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10/10

10/10 最後の悪意

人類という種の根絶と、その結果としてもたらされた皮肉なまでの救済。あまりに壮大で、かつ残酷な目標を達成してしまった地下ラボの中は、耳が痛くなるほどの奇妙な静寂に支配されていた。空調の微かな唸りさえもが、達成感と深い虚無感が澱のように混ざり合った独特の空気をかき混ぜている。


私が人類の救済者という、歴史上最も巨大なパラドックスに思いを馳せる中、ドクター・フリーズドライは恭しく、かつ静かに一歩下がった。彼の複眼のような視線は、もはや私個人という点ではなく、このラボ全体、そして彼が築き上げてきた組織の全容を俯瞰するように向けられていた。


「田中さん、あなたは人類という種が数千年の間抱え続けてきた、知性という名の最大の病巣を摘出しました。しかし、その神のごとき業の結果として、我々悪の組織は皮肉にも、その存在意義を完全に失ってしまったのです。戦うべき敵も、屈服させるべき社会も、もはやこの地上には存在しません」


ドクター・フリーズドライは、モニターに映し出された、日の当たる広場で微睡む猿怪人の姿を一瞥した。その表情には、目的を喪失した虚脱感が滲んでいる。


「監視システムが捉えた映像によると、かつて世界を震撼させた幹部たちは今、本拠地のレクリエーションエリアで思い思いの時間を過ごしているようです。その姿は、あまりに……あまりに平和です」


目的を失った悪の組織の末路。モニターの映像が切り替わると、そこにはかつての私であれば噴き出していたであろう、信じられない光景が映し出されていた。


かつて世界征服という血塗られた野望を抱き、恐ろしくも圧倒的なカリスマ性を放っていた悪の幹部たち。全身を冷たいクロム合金で覆った破壊工作員は、その一撃でビルを粉砕する油圧式の指先を使い、まるで壊れ物を扱うように慎重にポテトチップスをつまんでいた。その隣では、かつて数万人を精神操作で支配した美貌の女幹部が、自らの魔力を完全に封印し、穏やかというよりは退屈そうに、湯気の立つ紅茶を啜っている。


彼らはもはや、世界を破壊する計画も、ヒーローを罠に嵌める策略も立てていない。彼らが今、全神経を集中させて熱中しているのは、昼間から気だるそうに行うポーカーだった。


「クソッ、またロイヤルストレートかよ、ブラックスター! お前、その強化された視覚でカードを透視してねぇだろうな!」


「失礼なことを言うなよ、ワーム。この完璧に平和な世界で、そんな姑息な能力を使う意味がどこにあるんだい? 勝っても負けても、我々の生活は何一つ変わらないんだから」


彼らの声は、まるで平日の午後に集まった暇を持て余す友人のように陽気で、どこまでも軽薄だった。世界を支配したという重圧もなければ、正義の味方に追われる恐怖もない。彼らが心の底で欲していたのは、結局のところ、この退屈極まりない平和だったのかもしれない。組織の膨大な資源や活動資金は、もはや湯水のように使い放題だ。ラスベガスのカジノから回収してきた最高級のチップとカードを使い、彼らは巨大なテーブルで永遠に終わらない遊興に耽っている。


幹部たちが自分探しの旅に出たり、昼間から賭け事をして過ごしたりするその姿は、組織の目的が完全に達成され、それゆえに組織という機能が完全に死に絶えたことを象徴していた。


ドクター・フリーズドライは、再びラボの最奥、複雑な配線と培養槽が並ぶ自身の研究エリアへと視線を向けた。そこには、彼の右腕となって働いてきた悪の科学者チームが、重苦しい沈黙の中で集合していた。


彼ら、純粋な好奇心の塊であった悪の科学者たちは、誰一人としてポーカーに興じることはなかった。彼らが手にしているのは、美酒のボトルではなく、既に役目を終えて解体された怪人細胞のサンプルや、古びた記録メディアだった。彼らの顔には、幹部たちの空っぽな陽気さとは対照的な、底なしの陰鬱さが漂っていた。


「私の研究チームも、現状は完全な機能不全に陥っています」


ドクター・フリーズドライは、岩のような胸を上下させ、小さく重いため息をついた。


「人類という種の限界を突破し、新たな進化を促すという、人類史上最大の偉業を我々は成し遂げました。しかし、成し遂げてしまったがゆえに、その後の目標が霧散したのです。猿怪人となった彼らには、もはや複雑な新技術も、洗練された破壊兵器も不要です。彼らはただ食い、寝るだけで満足している。知性を奪われた被支配層に対し、我々の無限の知性はもはや持ち腐れであり、彼らはただ鬱々と、過去のデータを弄ぶ日々を過ごしています」


彼らは、技術の応用先を、つまり自らの存在を証明するための「課題」を失ったのだ。悪の組織の根源的な目的は支配であり、そのための力として技術開発が存在した。しかし、支配が完了し、支配対象がこれ以上ないほど単純化した今、科学者たちの鋭敏な知性は、ただラボの停滞した空気を重く、暗くしているだけだった。


「そういえば……」


私は、ふと自分自身の立場を思い出した。これほどの規模の計画を立案し、人類史という壮大な叙事詩を書き換えたというのに。


「ドクター、私の怪人改造って結局どうなったんだっけ? いつの間にか称号だけ人間怪人なんて呼ばれて、祭り上げられているけれど」


私は、自分の両手を広げてじっと見つめた。そこには、数多の怪人を生み出し、世界を塗り替えたとは到底思えない、何の改造の痕跡もない、柔らかな普通の人間の手があった。


「ねえ、今からでも何かに改造してもらおうか? どう思う?」


この、完璧な平和と底知れない虚無に満ちた世界で、わざわざ痛い思いをして改造手術を受ける意味が、果たしてどこにあるのだろうか。


ドクター・フリーズドライは、私のその無邪気な問いかけに対し、久しぶりに科学者らしい、鋭く強い輝きを瞳に宿した。彼は一歩踏み出し、熱を帯びた声で語りかける。


「田中さん、あなたは今日まで、肉体的な改造を一切必要としませんでした。なぜなら、あなたの持つその悪辣で、かつ透き通った知性そのものが、我々の組織が到達しうる究極の兵器だったからです。あなたは、我々の技術を最も洗練された形で具現化し、世界を再定義した。あなたは、人間怪人という称号に相応しい、この宇宙で唯一無二の、完成された存在です」


だが、彼の言葉には、消えかかった熾火に油を注ぐような続きがあった。


「しかし、もし、あなたがこの退屈を破るための、新たな目標を必要とするならば……話は別です」


彼は、ラボの暗がりに並ぶ、青白く発光する巨大な試験管の列を指差した。その向こう側で、研究チームの鬱々とした表情がモニターに映し出されている。彼らは、飢えた獣のように、新しいミッションを、自分たちの知性を燃やすための新しい火種を求めていた。


「我々科学者も、新たな目標という糧がなければ、その過剰な知性によって自らを食らい、自壊してしまいかねません。田中さん。あなたは再び、我々に新たな悪の探求の道を、終わりのない旅路を示してくださるのではないでしょうか?」


私は再び、深く、深く考えた。この平和で、原始的な喜びだけに満ちた世界は、私にとっては数分で飽きてしまうほど退屈なものでしかない。そして、組織が培ってきた有り余る力は、この地球という小さな揺り籠を揺らすために使われただけで、まだその真価のほとんどが眠っている。


「人類は救済された。けれど、宇宙はまだ、この美しい悪意による救済を知らない」


私は、静かに微笑んだ。私の頭の中には、かつて読んだ生物学の資料にあった、無限の寿命を持つとされるある微小な生物の姿が浮かんでいた。その生物の持つ奇跡的な特性こそが、この退屈な終焉の先にある、永続する悪意の創造を可能にする唯一の鍵だった。


「決めたよ、ドクター。退屈な人間として死ぬのはやめだ」


私は、この終焉を迎えた世界から、無限の時を生きる次の存在へと生まれ変わることを選んだ。


「ベニクラゲ怪人になろう」


ドクター・フリーズドライの目が、その決定に含まれた狂気的な可能性に、驚きと狂喜で大きく見開かれた。


「ベニクラゲ……Turritopsis dohrnii、不老不死の象徴! その細胞の若返り特性を、人間の複雑な神経系に適用するつもりですか! しかし、その果てしない時間の目的は?」


私はゆっくりと立ち上がり、ラボの分厚い天井、その遥か上にある漆黒の宇宙空間を指差した。


「不滅とは何か? それは単なる肉体の存続ではない。真の不滅とは、記憶と意志が、途切れることなく継承され続けることだ。人類は石板や書物、デジタルデータという外付けの記憶装置を通してそれを成し遂げようとしてきたけれど、あまりに脆弱だった。でも、それが一個体の細胞の中で、生物学的に完結できたら?」


私の言葉に、ラボにいた科学者たちの顔に、かつてないほど鮮やかな希望の色が戻っていくのが見えた。彼らの失われていた使命が、私の言葉という火によって再生していく。


「ベニクラゲは、肉体が老化し、あるいは衰弱すると、自らをポリプという未熟な形態へと戻し、そこから再び成長することで、理論上の不老を実現した。若返りと同時に、ポリプから発生したすべての私が、これまでの記憶を完全に継承し、さらに複数の個体へと分身して拡散する。これこそが、私の求める究極の形よ」


私は、自分の存在の新たな定義を、自分自身に言い聞かせるように語り直した。


「一個体としての私は、確かに不死ではないかもしれない。老化のプロセスで一時的な死を迎え、形を変える。けれど、そのすべての過程で記憶を継承し、増殖し続けることが、私という存在の死を、この宇宙から完全に奪い去るのよ。私は、私であり続けるまま、無限に増え、無限に生きる」


私の身体は、今や無限の時間を航海するための、生物学的な器となる。そして、その器に宿る私の知性は、永遠に尽きることのない悪意を抱き続ける。すなわち、終わりのない悪の探求と救済のサイクル。


「そして、その不死をもって私が目指すのは、この終焉を迎えて静まり返った地球ではないわ」


私は、ラボの床にデジタルで描かれた、広大な銀河の星図を足先で愛おしそうになぞった。


「まずは、この組織の有り余るオーバーテクノロジーと資源をすべて注ぎ込み、他星系への探査船を送り出す。この銀河系の支配、そしてこの宇宙すべての支配が、我々の次の、そして永遠の目標よ」


「新たな星に根付き、そこに住まう未熟な原住生物に干渉し、進化を促したのちに、その社会を搦め取り、支配する。そして、そこに私の記憶の断片と、悪意の種子を播き散らす。無限の宇宙に広がる無数の星々に、悪による救済を、悪による支配を、永遠の静寂として敷き詰めていくの」


私の改造は、宇宙全体への猿怪人計画の、永劫にわたる再展開を意味していた。生命を生み出し、知性を与え、そしてその知性が生み出す矛盾と争いを利用して、救済という名の支配を施す。それを、宇宙が熱的な死を迎えるまで繰り返すのだ。


「これは、無限の寿命と、幾千にも拡散する肉体をもってしても、なお困難かつ終わりの見えない孤独な旅になるわ。私という意志が、何万年、何億年と、そのすべての過程を監視し続けなければならないのだから」


私は、目の前で震えているドクター・フリーズドライを見た。彼の顔は、再び狂気をはらみ、知的な渇望に燃える熱狂的な科学者のそれに完全に戻っていた。彼の後ろに控える研究チームも、新たな、そして人類には到底手に負えない無限の研究テーマを前に、活力を取り戻している。


「どう? ドクター。これ以上に愉しい暇つぶしが、この宇宙のどこかにあると思う?」


私の問いかけは、悪の組織の科学者たちにとって、もはや生きる理由そのものだった。


ドクター・フリーズドライは、自らの胸に拳を当て、深く、深く頭を下げた。その声は、武者震いによって激しく震えていた。


「ベニクラゲ怪人……いえ、永遠の悪意の総帥よ。我ら科学者一同、命の灯が尽きるその時まで、いや、あなたの不滅に随伴する機械のパーツとなってでも、あなたに仕えましょう。我々の技術のすべては、あなたの魂を運ぶ、不滅の箱舟となるでしょう!」


私は、改造手術を待つ、透明な液体で満たされた巨大な試験管へとゆっくりと歩みを進めた。私の悪の旅は、この小さな地球という点の中で終わるのではない。人類という矮小な種を救済した後、私は宇宙という無限のキャンバスへと、その美しい悪意を播き散らす、神に近い存在へと変貌するのだ。


試験管の冷たい液体に身を沈めながら、私の意識は遠ざかっていく。それは死ではなく、永遠の始まりだった。


そして、私の意識は、無限の時の彼方、星々のささやきが聞こえる場所へと消えていった。


私の悪意は、今、宇宙へと羽ばたく。





topics AIの解説



ベニクラゲ:若返りを繰り返すことで「不老不死」として知られる小型のクラゲです。正式にはヒドロ虫綱に属するベニクラゲ属の総称で、世界中の温帯から熱帯の海に生息しています。


成熟して衰弱したクラゲが、通常の死を迎える代わりに、成長前の段階であるポリプ(イソギンチャクのような形)に逆戻りする能力を持っています。通常は「ポリプ→クラゲ」と成長しますが、ベニクラゲはこの過程を逆行させ、「クラゲ→ポリプ→再びクラゲ」というサイクルを繰り返すことができます。


ベニクラゲは、捕食されたり病気になったりしない限り、若返りのサイクルを繰り返すことで、理論上は永遠に生き続けることができます。そのため「不老不死のクラゲ(Immortal Jellyfish)」と呼ばれていますが、実際には若返りのプロセスがうまくいかなかったり、天敵に食べられたりすることで、永遠に生きられるわけではありません。



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