 風に揺れる街路樹。  人影は、ない。

 当たり前の風景。

 それなのに、

 さっき公園で感じたものと、  よく似た感覚が、胸の奥でわずかに動いた。

(……考えすぎだ)

 小さく、そう言ってカーテンを閉める。

 ベッドに戻り、  右耳のイヤホンを、指で軽く押さえた。

 外と、完全には切れない位置。

 その距離が、今の自分には必要だった。


 燈真がメッセージを送ってから、少ししてのことだった。

 一方、学校の更衣室。

 シャワーを終えた零は、  すでに制服のシャツを着た状態で、  ロッカーの前に立っていた。

 濡れた髪はタオルで軽く拭いただけで、  まだ少し水気が残っている。

 ロッカーの中からスマホを取り出し、  画面を点ける。

 燈真からのメッセージは、さっき確認したままだ。

『今日、帰りに水路の近くで、ちょっと変な音がしてた』

 もう一度だけ読み返す。

 零は、しばらく考えてから、  短く文字を打った。

『分かった。ありがとう』

 それだけ。

 余計な言葉は、つけなかった。

 画面を閉じ、  スマホをロッカーに戻す。

(水路……)

 場所は聞いていない。  けれど、なぜか頭の中には、  いくつかの風景が浮かんでいた。

 零は、バッグを肩に掛け、  更衣室を出る。

 プールサイドに戻ることは、もうない。

 今日の練習は、終わりだ。

 廊下を歩きながら、  胸の奥に、小さな引っかかりが残る。

 ただの偶然であってほしい。

 そう思いながらも、  燈真がわざわざ連絡してきたことが、  静かに重みを持っていた。


 弓道場の更衣スペースでは、  瞬が袴を畳み、制服のズボンに履き替えていた。

 動きは手慣れている。

 上着を羽織り、  最後にスマホを手に取る。

 画面には、燈真からの通知。

『今日、帰りに水路の近くで、ちょっと変な音がしてた』

 瞬は、眉をわずかに寄せる。

「水路……?」

 小さく呟いてから、続きの文も読む。

『気のせいかもしれないけど、一応』

 ほんの数秒だけ考え、  すぐに返信を打った。

『了解。場所わかったら教えて』

 送信。

 それから、スマホをポケットに入れる。

 さっき、射の途中で感じた違和感。

 空気が揺れたような、あの感覚。

 それと、  燈真の言葉が、頭の中で重なる。

(偶然、だよな)

 そう思いながらも、  どこかで否定しきれずにいた。

 瞬は、弓袋を持ち、  静かな道場を後にする。


 公園から少し離れた道を歩きながら、  咲は、スマホのメモ画面を開いたまま、立ち止まっていた。

「水面の歪み……っと」

 短く打ち込み、保存する。

 横にいる同級生が、小さく息を吐いた。

「やっぱり、変だよね」

「うん」

 咲は、即答した。

 怖かったわけじゃない。

 けれど、  説明できないものを見てしまった感覚が、  まだ目の奥に残っている。

「明日、愛好会の先輩に見せよ」

「だね」

 画面を閉じ、  スマホを制服のポケットにしまう。

 そのとき、ふと、  さっき声をかけてきた先輩の顔が浮かんだ。

(燈真先輩……)

 あの人も、  確かに音を聞いたと言っていた。

 自分たちだけの話じゃない。

 その事実が、  逆に、胸の奥を静かにざわつかせる。

「帰ろっか」

「うん」

 二人は並んで歩き出す。

 振り返らずに。

 もう一度あの水路を覗く勇気は、  今日は、なかった。


  同じ時間。

 マンションの部屋で、  燈真のスマホが、小さく震えた。

 瞬からの返信。

 続いて、少し遅れて、零からも。

 燈真は、画面を開く。

 短い文。

 けれど、  ちゃんと届いていることが分かる内容だった。

「……ありがとう」

 誰にともなく、呟く。

 右耳のイヤホンをつけたまま、  ベッドに背中を預ける。

 たったそれだけで、  胸の奥のざらつきが、ほんの少しだけ薄れた。

 それでも――

 消えたわけじゃない。

 水路の奥で聞いた、あの音。

 咲が見た、水面の歪み。

 零と瞬が、それぞれ感じた違和感。

 まだ、誰も知らない形で、  同じ方向に、静かにつながり始めている。

 燈真は、目を閉じる。

 そして、心の中で、もう一度だけ思った。

(……なにか、嫌な予感がする)

 今日も、まだ終わっていなかった。

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