01/10 悪意の序章
巨大な金属製の扉が重々しい音を立てて閉ざされた。その低く地響きを伴う轟音は、外界との繋がりが完全に断たれたことを告げる死刑宣告のように、ひんやりとした大気の中に長く尾を引いて響き渡った。
ここは、悪の組織の地下深くにある秘密ラボ。冷たく硬質なコンクリートの壁と、天井を走る複雑なパイプラインが、非日常的な雰囲気を醸し出している。壁の隙間からは時折、何らかの化学物質が漏れ出しているのか、鼻を突くような鋭い薬品の臭いと、湿った土のような生臭さが混じり合って漂っていた。ラボの中央には、見たこともない奇妙な装置が唸りを上げて稼働し、壁沿いには人の背丈を遥かに超える巨大な試験管がズラリと建ち並んでいた。その試験管の中には、培養液にゆらゆらと揺れる様々な生物のパーツや、いかにも「作りかけ」といった風貌の怪人たちが、沈黙のまま浮遊している。異形の肉塊、鋭利な爪、七色に光る鱗、あるいは植物の根のようなものが絡みついた骨格……。それらは淡い緑色の光を放つ液体の中で、まるでいつか訪れる覚醒の時を待つ悪夢の種子のように見えた。その悍ましい光景は、ここが人道から外れた場所であることを雄弁に物語っていた。
そんなラボの喧騒の中心に、場違いなほど安っぽい事務デスクと、パイプ椅子が二脚置かれている。使い古されたデスクの表面には細かい傷が無数に走り、パイプ椅子の脚は床と擦れるたびに不快な金属音を立てた。そのあまりに日常的で安直な事務用品の存在が、周囲の禍々しい光景とのコントラストを強め、かえってこの場所の異常性を際立たせていた。
デスクの片側には、私――田中マリが座っていた。拘束されているわけではないが、冷たい椅子の感触がスカート越しに伝わり、私は無意識に指先を絡めて膝の上に置いた。逃げようという気は不思議と起きなかった。目の前の異常な光景よりも、昨日までの退屈な事務作業の山の方が、今の私にはよほど恐ろしいものに感じられたからだ。
「田中さん、申し訳ありませんが、状況は理解していただけましたか?」
私の向かい側で、デスクに肘をつき、穏やかな笑みを浮かべているのが、悪の組織の科学者だ。彼は白衣を着用しているが、その肌はまるで岩のようにゴツゴツとしており、不自然な灰褐色を帯びている。彼の眼球は瞬きをせず、時折、顕微鏡でしか見えないような微細な動きで体表の水分を調整しているように見える。微かな皮膚の収縮に合わせて、かすかにカサカサという乾いた音が漏れていた。彼の正体は、過酷な環境耐性を持つクマムシ怪人らしい。その風貌は異形だが、口調は極めて丁寧で理知的だ。組んだ指の隙間から覗く爪は鋭く硬質で、彼が単なる人間ではないことを無言のうちに強調していた。
「ええ。つまり、私はあなたたち悪の組織に捕まった。そして、怪人に改造される。そういうことですよね、クマムシ博士。」
私は、努めて平坦な声でそう言った。自分の声がラボの広い空間に吸い込まれていくのを感じながら、私は博士の顔を真っ直ぐに見つめ返した。私がクマムシ怪人の名を出すと、科学者は少しだけ肩をすくめた。その動作に伴い、彼の肩のあたりから砂がこすれるような微かな音がした。
「そこを『ドクター・フリーズドライ』と呼んでいただけると助かります。そう、その通りです。正確には、あなたの怪人適合率があまりに高かったため、上層部が是非とも戦力に加えたいと判断しましてね。これは我々科学者にとっても非常に稀有なデータとなります。ご安心ください、改造手術は痛みもなく、一瞬で終わりますよ。」
ドクター・フリーズドライは、まるで新しい家電の機能を説明するかのような気安さで言った。痛みがない、というのは、このラボの光景を見る限り、到底信じられる話ではない。壁際の試験管の中で、半分鳥の羽が生えたまま動かなくなった肉塊を見れば、それが嘘であることなど明白だ。しかし、私には絶望も恐怖も湧いてこなかった。むしろ、目の前で繰り広げられる非日常的な状況に、妙な好奇心が勝っていた。私の心に空いていた深い空洞を、この異常な現実が心地よく埋めていくような感覚さえあった。
「なるほど。まあ、いいです。どうせ改造されなくても、私の人生は退屈な日々を送るだけでしたから。朝起きて、満員電車に揺られ、意味のない書類を作って、また眠るだけ。そんな生活に比べれば、化け物になる方がいくらかマシかもしれません。」
私は深く息を吐き、あっさり了承の意を示した。自分でも驚くほど投げやりな、それでいて確かな決意を込めた言葉だった。ドクター・フリーズドライは、予想外の私の反応に目を見張り、瞬きのないその瞳を僅かに見開いてから、再び穏やかな笑みを浮かべた。その表情には、被検体に対する歪んだ敬意のようなものが混じっていた。
「ありがとうございます。その冷静さが、我々があなたを選んだ理由の一つでもあります。パニックに陥る凡夫には、高度な改造は耐えられませんから。」
ドクター・フリーズドライは、デスクの上にあった分厚いファイルを開き、私に向かって差し出した。ファイルの表紙には、組織の不気味な紋章が刻印されており、開かれたページには緻密な解剖図や遺伝子配列のデータがびっしりと書き込まれていた。
「さて、あなたは今日から新たな存在となります。ですが、我々も効率を重視しますので、あなた自身のモチベーションは重要です。怪人になった後のモチベーションに雲泥の差が出ますので、モチーフは選べます。組織の命令と、あなたの精神状態を合致させるためですね。嫌いな生き物になってしまっては、せっかくの能力も宝の持ち腐れですから。」
彼はファイルをトントンと、硬い指先で叩いた。その乾燥した音がラボのリズミカルな機械音に混じる。
「いくつか、制約があります。細胞を取り寄せて改造する関係上、恐竜など絶滅種は選べません。また、激しい拒否反応が起こりますので、2種類以上のミックスはできません。純粋な一種の特性を極限まで引き出すのが、我が組織の美学ですので。」
「ですが、モチーフにした生物の特徴を強化しての適用や、水中の生物を陸上適応させることも一部可能です。以前に成功した例としては、サメ怪人が挙げられます。彼らは水中だけでなく、特殊な皮膚組織の改変により、地上でも高速で移動できます。彼らは今、沿岸警備部隊の精鋭として活躍していますよ。」
私は興味深そうに身を乗り出した。デスクの縁に手をかけると、冷たい金属の感触が思考を明快にしてくれる。この状況は、もはや現実逃避の遊びのようだ。いや、遊びというにはあまりに命がけだが、それでも私の胸は高鳴っていた。
「へえ。面白いですね。そういえば、私の前の人は何を選んだんですか? さっき通りかかった時、試験管の中にはいなかったようですが……。あそこの空の容器が、その方の場所だったのかしら。」
私は入り口近くにあった、中身が入れ替えられたばかりのような試験管を指差した。
「ああ、彼ですか。彼は以前、負けが込んでいる三流ボクサーだったそうで、自分の拳に最強のパンチ力が欲しいと望みました。リングの上で負け続ける屈辱から解放されたい、その一心だったのでしょうね。」
ドクター・フリーズドライは、懐かしむようにふっと笑みを深めた。その笑みはどこか、子供が自慢のコレクションを語る時のような残酷な無邪気さを孕んでいた。
「彼は、動物界最強のパンチ力を誇るモンハナシャコ怪人になりました。改造は成功し、彼は今や組織の主要な戦闘員の一人です。その代わり、知性は少し後退しましたが。まあ、彼の目的は敵を粉砕することでしたから、余計な思考は邪魔だったのかもしれません。」
最強のパンチ力を持つモンハナシャコ。確かに、単純だが魅力的な選択だ。知性を捨ててでも手に入れたい力。だが、私の望みはそんな単純な破壊ではないはずだ。
「さあ、田中さん。あなたはどんな存在になりたいですか? 動物でも植物でもご随意に。あなたの内側に眠る、その静かなる熱望を形にするのです。」
ドクター・フリーズドライは、私の目を真っ直ぐに見つめた。彼の動かない瞳に見つめられていると、自分の魂の輪郭が暴かれているような錯覚に陥る。
「よろしければ、いくつか提案させていただけますか? 汎用性が高いのは、夜間の活動能力に優れたワシミミズク。あるいは、圧倒的なフィジカルとリーダーシップに長けたゴリラ。これらは候補として非常に優秀ですよ! 組織のリーダー候補としても、十分な資質を約束しましょう。」
ドクターは熱を込めて語り、身振り手振りを交えてその利点を説いた。彼の提案に対し、私はニヤリと笑った。唇の端が吊り上がるのを自覚しながら、私は自分の内側に渦巻く黒い霧のような思考を形にしていった。この退屈な人生を終わらせてくれるというのなら、とことん楽しんでやろう。誰にも予想できない形で、この世界を驚かせてやる。そして、私の脳裏には、ある奇妙で恐ろしい生物の名が浮かんでいた。それはあまりに小さく、しかしあまりに強靭な、終わりのない増殖の象徴だった。
topics AIの解説
クマムシ:体長1mm前後の微小な「緩歩動物」で、クマのような形をしていることから名付けられました。水のある場所で暮らし、ゆっくりと8本の脚を動かす姿が特徴です。乾燥や極限温度、放射線など、他の生物が耐えられない過酷な環境に置かれると、「乾眠」と呼ばれる生命活動を停止した状態になり、水分を与えると元に戻る能力を持ちます。この驚異的な耐久性から「地上最強生物」と呼ばれることもあります。




