認識の腐蝕と黒檀の額
廊下の突き当たりに、その肖像画は掛かっていた。
女の胸から上を描いたもので、額縁は黒檀に金泥を散らした重厚な造りである。顔立ちは整っているが、特に美人というわけでもない。ただ、瞳だけが妙に生々しく、見る者を射抜くような光を湛えている。僕はその絵を、物心ついた頃からずっと眺めてきた。祖父の代に買い求めたものだと聞いているが、誰を描いたものかは家の者も知らない。
明治の世も三十年を数える頃、僕は二十二歳になっていた。父の残した財産は充分にあり、東京の本郷で書生のような真似事をしながら、気ままに暮らしていた。学問にも仕事にも身が入らず、といって放蕩に溺れるほどの情熱もない。ただ漠然と日々を過ごしていた。
その夜も、僕は書斎で本を読んでいた。いや、正確には本を開いていただけで、一行も頭に入ってこなかった。時計が十一時を打つ。妙に喉が渇いて、台所へ水を取りに行こうと廊下に出た。
肖像画の前を通りかかった時、ふと足が止まった。
月明かりが障子を透かして、絵を青白く照らしている。女の瞳が、いつもより一層鋭く僕を見つめているように思えた。僕は何となく、その場に立ち尽くした。どれくらいそうしていただろうか。気がつくと、背後に人の気配がした。
「坊ちゃま」
振り返ると、女中のお勢が立っていた。手には燭台を持ち、心配そうな顔でこちらを見ている。お勢は三十過ぎの、地味だが清潔な身なりの女だった。五年ほど前から我が家に仕えている。
「どうなさいました」
僕は答えなかった。いや、答えようとしたのだが、言葉が出てこなかった。代わりに、視線を肖像画に向けたまま、こう言った。
「お前は、何を考えているのだ」
お勢が怪訝な顔をする。だが、僕は構わず続けた。
「ずっとそこに掛かって、何を見ているのだ。教えてくれないか」
沈黙が落ちた。お勢の持つ燭台の炎が、小さく揺れている。僕は肖像画を見つめたまま、女の返事を待った。
すると――。
「――見ておりますよ、坊ちゃまを」
声がした。低く、落ち着いた女の声だった。僕は驚きもせず、ただ静かに頷いた。
「そうか。僕を見ていたのか」
「ええ。ずっと」
「それは退屈だろう。僕は何もしない男だ」
「いいえ」と、声は言った。「坊ちゃまは、いつも何かを探しておられます」
「探している?」
「ええ。何かを」
僕は少し考えた。確かに、そうかもしれない。何を探しているのかは分からないが、この漠然とした焦燥感は、何かを求めているからこそ生まれるのだろう。
「お前は賢いな」と、僕は言った。
「いいえ」と、声は答えた。「ただ、長く見ているだけです」
お勢が小さく咳払いをした。僕は初めて、彼女の存在を思い出した。
「お勢、聞いていたか。この絵が喋った」
「はい」と、お勢は静かに答えた。「聞こえました」
その声には、何の驚きも混じっていなかった。まるで当然のことのように、淡々としている。僕はそれを不思議に思ったが、深く追求する気にもなれなかった。
「そうか」と、僕は言った。「なら、いい」
それから僕は、水を飲むことも忘れて、部屋に戻った。




