4 キス
彼はリハルと名乗った。
トマトと同じイントネーションだ。などと言うから、俺は笑ってリハルとトマトを繰り返した。リハル、トマト、リハル、トマト。
「で、君は?」
「どうせ知ってるんじゃないの」
「データとしてはそうですね。でも、君の声で聴きたい。君の声は落ち着きます」
そういうリハルの声こそ、俺の耳に心地よかった。穏やかで、どこか甘くて。この声で名前を呼ばれたならと――期待がせりあがる。
「うん、俺、伊澄って言うんだ」
「イスミ」
「うん」
彼が自然なしぐさで口づけようとするので、俺は慌てて押しとどめた。
「いやですか?」
「そうじゃなくて。ここじゃ……」
コインランドリーはきれいにする場所だ。でも、俺が望む行為はきれいなものじゃない。
そんなふうに感じるのは俺が旧人類だからだろうか。
俺はいずれ指定された相手と体を重ねて、彼女のなかに種を残さなきゃならない。その行為をどうしても、きれいなものとは思えない。丸ごと自分を汚されるみたいだ。
でも俺は、リハルとキスがしたい。彼に触れてみたい。
それで彼を汚しても、俺が穢れても。
「そうだ、学校行かない?」
「学校は、もうないんでしょう?」
リハルが不思議そうに瞬きした。
俺の言ったことを、覚えていてくれたらしい。嬉しくなって笑み崩れてしまう。
「学び舎としての役割はもう終えたけど、建物は残ってる。町のみんなが好き勝手使ってるよ」
俺にとって、思い入れのある場所じゃないから、リハルと秘密の戯れをするのに、ちょうどいいような気がした。
俺とリハルは手を繋いで歩きだした。
と言ってもリハルの手にはほとんど力が入っていないから、俺が一方的に握っているだけだ。
「では、ほかの人がいるのでは?」
「いつもはね。でも今日は■曜日だから。みんな出かけてる」
「ああ、そうでしたね。■曜日にすべての穢れを払い、かわりに清らかな力をその身に宿す。でしたっけ」
「知ってたんだ。こっちで変な宗教が流行ってるって」
「すこし、調べました。君がひとりでいる理由が気になって。ですがこの地区はちょっと異常です。特定の宗教に全員が傾倒してしまうなんて」
「うん……」
「伊澄、今は他のことを考えないで」
「なんだよ。リハルが振った話だろ」
口では文句を言いながら、本当は嬉しかった。
つないだ手を少し強めに握ると、今度はリハルも握り返してくれた。
浮かれた俺は、学校の階段を四階まで駆け上った。リハルもそれに難なくついてきた。俺と違って息も切らしていない。
「さあ、これで安心だ。年寄りは理由がなきゃ階段を上ったりしないから」
「理由があれば上りますか?」
「うん? そりゃそうだろ」
リハルの言い方がおかしくて、俺は声をたてて笑った。
黒板と教壇以外なにもない、がらんとした部屋の中。まだ息も整わないうちに、俺たちは急かされるようにキスをした。
二度目のキスの感触はしっかりと脳みそに届いた。
柔らかくて温かで、頭の芯がぼうっとするような心地だった。
「気に入りましたか?」
「うん。なんか、すごく、悪いことしてる気分」
「キスが?」
リハルはふわりと笑った。無邪気そのものの顔で、俺の襟足を指で乱しながら、さらにくちびるを重ねた。
帰り際、いつか俺が勝手に机を置いた教室に、もう一つ机を並べた。
通うことのない学校に、俺とリハルの席がある。
俺たちはコインランドリーで落ちあい、洗濯を終えるまでの短い時間、思う存分触れ合った。だれもいない教室で、廊下で、階段の踊り場で。
図書室の本はすべて抜き取られていて、墓標みたいに本棚だけが残っていた。
理科室にはぽつんと人骨模型が横たわっていて、俺はびっくりしてリハルに抱きついた。
リハルは逆に興味津々で、「プラスティックですね」なんて妙なところに感心していた。
俺はときどき、制服のリハルを夢想した。ちょっといいなと思った。
ある日、地学準備室で地図を見つけた。
「エデンはどこらへんかな」
リハルはある一点を迷いなく指さした。
「ここです。ここから逃げるなら、国道は避けてください。道路照明には監視カメラが付いていますし、物流や道路維持のためロボットが移動しています。見つかる可能性が高いでしょう」
「なんで逃げる前提なんだよ」
俺は笑ってしまった。
「伊澄の行動を予測した結果です」
「俺はそこまでやんちゃじゃないよ。それにしても詳しいな。シティでは、そんなことを習うのか」
「うーん、まあ、そうです」
どことなく、ごまかすような言いぶりだった。
「それから、野生動物にも気を付けて。肌を出して歩かないことです。嚙まれますよ」
「こんなふうに?」
俺はリハルの首すじにかみついた。
するとリハルはいたって真面目な顔つきで俺をたしなめた。
「伊澄、その行為はいけません。君は未成年なんですよ」
子供じゃなければ、どこまでのことが許されるんだろう。リハルは、妙に冷静だ。
俺たちは恋人じゃない。たぶん、友人ですらない。
キスはリハルにとっては挨拶で、触れ合いは遊びなんだって。
だけど俺のほうは、触れれば触れるほど、彼に執着した。
「リハル」
呼べば優しく微笑むくせに、俺が欲しいと嘯くくせに、彼が俺のものになったのだと、俺にはどうしても思えない。




