01話 ――放課後、いつもと同じ時間。
終業のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一斉に緩んだ。
椅子を引く音。
机の脚が床を擦る音。
鞄のファスナーを閉める音。
「部室寄ってく?」
「今日はコンビニな」
「先行くわー」
聞き慣れたやり取りが、あちこちで交差する。
窓の外は、夕方に差しかかる淡い光に包まれていた。
――今日も、何事もなく終わった。
そう思ってしまうほど、あまりにも普通の放課後だった。
日向燈真は、机に肘をついたまま、ぼんやりと校庭を眺めていた。
校舎の影がゆっくりと伸び、グラウンドへ向かう生徒たちの姿が小さく揺れる。
「……帰るか」
小さく呟いて、鞄に手を伸ばす。
机の中を確認する。
教科書。
ノート。
シャーペン。
全部、揃っている。
忘れ物がないかを確かめる癖は、いつから身についたのか分からない。
ただ――取りこぼさないようにしておくことだけは、昔から意識している。
それから、無意識に耳に触れる。
右耳に、白いワイヤレスイヤホンがひとつ。
授業中から、ずっとつけたままだ。
片方だけ、角に小さな傷がある。
理由は分からない。
ただ――
これが耳にないと、落ち着かない。
燈真は軽く指で位置を直して、そのままポケットに手を戻した。
「燈真」
隣から声がした。
振り向くと、そこに立っていたのは水無瀬零だった。
黒髪を後ろでまとめ、肩には大きめのスポーツバッグ。
中からタオルとゴーグルケースを取り出し、忘れ物がないかを確かめてから、静かにファスナーを閉める。
無駄な動きがない。
最初から入っている場所を知っているみたいだった。
燈真は、零のそういうところを、少しだけ羨ましいと思っている。
自分はいつも、「これでいいのか」を何度も確かめてしまうからだ。
「放課後、なにか用事ある?」
「……なにもない」
即答だった。
零は一瞬だけこちらを見て、短く頷いた。
それ以上、言葉は続かない。
このクラスで、零が多くを語らないことは、もう当たり前になっている。
「今日もプール?」
後ろの席から、少し間の抜けた声が飛んできた。
振り向くと、そこには風間瞬がいた。
「うん」
零は答えながら振り返る。
「えらいね。ほぼ毎日じゃん」
「別に」
「普通、めんどくさくならない?」
「ならない」
あまりにも即答で、瞬が吹き出した。
「即答だな」
燈真は二人のやり取りを、黙って眺めていた。
零が水泳部に入っていることは、クラスでもそれなりに知られている。
朝練もあって、放課後も練習がある。
けれど本人は、それを特別だとは思っていないようだった。
「瞬は?」
零が、不意に聞いた。
「俺?」
「今日も弓?」
「そりゃそうでしょ」
瞬は当然のように言う。
「試合近いし」
「……ホントなの?」
零が、ほんの少し首を傾げる。
「え、疑われてる?」
「集中力あるから。向いてると思う」
間を置かずに零が続けた。
瞬は一瞬だけ言葉に詰まり、それから照れくさそうに笑った。
「珍しいな。零にそう言われるの」
「ホントなの?」
淡々とした声だった。
「……まあ、悪い気はしないけど」
瞬は肩をすくめる。
燈真は、そのやり取りから視線を外した。
こういう何気ない会話の輪の中に、自分はいつも半歩だけ入りきれていない気がする。
「そういえばさ」
瞬が思い出したように言った。
「次の小テスト、やばくね?」
「……今それ言う?」
「いや、今だから言うんだろ」
燈真は小さく息を吐いた。
「範囲、無駄に広いんだよ」
「だよな。先生、絶対楽しんでる」
「瞬が言うと説得力あるな」
「ひどくない?」
たわいない会話。
内容なんて、正直どうでもいい。
けれど、このどうでもいい時間が、放課後の始まりを実感させる。
「燈真はさ」
瞬がこちらを見る。
「帰り?」
「……うん」
「相変わらずだな」
「まだ言う、それ」
「いや、もう諦めてる」
即答だった。
「燈真は、なんか……そういうタイプじゃないし」
「どういう意味だよ」
「そのまんま」
瞬は笑う。
零は二人を交互に見てから、少し考えるように間を置いて、ぽつりと口を開いた。
「でも……燈真、放課後は、ちゃんと休んだほうがいいと思う」
「え?」
「疲れてる顔、してる」
思わず、自分の頬に触れた。
「そんなに分かる?」
「分かる」
即答だった。
「無理してる感じ」
責めるでも、慰めるでもない。
ただ事実を並べるような言い方だった。
「……別に」
燈真はそう返して、視線を逸らす。
本当に、特別な理由なんてない。
少なくとも、今は。
ただ家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、寝るだけだ。
「じゃあ先、行く」
零がスポーツバッグを肩に掛ける。
「うん」
「頑張って」
燈真が言うと、零は一瞬だけこちらを見て、短く頷いた。
教室の後ろ扉が閉まる音が、小さく響く。
扉が閉まったあと、教室の空気がほんの少しだけ変わった。
話し声が減り、代わりに廊下から運動部の掛け声が遠くに聞こえる。
夕方になると、この校舎は急に広くなる。
人が減るほど、建物の輪郭が、はっきりしてくるような気がした。
「相変わらずだよな」
瞬が呟く。
「無駄なこと言わない」
「無駄って言うなよ」
「効率的」
「それもどうなんだ」
二人で、ほんの少し笑った。
教室はもう半分以上が空になっている。
窓から差し込む夕焼けが、机の列を斜めに照らしていた。
「おーい燈真」
背後から、瞬の声。
振り返ると、瞬はすでに弓袋を肩に掛けていた。
「……あれ? もう部活もう行くの?」
「当たり前だろ」
瞬は背中の弓袋を軽く持ち上げる。
「だけど今日、ちょっと遅めの集合でさ。
弓道場行く途中。こっち回ると近いんだよ」
「そうなんだ」
「だから、ほんとにたまたま」
廊下に出ると、外の空気は少しだけひんやりしていた。
夕方の校舎は昼間よりも静かで、足音がよく響く。
「あ、ここだ」
昇降口の手前で、瞬が足を止める。
「こっち行くと、弓道場なんだ」
「そっか」
「じゃ、俺、部活行ってくる」
「うん」
「燈真も、無理すんなよ」
「……部活じゃないけどな」
「知ってる」
瞬は小さく笑って、弓袋を背負い直した。
「じゃあな、燈真」
そう言って、瞬は弓道場のある方向へ小走りで向かっていった。
昇降口の前で、燈真は足を止めた。
ポケットから小さなケースを取り出し、中に収まっていたもう片方のイヤホンを指でつまむ。
右に続いて、左の耳にも。
小さな装着音が、静かに響いた。
――これでいい。
燈真は、校舎の外へと歩き出した。
校門を出ると、街の音が一気に戻ってきた。
車のエンジン音、遠くの踏切、コンビニの自動ドアが開く電子音。
夕方の空は、まだ明るさを残しているのに、どこか一日が終わってしまう色をしている。
燈真は歩きながら、無意識に再生を止めていた音楽を流す。
耳の奥で、低く柔らかい音が広がる。
両耳にイヤホンを入れていると、世界との距離が、ほんの少しだけ一定になる。
遠すぎず、近すぎず。
ちょうどいい場所に、自分が立てる。
——さっきまでは、片耳だけだった。
授業中は、片方だけ。
誰にも気づかれない程度に。
それが、自分の中で決まっている。
両方つけてしまうと、逆に周りが分からなくなりすぎる。
片方もつけていないと、今度は、音や気配が直接入り込みすぎる。
だから、あの教室では、あれが一番ちょうどいい。
……ちょうどいい、はずだった。
燈真は歩道の端で、ふと足を緩めた。
校門を出ると、街の音が一気に戻ってきた。
車のエンジン音、遠くの踏切、コンビニの自動ドアが開く電子音。
夕方の空は、まだ明るさを残しているのに、どこか一日が終わってしまう色をしている。
燈真は歩きながら、無意識に再生を止めていた音楽を流す。
耳の奥で、低く柔らかい音が広がる。
両耳にイヤホンを入れていると、世界との距離が、ほんの少しだけ一定になる。
遠すぎず、近すぎず。
ちょうどいい場所に、自分が立てる。
——さっきまでは、片耳だけだった。
授業中は、片方だけ。
誰にも気づかれない程度に。
それが、自分の中で決まっている。
両方つけてしまうと、逆に周りが分からなくなりすぎる。
片方もつけていないと、今度は、音や気配が直接入り込みすぎる。
だから、あの教室では、あれが一番ちょうどいい。
……ちょうどいい、はずだった。
燈真は歩道の端で、ふと足を緩めた。
通学路の角にある自販機。
昔から何も変わらない配置。
並んでいる飲み物も、だいたい覚えている。
見慣れているはずの景色なのに、今日はほんの一瞬だけ、輪郭がぼやけたように感じた。
——目が悪くなったわけじゃない。
視界じゃなくて、感覚のほうだ。
胸の奥に、かすかな引っかかりが残っている。
『疲れてる顔、してる』
零の声が、遅れて戻ってきた。
自分では、分からなかった。
無理をしているつもりもなかった。
ただ、いつも通りに過ごして、いつも通りに帰ろうとしていただけだ。
燈真は、ポケットの中で指を動かす。
イヤホンケースの角に、親指が触れた。
——そういえば。
いつから、こんなに音に頼るようになったんだろう。
はっきりしたきっかけは、思い出せない。
ある時から、
外の音が、少しだけ重たく感じるようになった。
話し声。
靴音。
笑い声。
ドアが閉まる音。
全部が一度に耳に入ってくると、頭の中が、うまく整理できなくなる。
だから、音楽を流す。
一定のリズムで、世界を上書きする。
それだけのことのはずだった。
……それだけのこと、のはずなのに。
横断歩道の前で立ち止まり、赤信号を待つ。
前に立っているのは、知らない高校生と、買い物袋を持った女性。
誰も、自分のことなんて見ていない。
それなのに、胸の奥がわずかにざわつく。
理由はない。
本当に、理由はない。
信号が変わり、人の流れが動き出す。
燈真も、その流れに合わせて歩き出した。
足並みを、周囲に合わせる。
速すぎず、遅すぎず。
——合わせるのは、昔から得意だった。
空気を読むとか、場の雰囲気に従うとか。
そういうことは、たぶん、瞬よりも上手い。
零ほど無駄を削れるわけじゃないけれど、
少なくとも、浮かない位置には立てる。
それで困ったことは、ほとんどなかった。
……少なくとも、今までは。
交差点を渡りきったところで、燈真はふと立ち止まる。
スマホの画面を確認する。
通知はない。
未読も、着信も、何もない。
——やっぱり、なにもない。
さっき零に答えた言葉は、正しい。
正しいはずだ。
けれど、胸の奥に残っているこの違和感だけが、どうしても説明できなかった。
気のせい、と片づけるには、少しだけ、静かすぎる。
音楽が流れているのに、
その奥で、自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえた。
住宅街の道は、学校の前よりもさらに静かだった。
洗濯物が揺れる音。
犬の遠吠え。
どこかの家のテレビの音。
どれもが現実の音なのに、薄い膜を一枚挟んだ向こう側にあるみたいだった。
——この感じ。
少し前から、時々ある。
はっきり「おかしい」と言えるほどでもない。
でも、「いつも通り」と言い切るには、微妙にずれている。
零なら、どう言うだろう。
きっと、短く一言だけだ。
「変だと思うなら、変なんじゃない」
そんなふうに。
瞬なら、たぶん笑って流す。
「気にしすぎだろ」
そう言って、深く考えない。
……どちらも、間違ってはいない気がした。
燈真は、歩きながら、無意識に音量を少しだけ上げた。
世界が、さらに遠くなる。
その距離が、今はありがたかった。
自宅のマンションが見えてくる。
見慣れた外壁。
見慣れたエントランス。
帰る場所は、ちゃんとここにある。
それだけで、十分なはずだ。
——本当に、なにもない
さっき零には、そう答えた。
間違ってはいない。
今日の予定は、確かにどこにも書いていない。
けれど。
胸の奥に、小さな違和感が引っかかっていた。
理由の分からない、ほんの小さな引っかかり。
――この放課後が、ただの放課後で終わらなくなることを、
この時の俺は、まだ知らなかった。
「……今日も、なにもない日だと思ってたんだけどな」




