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02/10 水辺の災厄

「……優秀ですよ。組織の尖兵として、これほど汎用性と確実性に優れたモチーフはありません。ワシミミズクの夜間隠密性と、ゴリラの圧倒的なフィジカル。田中さん、これらは候補として非常に優秀ですよ」


ドクター・フリーズドライは、岩のような質感の指をデスクの上で静かに組み、穏やかな、それでいて逃げ場を許さないような理知的な口調で私の選択を待っていた。天井の複雑なパイプラインからは、時折、蒸気が漏れるようなプシューという乾いた音が響き、不規則に明滅する蛍光灯が彼の無機質な顔に深い陰影を落としている。しかし、私の脳裏では、彼が提示した王道かつ効率的な選択肢とはまったく異なる、ある微小な生命体が、巨大な脅威へと変貌していく想像図が鮮明な色彩を持って描かれていた。それは生物学的な進化の袋小路ではなく、文明そのものを内側から食い破るような、静かなる破滅のイメージだった。


「いえ、もっと面白いのがいい!」


私は、使い古されたパイプ椅子の背もたれから体を剥がし、デスクに肘をつき、心底楽しそうな笑みを浮かべた。その笑みは、本来この場にふさわしいはずの恐怖や絶望とは無縁の、純粋な悪意と、実験キットを前にした子供のような好奇心に満ちていた。私の瞳には、周囲に並ぶ悍ましい怪人たちのパーツではなく、まだ見ぬ混乱の景色が映っていたに違いない。


「水生生物のヒドラはどうでしょう?」


私の唐突な提案に、ドクター・フリーズドライのゴツゴツとした岩のような顔が一瞬だけ、まるで凍りついたかのように固まった。彼のまぶたのない瞳が僅かに収縮し、体表の水分調整機能が過剰に働いたのか、皮膚の隙間からかすかに白い粉のような塩分が浮き出る。


「ヒドラ、ですか?」


「ええ。最初はどの程度の大きさになるかは分かりませんけど、驚異の再生能力と増殖力があるでしょう?」


私は楽しそうに身を乗り出した。安っぽい事務デスクが私の体重を受けてギィと不快な音を立てたが、そんなことは気にならなかった。この異常極まる状況を、私は人生で最高の暇つぶし、あるいは自分という存在を賭けた壮大なギャンブルだと捉え始めていた。指先でデスクの表面を軽く叩きながら、私はその生物の可能性を語る。


ドクター・フリーズドライは、少し声を潜めて答えた。その声は、驚きを超えて、学術的な興奮と警戒心が混ざり合ったような複雑な響きを帯びていた。


「ヒドラは、ギリシャ神話の怪物が名前の由来になっている、体長数センチに満たない程度の、流れの少ない淡水に住む生物ですね。我々の技術で細胞レベルの特性を抽出することは可能です。触手の一本一本、細胞の一つ一つに宿る原始的な生存本能を増幅させることは、技術的には不可能ではありません」


彼は慎重な手つきでファイルをめくり、透過性の高いヒドラのイラストと詳細な数値データが表示されたページを指した。イラストに描かれたヒドラは、淡水の中をゆらゆらと漂う無害な糸屑のようにも見えるが、その微細な体には驚くべき秘密が隠されている。


「特徴としては、麻痺毒を持つ触手。そして、驚異的な再生能力による、限りなく不老不死に近い生命力。確かに、その潜在能力は計り知れません。もし小ささを克服し、陸上適応を大幅に強化すれば、大変な脅威となるでしょう。我々も以前、兵器としての検討は行いました。巨大な触手で街を薙ぎ払う巨獣、といったプランもありましたが……」


ドクター・フリーズドライが当然のように組織の常套手段である"陸上適応"と"巨大化"の方向性を提示してきたのに対し、私はつまらなそうに首を横に振った。私の求めているのは、そんな特撮映画のような単純な暴力ではない。


「ああ、陸上適応とか大きさはそこそこでいいですよ。大きさはもとから人間大になる必要はありません。むしろ、そんな巨体は標的になるだけです。陸上適応もせいぜい雨の日とか、湖沼から池へ、水源から水源に移動できる程度であれば十分です。それに、大きすぎる体は隠れひそむのに邪魔になりますからね。この怪人の強みは、その遍在性にこそあるんです」


彼の想定を軽やかに覆す私の言葉に、ドクター・フリーズドライは興味深そうに目を細めた。クマムシ怪人である彼は、自らも極限環境下の生存に特化した存在であるがゆえに、私の発想の端々に宿る「生存の執着」が理解できているようだった。彼の喉が微かに鳴り、唾液を飲み込むような仕草を見せる。


「強化するのは、むしろポリプによる増殖や、各分裂体の意識の統合です。本体は、巨大な水源の底に張り巡らせた地下茎、いえ、菌糸のようなネットワークを形成する。それがキモです。個体としての死を克服し、集団としての生命へ移行するんです」


私はデスクに広げられた色褪せた日本地図を、指先でなぞった。私の指は、地図上の青い筋――河川や湖を追い、まるでそこを自分の領土であると宣言するように強く押し当てた。


「まず、琵琶湖などの大きな水源で延々と増えるんですよ。核となる巨大な塊を形成する。水底の暗闇の中で、誰にも気づかれずに増殖を続けるんです。そして、ある程度増えたら、近くの他の水源に移動して増殖を繰り返す。全国の水源、ダム、川、そして地下水脈、下水管……すべてを乗っ取るんです。日本中の蛇口の裏側まで、私の細胞で埋め尽くすんですよ」


私の口元に浮かぶ危険な笑みは、さらに深く、暗く沈んでいった。自分自身の言葉が、冷たい水のように背筋を這い上がっていく感覚がある。


「そう、こんなシナリオです……」


私は、ドクター・フリーズドライに向けて、まるで深夜に放送されるB級映画の企画書を読み上げるかのように、淡々とした、それでいて熱を孕んだ口調で語り出した。ラボを流れる機械の重低音が、私の物語の不気味なBGMのように聞こえてくる。


「『ある日突然水辺に居た人が消えるという事件が起きる。』最初は小さなニュースになるでしょう。行方不明事件として、あるいは水難事故として。誰もが、それが一過性の不運だと思い込む」


「『ヒーローが調査すると、水辺に多数のポリプが寄り集まったヒドラの"人間大"の怪人がいることを発見する。』そう、人間の注意を引くために、あえて"端末"を人間大の姿で出現させる。そしてヒーローと交戦させる。ヒーローは正義の拳を振るい、怪人を粉砕するでしょう」


「だが、『倒したところで事件はおさまらない、なぜなら倒したのはヒドラの端末、ほんのひと枝に過ぎないのだから。』本体は水底で、何千、何万という分裂体を抱えながら増殖を続けている。ヒーローが一体の怪人を倒しても、それは巨大なネットワークの末端を切ったに過ぎず、数時間後には別の場所から、全く同じ姿をした別の端末が這い出てくる」


ドクター・フリーズドライの顔から、営業用の笑みが完全に消えた。彼の体表の水分調整が、わずかに、しかし明確に乱れたように見えた。彼の肌は極度の緊張からか、不自然な湿り気を帯び、冷たい汗のような滴がコンクリートの床に一滴、音もなく落ちた。


「『完全に消滅させるなら、ヒドラ怪人が拡散した日本中、いえ世界中の水源が相手だ。』もはや、一国、一都市の問題ではない。水源をすべてヒドラが生存不能となるまで汚染するか、特殊な薬品で浄化するか。いずれにせよ、それは地球規模の環境破壊という別の問題を引き起こす。人類は私を殺すために、自らの生命線を切るという自滅的な手段しか選べなくなる」


私は、一言一言に呪いを込めるように、言葉に力を込めた。私の視線は、ドクターの顔を通り越し、その背後にある深い闇を見据えていた。


「『さらに水を使う所なら下水を通ってどこにでも怪人の端末が現れる。』水道の蛇口から、トイレから、街中の噴水から。予測不能、防衛不可能。どこからでも攻撃できる『水陸両用型テロネットワーク』の完成です。逃げ場なんて、この星のどこにもありません」


そして、私は究極の問いを投げかけた。それは、正義の味方という存在の根幹を否定するような、残酷な問いだった。


「この状況で、『ヒーローは24時間365日変身しっぱなしで戦えるかな?』」


ドクター・フリーズドライは、私の恐るべき計画の全貌を、その明晰な頭脳で瞬時にシミュレートし、戦慄した。彼の頭の中では、水のネットワークを通じて無限に増殖するヒドラ怪人が、世界中の都市を麻痺させ、人類が自らの手で文明を破壊していく終末の光景が、パノラマのように広がっていた。


「……なるほど。恐ろしい、実に恐ろしい発想だ。生物の特性をこれほどまで戦略的に、かつ冷酷に拡張させるとは」


彼は一度目を閉じ、深く重い息を吸い込んだ。ラボの冷たい空気が、彼の肺を鳴らす。


「田中さん、あなたは素晴らしい知性をお持ちだ。我々が求めていた以上の、真の悪の才能と言ってもいい。しかし……」


ドクター・フリーズドライは、試験管の中でゆらゆらと浮かぶ、未完成の怪人たちの断片を、複雑な表情で見つめた。そこにあるのは、支配するための暴力であり、滅ぼすための毒ではないのだ。


「我々、悪の組織の目的は、愚かなる人類を支配し、組織が頂点に立った新世界を創造することです。人類や生物すべてを滅ぼしたいわけではない。もし水源すべてを汚染し、人類やその他の生物を絶滅に追いやれば、我々が支配し、君臨すべき"新世界"そのものが成立しません。王座に座る前に、玉座が崩壊してしまっては意味がないのです」


彼は静かに、しかし断固とした拒絶を込めて首を振った。その動きに合わせて、彼の白衣が微かに擦れる音がする。


「その計画では、組織の存続に関わる致命的な問題が生じます。人類を滅亡させるという結果は、我々の目的とは根本的に相容れません。残念ながら、ヒドラ怪人計画は不採用、却下となります」


私の計画は、あまりにも完全で、あまりにも美しく機能しすぎて、組織の存在意義すら脅かしてしまうものだったのだ。私は大袈裟に肩をすくめ、背もたれに体重を預けて愉快そうに笑った。その笑い声は、静まり返ったラボの天井に不気味に反響した。


「仕方ないなあ。じゃあ次点に考えてた、毎年型を変えて出る"インフルエンザ怪人"とか、破壊力抜群の"スペイン風邪怪人"や"ペスト怪人"なんかは、たぶんこの理由で却下されるんでしょうね。誰にも見えないまま、社会を確実に殺していく方法なら、いくらでもあるんですけど」


ドクター・フリーズドライは、私が次のアイデア、それも同様に凄惨な結果を招くものを既に用意していることに驚愕しながら、深く、重々しく頷いた。彼の背中を、かつてないほど濃密な悪意が撫でていくのを感じているようだった。


「……ええ、間違いなく。それらもまた、我々の『統治』の範疇を逸脱しています。それは怪人というか、ただのバイオテロです。おっしゃる通り不採用です」


topics AIの解説



ヒドラ: クラゲやイソギンチャクと同じ「刺胞動物」の仲間です。多くの刺胞動物が海に生息する中、ヒドラは数少ない淡水性の種です。体長は1cm程度の細長い円筒形で、先端には毒を持つ刺胞(毒針)を備えた触手があり、餌を捕らえます。脳は持たず、神経細胞が体中に張り巡らされています。



ヒドラは、一生を通じてポリプの形態で過ごすユニークな生物です。体の約半分が幹細胞で構成されているため、体の大部分を失っても再生できます。バラバラに砕いても、数百個の細胞から元の個体に再生できる驚くべき能力を持つとされています。

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