09/10 人類救済の形
製薬会社を完全に掌握し、人道支援という名の甘い蜜に包んで世界中にばら撒いたm-RNAワクチン。その奥深くに仕込まれた変異プログラムは、私の期待を裏切ることなく、精密な時計仕掛けのように完璧に機能した。余程の未開の地や、文明から完全に隔絶された秘境に暮らすわずかな者たちを除き、人類のほぼすべてが、じわじわと、しかし抗いようのない力でその本質を書き換えられ、確実な変異を遂げていった。
薄暗いラボの壁一面を埋め尽くす巨大なモニターには、世界各地の今を切り取った風景が、無機質なグリッド状に映し出されている。かつて人類がその英知と欲望の象徴として築き上げた、ガラスと鉄の都市の姿は、今や見る影もなく変わり果てていた。アスファルトの隙間からは野放図な雑草が芽吹き、かつての繁栄の残骸を飲み込もうとしている。
世界中の人間たちは、みんな猿怪人になった。
彼らは、しっかりとこのラボの培養槽で、厳密な遺伝子設計のもとに生み出された洗練された怪人ではない。あくまで救済と称して無償で投与された、意図的に品質を落とした粗悪なワクチンによって変異させられた、いわば粗造怪人だ。そのため、知性はかつての旧人から猿人程度まで劇的に退行し、複雑な言語も、高度な論理的思考も、今や彼らの脳内からは完全に消去されている。思考が極めて単純になった代わりに、眠っていた野生の身体能力と本能的な生命力は爆発的に増し、その肉体はかつての軟弱な文明人のそれとは比較にならないほど強靭なものとなっていた。
その結果、人類が数千年の歳月をかけて依存し続けてきた、薄氷のような文明のシステムは、瞬く間に音を立てて崩壊した。
高度な電力供給網は制御を失って暗転し、世界を繋いでいた巨大なサーバー群は、冷却を止めて物言わぬ鉄の塊へと変わった。秒刻みで運行されていた複雑な交通網は機能を停止して沈黙し、水道やガスといった、生命を維持するための最低限のインフラさえも継続が困難になった。かつては世界を恐怖に陥れるために訓練されていた悪の組織の戦闘員たちが、今は皮肉にも、無意味な爆発や環境汚染といった大惨事を防ぐために、各地の主要インフラ施設を安全な停止状態へと移行させるべく、必死の形相で奔走している。彼らはもはや、悪事を働くテロリストというよりは、文明という名の巨人の死を看取り、その後始末を管理する孤独なインフラ保守員のようだった。
そのシュールな光景を冷めた目で見つめながら、私はぬるくなったコーヒーカップを静かにデスクに置いた。陶器の触れる小さな音が、静寂に包まれたラボに不自然なほど大きく響く。
「ハハ……。見てよドクター。昨日までAIだの宇宙進出だのと騒いでいた先進社会が、たった数ヶ月で石器時代以下に逆戻りだね。もしかしたら、もっと前の時代かもしれないけど」
私の声には、計画を完遂したことへの深い達成感と、それでいて、あまりに脆すぎた人類という種へのある種の虚無感が、複雑に混ざり合っていた。
広大な画面の一つには、変異した猿怪人たちが、今やただの廃墟と化したスーパーマーケットの近くで、互いに見つけた食物を分け合っている姿が映し出されていた。毛深くなったその顔に、かつて人類が日常的に浮かべていたような、他人を疑う猜疑心や、日々の生活にすり減らされた疲弊の色は見当たらない。そこにあるのは、ただ目の前の空腹が満たされることへの、子供のように単純で曇りのない笑顔だった。
「ねえ、ドクター。宗教や資源、あるいはくだらない国土の境界線を巡る終わりのない争いから解放された彼らが、なんだか以前よりずっと幸せそうに見えるのは、どうしてだろうね。皮肉すぎて笑えないよ」
私は、椅子の背もたれに深く体重を預け、自らの内側に問いかけた。これこそが、私の悪の旅がたどり着いた、最終的なパラドックスなのかもしれない。悪意という名の劇薬が、結果として人類から苦悩を奪い去ってしまったのだ。
皮肉なことに、人類という種を社会的に根絶することが、人類の魂を救済することに繋がってしまったのだろうか?
私の傍らに不動の姿勢で立っていたドクター・フリーズドライが、私の迷いを見透かしたかのように、そっと優しく、私の肩にそのゴツゴツとした手を置いた。その動作一つで、私の散らばった思考に明確な答えが与えられていく。彼の岩のように冷たくも確かな指先には、数億年の時を種として生き抜いてきたクマムシ怪人としての、超越的な達観が宿っているようだった。
「田中さん。あなたが今感じているその感情は、決して皮肉などではありません。これは、生命の進化、あるいは退化というプロセスにおける一つの必然なのです」
ドクター・フリーズドライは、穏やかながらも重厚な、確信に満ちた声で静かに語り始めた。
「文明の後退は、同時に彼らを数千年の間、絶え間なく苦しめ続けてきた目に見えない束縛からの、真の解放でもありました。そもそも、彼らをそこまで追い詰め、絶望させていた正体は何だったのでしょう? それは、進化の過程で歪に肥大化した、過剰な知性が生み出す幻想と、その複雑性そのものです」
彼は一呼吸置き、モニターに映る無邪気な猿たちの群れを指し示して続けた。
「宗教上の対立、資源の奪い合い、虚構の国境をめぐる終わりのない紛争、そして階級社会が生み出す絶望的な不平等。精神をすり減らすだけの過酷な競争社会。これらすべてが、人類の誇りであった高度な知性の喪失と共に、煙のように消え去ったのです。知性がなければ、悩みも、恨みも、未来への不安も存在しません」
モニターの中の猿怪人たちは、夕暮れの太陽の下で泥にまみれ、互いの毛繕いをしながら声を上げて笑っている。彼らは、もはや自分がどこの国の出身かも、かつて何を信仰していたかも、自分の銀行口座にいくら残高があったかも知らない。ただ、今この瞬間を生きるための本能的な充足感と、仲間との絆だけが、彼らの世界のすべてとなっている。
「猿怪人たちは、今や極めて単純で純粋な欲求、つまり良質な食物、身体の安全、そして温かな共同体という、生命の基本原理に基づいて行動するようになりました。その姿は、かつて文明に毒されていた頃の彼らよりも、確かに幸福そうに見えるでしょう。彼らの笑顔は、複雑な二重思考や、心の奥底に隠された醜い悪意から解き放たれた、生命そのものの純粋な喜びを映し出しているのかもしれません。あなたは、彼らから知性を奪うことで、皮肉にも彼らに永遠の安らぎを与えたのです」
悪意をもって人類を根底から改造し、文明を破壊した結果、人類は皮肉にも、彼らが歴史を通じて最も切望し、ついぞ手に入れられなかった平和と幸福という果実を手に入れたのだ。
私は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がった。窓のないラボの空気は、どこか神聖な静寂を湛え始めている。
「そうか。私は、ただの暇つぶしと悪意をもってこの世界を支配しようとした。けれど、結果として、私はこの世界を、人類を、地獄のような知性の檻から救済してしまったんだね。私は救世主になんてなりたくなかったのに」
私の悪の旅は、人類という種としての尊厳を滅ぼすことで、皮肉にもその存在意義を最も美しい形で完成させた。目的は果たされ、もはやこの世界に、打倒すべき正義も、破壊すべき社会も残っていない。悪の組織としての存在意義さえも、この静かな平和の中に溶けて消えようとしていた。
私自身の肉体への改造手術は、結局最後まで行われることはなかった。しかし、私は確信している。私は既に、メスを入れるまでもなく、その思考と行動によって人間怪人として覚醒していたのだ。そして、人類史における最も冷酷で、最も偉大な救済者となったのかもしれない。
私は、モニターを消した。そこには、暗転した画面に映る、たった一人の生き残った人間の、穏やかで恐ろしい微笑みが浮かんでいた。
topics AIの解説
アウストラロピテクス(猿人):約400万年〜200万年前にアフリカに生息していた人類の祖先にあたる「猿人」の仲間です。最も重要な特徴は、初期段階で直立二足歩行を行っていたことであり、その後の人類の進化の出発点となりました。
初期のアウストラロピテクスは、果実、葉、ナッツなどを主に食べていました。
後には、動物の死骸の肉や骨髄を石で割って食べるようになり、食生活の幅を広げていきました。後にホモ属へと進化する系統では、より進化した道具を使うようになっていきました。
ネアンデルタール人(旧人):頑丈な体格を活かした狩猟採集生活を営み、小規模ながらも緊密な社会を形成していました。最新の研究では、家族のつながりを重視し、死者を丁寧に埋葬するなど、現代人に近い社会的行動をとっていたことが明らかになっています。
遺伝子分析や考古学的な証拠から、彼らのコミュニティは家族の絆が強く、病気や怪我を負った仲間を助け合うなどの協調性があったことがわかっています。
ムスティエ文化と呼ばれる高度な剥片石器技術を用いて、槍先やナイフ、皮革加工用の道具など、用途に応じた多様な道具を作っていました。




