03/10 人間の最大の敵
ヒドラ怪人計画、そして病原体怪人という、文明そのものを根底から揺るがしかねない過激な構想をあっさり却下された私は、少しばかり拍子抜けした心地で、目の前のクマムシ怪人、ドクター・フリーズドライに顔を向けた。ラボを支配する重苦しい機械の駆動音と、時折混じる不規則な放電のパチパチという音が、私の思考の残響をかき消していく。ドクターは、その岩のように厚く無機質な皮膚を微かに震わせ、私が抱いた野心的な、あるいは破壊的な熱を静めるように、ファイルから新たなページをゆっくりと、しかし確かな手つきで取り出した。その指先は乾燥しているはずなのに、めくられた紙の音は妙に湿り気を帯びて響く。
「では、改めて検討しましょう。田中さんのような、既存の秩序の隙間を縫うような優れた戦略家には、暴力的な個の力よりも、集団を支配し、統率する能力こそが適しているかと思われます」
ドクター・フリーズドライが節くれ立った指で指し示したのは、図鑑の挿絵のように精密に描かれた、一匹の黒々とした昆虫のイラストだった。鋭い顎、硬質な外殻、そして規律正しく動く六本の脚。それは誰もが道端で見かける、ありふれたアリの図解だった。
「どうでしょう、アリは。個々の力は弱くとも、彼らは巨大なコロニーという一つの意志として機能します。我々の最先端技術を用いれば、フェロモンの分泌と受信能力を生物学的限界を超えて飛躍的に強化し、末端の働きアリや兵隊アリの神経系を意のままに操る、絶対的な女王アリ怪人となることができます。あなたはただ玉座に座り、思考するだけで、万の軍勢があなたの手足として世界を蹂躙するのです」
ドクターの声は、冷徹な科学者としての熱を帯び、淡々と、しかし情熱的に続けられた。
「一つの巣があたかも一個の巨大な生物のように行動する。あなたは、自らの体の一部である巨大な軍団を、テレパシーのような感覚で、まるで呼吸をするかのように統率できる。これこそ、組織的な支配を目的とする我々の活動に、最も適した能力ではないでしょうか?」
アリ怪人。軍団を操る支配者。それは、確かに私の神経を心地よく刺激する魅力的な提案だった。正面から武力に頼るのではなく、目に見えない無数の兵士を使って、静かに、しかし確実に世界という組織を内側から侵食していくイメージは、私の胸をわずかに躍らせた。冷たいパイプ椅子の感触さえ、その高揚感を際立たせる装置のように感じられた。
だが、ドクター・フリーズドライの言葉の中にあった、一つの巣があたかも一個の生物のように行動する、というフレーズが、私の思考をさらに深く、さらに悪辣な方向へと急旋回させた。脳裏に浮かんだのは、アリの行列ではなく、もっと複雑で、もっと脆く、それでいて最も残酷なシステムだった。
「巣が、一つの生物……?」
私は小さく、自分自身に言い聞かせるように呟いた。世界という巨大な社会、あるいは人類という種全体を、まるで単一の生命体のように操ることはできないだろうか。そのための完璧なモチーフは、既にこの足元に、この皮肉な現実の中に存在している。
「ドクター、大変魅力的ですが、その提案も却下です」
私が、まるで冷たい水を浴びせるように即答すると、ドクター・フリーズドライは珍しく驚きを隠さず、その無機質な瞳を僅かに見開いた。彼の肩のあたりで、微細な皮膚の調整が行われたのか、かすかに擦れる音が響く。
「おや、もう次のアイデアが? あなたの思考の速度には、感服せざるを得ませんな」
「ええ。アリよりもずっと悪辣で、人間にとって一番危険で厄介な生物。それは、既にこの世界に蔓延っています。彼らが最も警戒し、それでいて最も無防備になれる存在ですよ」
私は、意図的に声を低く沈めた。その声には、底知れない、それでいて静かな悪意が澱のように滲んでいた。ラボの冷えた空気が、私の言葉を核にして凍りついていくような錯覚に陥る。
「『人間』怪人。これでお願いします。私の姿を、あるいは本質を、最も尖鋭化させた存在です」
デスクを挟んだ向かい側で、ドクター・フリーズドライのゴツゴツとした、岩を思わせる肌が、さざ波のように微かに波打ったように見えた。それはクマムシ怪人としての本能的な動揺の現れだったのかもしれない。
「これは……また、意表を突く、奇抜なご提案ですね。人間に人間を重ねるとは」
「奇抜でしょうか? 我々が悪の組織である以上、そして人類という種の頂点、あるいは支配を目指す以上、人類の最大の天敵となるべきです。歴史を紐解くまでもなく、人類の最大の敵とは、常に人類自身ですよ。これ以上のモチーフがどこにあるというのです?」
私は、頭の中で緻密に練り上げていた戦略の糸を、ドクター・フリーズドライの前に一本ずつ丁寧に開陳し始めた。この怪人には、ビルを砕くような物理的な剛力も、猛毒も必要ない。必要なのは、研ぎ澄まされた知性と、それを駆動させる純粋な悪意だ。私は、自分の細い指を一本、ゆっくりと立てた。
「一つ、心理操作。相手の心理の襞を自在に操り、最も強固なはずの信頼を内側から腐らせ、救いようのない社会的な対立を生み出す。嘘と真実を絶妙な配合で混ぜ合わせ、人々を疑心暗鬼の沼に陥れる。誰もが隣人を信じられなくなった時、組織の支配は完成します」
続いて、二本目の指を立てる。私の影がデスクの上で長く伸び、怪人のように歪む。
「二つ、弱点の看破。私が狙うのは、ヒーローの物理的な装甲や弱点ではない。彼らが守ろうとする、あの歪な正義感や使命感、あるいは愛する家族といった、最も柔らかい精神的な弱点や恐怖心を冷酷に突き、物理的な死よりも残酷な、精神的な破滅へと追い詰める。英雄を、ただの絶望した人間に戻すのです」
そして三本目。私の声は、もはや悦びに震えていた。
「三つ、社会の分断。この怪人は、人間社会に深く、音もなく溶け込みます。見た目も中身も、隣にいる誰かと見分けがつかない。その実は、旧世界の崩壊と、その瓦礫の上での支配を望む存在としての怪人。社会を徐々に、しかし確実に分断し、小さなコミュニティ間の不和を煽り、共食いを誘発する。まるで、アリの巣を、女王アリが自らの手で静かに壊していくように、文明を内側から自壊させるのです」
そして、私は最高の切り札を、確信を持って告げた。
「この怪人が最終的に引き起こすのは、人類同士による最終戦争です。世界中で憎しみが爆発し、誰もが誰もを信じられなくなり、自衛の名の下に引き金を引き合う。ヒーローたちは、誰を救い、誰を倒せばいいのか分からず、守るべき社会から裏切り者として排斥され、孤立し、その力を無意味に削がれていく。私たちが直接手を下し、血を流す必要など、どこにもないのですよ」
私は満足そうに、自らの勝利を確信した軍師のように腕を組んだ。
「最終戦争の炎が消えた後、そこには疲弊しきった人類と、機能不全に陥ったインフラ、そして荒廃した土地だけが残るでしょう。その時こそ、悪の組織にとって、最も支配しやすい、肥沃な土壌が完成する。これが、私が構想する究極の『人間』怪人の戦略です」
ドクター・フリーズドライは、しばらくの間、時が止まったかのような沈黙の中に身を置いていた。やがて、彼はゆっくりと、重々しく首を振った。その表情には、私のアイデアに対する科学者としての戦慄と、拭いがたい困惑が複雑に入り混じっていた。
「田中さん……その戦略は、悪の組織の目的を達成する上では、極めて合理的で、かつ吐き気がするほど悪辣です。既存の社会構造の脆弱性を、これほど冷酷に突く発想は、まさに天才的なものと言えるでしょう。あなたの頭脳そのものが、我々の兵器を凌駕している」
彼はそう認め、賞賛を送りながらも、クマムシ怪人らしい冷静さを取り戻し、私のプランの核心的な矛盾を突いてきた。
「しかし、我々の改造技術というものは、異種の動物や植物の細胞、あるいは特異な遺伝子を人間の肉体に融合させ、その生物学的特性を人為的に強化するものです。人間に、改めて人間の細胞を混ぜ合わせたとしても、それは結局のところ、ただの『人間』にしかなり得ませんよ。あなたは、今この瞬間も、既に人間です。それを実行するつもりなら、わざわざ苦痛を伴う改造手術を受ける必要など、どこにもありませんよね」
ドクター・フリーズドライは、お手上げだというように肩をすくめた。その行動は、無機質な事実の提示であり、私の壮大で悪辣なロマンを、現実という壁に叩きつけて打ち砕くものだった。
「あなたは既に、その恐るべき知性と、底知れない悪意という天賦の才を持っています。我々組織があなたに与えられるのは、あくまで外付けの強力な力であって、内なる悪意の質を強化することではないのです。あなたは、改造されるまでもなく、既に我々を導く怪人なのかもしれませんな」
「ダメかー!」
私は、大きく、そして心底残念そうにため息をついた。これこそが、世界を支配するための最高のパズルを解く鍵だと思ったのに。椅子の背もたれに背中を預けると、冷たい硬質さが現実を呼び戻した。
「改造の必要がない、か。言われてみれば、その通りかもしれないわね。私は私のままで、十分に醜悪だということかしら」
私はデスクにもたれかかり、再び白紙に近い状態から思考を巡らせ始めた。私に必要なのは、既に持っているこの悪意を増幅させることではなく、その悪意をこの退屈な世界に対して具現化し、確実に実行に移すための、圧倒的な物理的手段なのだ。
「仕方ないわね。じゃあ、搦め手ではなく、もっと直接的な、それでいて効率的な攻撃に絞りましょうか。ドクター、次の候補を考えますよ。あなたの白衣を汚さないような、最高の恐怖をね」
topics AIの悪意解説
人間
利己主義と対立
自分の利益を最優先する: 人間の利己的な本性は、自分自身の快楽や利益を最優先させ、他者の利益やコミュニティ全体の幸福を犠牲にすることがあります。
不寛容と分断: 自己中心的で固定観念にとらわれた考え方は、他者への不寛容や、人種、宗教、文化による分断や対立を生み出します。
搾取と不平等: 権力や資源の独占を求めるあまり、他者を搾取し、社会的な不平等や格差を拡大させてきました。
破壊性と無責任
環境破壊: 人間は経済成長や利便性を追求するあまり、大規模な森林破壊や汚染、生態系の破壊を引き起こし、地球環境を劣化させています。
戦争と暴力: 争いを通じて歴史上繰り返されてきた戦争や暴力は、計り知れない苦しみと破壊をもたらし、人類自身を脅かす脅威となっています。
自己破壊的な行為: 薬物やアルコール依存、自殺、過剰な消費主義など、自らの幸福や健康を損なう自己破壊的な行動をとる傾向もあります。
傲慢と不合理
自己過信と非合理性: 多くの人間は、自身の能力や性質を過大評価し、非合理的な信念や独断に固執する傾向があります。
科学技術の負の側面: 科学技術の進歩は多くの恩恵をもたらしましたが、同時に環境汚染や大量破壊兵器の開発など、人間を不幸にする技術の暴走も引き起こしました。
過去から学べない歴史: 歴史上、多くの過ちを繰り返してきたにもかかわらず、その教訓を生かしきれず、同じような問題を引き起こすことが少なくありません。
共感性の欠如
無関心と残虐性: 他者の苦しみに対して無関心であったり、工場畜産に見られるように、他の生物に対して残虐な行為を行うことがあります。
操作と欺瞞: 自身の目的のために他者を操作したり、欺瞞に満ちた行動をとったりする性質も指摘されています。




