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8/10

08/10 人道支援

私はラボの片隅にある古びたデスクに座り、熱を失いかけたコーヒーカップを両手で包み込むようにして、その黒い水面に映る自分の冷めた目を見つめていた。ラボ内に漂う微かな消毒液の匂いと、絶え間なく回るサーバーの排熱が混ざり合い、奇妙な重苦しさを形成している。私は視線を上げ、大型モニターの前に立つドクター・フリーズドライに問いかけた。


「計画通り、あの大手製薬会社の内部情報のリークと株による強引な買収、それに研究開発部門へのうちの人員の潜り込みは順調に進んでいるかしら? 資本の鎖で首を絞める感触はどう?」


ドクター・フリーズドライは、私の問いかけに応じるようにして、モニターからゆっくりと顔を向け、大きく深く頷いた。彼の岩のように凹凸の激しい顔が、青白い画面の光に照らされ、成功への確信によってわずかに上気しているように見える。その複眼のような瞳には、冷徹な科学者の計算と、それ以上の期待が宿っていた。


「完璧です、田中さん。あなたの指示した人間怪人としての戦略通り、我々の組織の資産は既に製薬業界の最深部にまで、癌細胞のように浸透しています。絶妙なタイミングでの不祥事リークによる株価操作と、暴落した瞬間の裏での買収を組み合わせた結果、業界全体へのコントロールは今や盤石なものとなりました。彼らは自分たちが誰に飼われているのかさえ、気づいていませんよ」


「よろしい。世界を支配するには、まずその命綱を握るのが一番手っ取り早いものね」


私は満足げな笑みを薄く浮かべ、カップをカチリと音を立ててデスクに置いた。コーヒーの苦みが喉の奥に残り、それが今の私の気分に妙に馴染んでいた。


「それじゃあ、溜まりに溜まった毒を一気に流し込む時が来たようね。計画を第二段階に進めましょうか」


私は立ち上がり、タブレットに表示させた鮮やかな世界地図の、ある一点を指先で強く叩いた。そこは、広大な領土と強大な権力を誇る、私が計画の最初から最も理想的なターゲットとして定めていた国だった。


「ターゲットは、あの巨大な国で決まり。理由は明確よ。一つ、あそこには世界でもトップクラスの大きな病理研究所があり、人類にとって未知の危険なウイルスがいくつも保管されていること。そして二つ、その管理体制が外側の虚飾とは裏腹に、極めて杜撰であるという噂が絶えないこと」


私はタブレットの画面をスライドさせ、研究所の入り口を無防備に映し出す衛星写真をドクターに見せた。


「加えて三つ目。研究所も、そしてその国の上層部も、致命的なまでに隠蔽体質であること。何かが起きても、彼らはメンツのためにまず隠そうとする。それが致命的な遅れを生むわ。そして、何よりも四つ目。人口が過密で、一度火がつけば感染が防ぎようのない速さで広がりやすいという、理想的なパンデミックの発生源としての条件を全て満たしているのよ」


「なるほど、彼らの弱さと誇り、その両方を燃料にするわけですね」


「そう。そこでタコ怪人の出番よ。彼らの変幻自在な軟体と、背景に溶け込む完璧な擬態能力なら、研究所の最新鋭の警備網などあってないようなものだわ。彼にそこから漏出させてもらうのは、たまにしか死なないけれど、感染力だけはやたらと強い、嫌なタイプの病原体。空気感染や飛沫核感染で、目に見えない死の霧として拡大しやすい形態に調整してちょうだい。死者が多すぎると、みんな家に閉じこもっちゃうからね」


ドクター・フリーズドライは、その計画の血も涙もない狡猾さに、魂を揺さぶられたような感嘆の吐息を漏らし、静かに、しかし力強く頷いた。直接的な武力や破壊を一切使わず、人類が築き上げてきた社会の構造そのものを最大の武器に転換する。それが人間怪人、田中マリの流儀だった。


数日前、私が薄暗いラボの隅でドクター・フリーズドライに耳打ちした内容は、人類の未来を永遠に、そして根底から支配するための、永劫の支配計画の恐るべき全貌だった。


「人間と動物や植物を、細胞レベルで完璧に融合させられるってことは、ドクター。あなたの遺伝子工学や分子生物学の知識は、現行の学会や、そこらの高名な研究所を遥かに超えているんでしょ?」


私は、この狂った科学者が持つ超越的な技術力そのものを、最も強力な毒液に変えることを提案した。ドクターの指先が、何事かを予感して微かに震える。


「あえて漏出させたウイルスに対するワクチンの中に、人間の遺伝子情報をじわじわと書き換えて、彼らを変異させるm-RNAプログラムを仕込むのよ。救いの中に、破滅を忍ばせるの」


「逆転写酵素を利用し、宿主のゲノムを恒久的に書き換える……まさに神か悪魔の業ですな」


このアイデアこそが、私の計画の核心であり、究極の悪意だった。ウイルスを広めるという行為は、絶望した人類に自ら進んでワクチンを打たせるための、巨大な舞台装置に過ぎないのだから。


「世界の健康を守るとか、人道支援だとか、そんな反吐が出るような綺麗事を並べて、儲けは度外視、利益ゼロという触れ込みで世界中にばら撒きなさい。我々が秘密裏に買収した製薬会社から、最も早く、最も安く、そして最も劇的な効果を示す救いの手を、天の助けのように差し伸べるのよ」


見えない敵の恐怖に怯え、パニックに陥った世界で、感染症のパンデミックが瞬く間に広がる中、一刻も早く、どこよりも安価に提供される特効ワクチンがあったとしたら、人々はどう動くだろうか?


「人類は恐怖で理性を失い、列をなして自ら救いを求め、喜んでその腕を差し出すわ。たとえワクチンを頑なに拒む反ワクチン派の人たちであっても、別のインフルエンザや日常的な疾患が同時に流行れば、一生薬を一切使わずに生きられる人なんてそうそう居ない。彼らもまた、今までと同じ、自分たちを癒してくれる安全なものだと盲信して、その変異の種を自ら体内に取り込むことになるの」


私は、暗い悦びに満ちた悪辣な笑みを浮かべ、自分の爪を見つめた。


「そう、今回のターゲットは一部の特権階級じゃない、全人類よ。人類みーんな、可愛い猿怪人になあれ。最初は、最近ちょっと体毛が濃くなったかな、なんて。そんな些細な変化を楽しみながら、自分たちの知性が溶けていくことさえ気づかずにね」


タコ怪人の完璧な潜入工作により、研究所の奥深くから病原体は静かに漏出した。予想通り、メンツを重んじる上層部による隠蔽工作と、それによる初動の致命的な遅れが重なり、感染は瞬く間に国境を越え、世界は未曾有のパニックに叩き落とされた。各国の既存の製薬会社が右往左往し、不完全なワクチンを出す中で、裏ですべてのウイルスの構造を知り尽くしている我々の買収した製薬会社が、圧倒的に効果的なワクチンを、どこよりも早く、そして慈悲深い安価さで提供し始めた。


それは人類への最後の救済、聖者の如き献身として各国のメディアで大々的に喧伝され、希望の光として世界中を駆け巡った。


余程の秘境や、文明を拒絶した離島に住むわずかな者を除き、ほとんどすべての人類がそのワクチンを接種した。あるいは、知らず知らずのうちに、各地の病院で処方される治療薬を通して、不可逆的な変異プログラムをその細胞内に組み込まれていった。


発展途上国や貧困に喘ぐ国々にも、先進諸国が人道支援の名の下に、惜しみなくワクチンと、そしてその裏にある種を広げてくれた。


変異はゆっくりと、しかし確実に、潮が満ちるように進行していった。最初は些細な体臭の変化や、身体的なわずかな剛毛、あるいは感情の抑制が少しだけ効かなくなる程度の変化だと、誰も気に留めることはなかった。しかし、人々が違和感の正体に気づき始めた時には、全人類の遺伝子レベルでの敗北は、もはや取り返しのつかない段階に達していた。


そして数か月後。世界中の拠点からラボに送られてくる監視映像には、もはや私たちが知るかつての人類の姿はなかった。二足歩行のままで、贅沢に着飾った衣服を無残に引き裂き、全身を濃い毛で覆われ、顔つきが獣のように突き出し、野性的な力と、極めて単純な思考パターンのみを持つようになった猿怪人となった人々の姿が、瓦礫と化した都市のいたるところに映し出されていた。


人類は、その誇り高き文明と共に、ほぼすべてが猿へと帰ったのだ。


ドクター・フリーズドライは、モニターに映る、知性を失い叫び声を上げるかつての支配者たちを見つめながら、聖堂で祈りを捧げる巡礼者のように静かに手を打ち鳴らした。


「成功だ……田中さん。我々の計画は、完全に、そして美しく成功しました。無駄な血を流す武力による支配ではなく、遺伝子という生命の根源からの、絶対的な、抗いようのない支配です」


私は、その崩壊した世界を映すモニターの光を浴びながら、静かに微笑んだ。人類は、自らの矮小な知性と、それがもたらした文明という名の傲慢さによって、自らの手で滅びの道を選んだのだ。


「あとは、この鳴くことしかできない猿怪人たちを、私たちの新しい庭園でどう飼い慣らしていくか、だね?」


私は新たな世界の創造主として、次の退屈を埋めるための冷酷な暇つぶしを、ゆっくりと、しかし確実に考え始めていた。ラボの外では、猿たちの咆哮が、新しい時代の幕開けを告げるかのように響き渡っていた。





topics AIの解説




とある大国:新型感染症のパンデミック初期における大国の対応には、情報の隠蔽や初動の遅れ、ウイルスの拡散を招いたと多くの国から批判が集まりました。



大国政府が当初、感染拡大の規模を過小評価し情報を隠蔽したことで、パンデミックが世界的に広がるのを防ぐための重要な対応が遅れました。初期の段階で正しい情報が迅速に共有されていれば、国際社会はより効果的な対策を取れた可能性が指摘されています。



大国政府は、ウイルスの起源に関する国際的な調査に対して、一貫して協力的でない態度を取っていると批判されています。これにより、起源の特定を難しくし、将来のパンデミックを防ぐための教訓を得る妨げとなっています。


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