第1話
僕には、あるはずのない記憶がある。
気がする。
ここ数年、ふとした瞬間にその”場所”の憧憬が頭に浮かんでくるようになった。
しかし、ただ浮かんでは数分で頭の中から消えていってしまい、モヤモヤした気分のままいつもの日常に戻る。
そんな事を何度も繰り返していた…が、この事がきっかけで僕の学生生活、いや、人生で一番の出来事が起こるなんて夢にも思いはしなかった。
僕の名前は園部 晴太。この春から高校に進学したごく普通の15歳だ。
昔から大抵のことは卒なくこなすタイプで、学業はそこそこ、といったところ。運動は…、察してもらいたい。
おっと、言い損ねていたが僕の趣味は旅だ。
地名はなんとなく聞いたことはあるけど、実際に行ったことはない…。そんな場所に一度足を運んでみる、というのが密かな楽しみだ。
最初は例の記憶の”場所”を探しに行くのが目的だった。どの辺りにあるのか見当もつかない、ましてや現実に存在するのかもわからない。ただなにかきっかけがあれば、思い出せるかもしれないと思った。
しかしその目的は、いつしか日々の喧騒から離れて、田舎の豊かな自然に身を委ね、自分を見つめなおすことへと移り変わった。
今日は4月25日の日曜日。
休日ということもあり、少し足を伸ばして2つ隣の県まで旅をしてきた。
新しい環境での生活が始まり、慣れないことばかりで、かなり消耗していた僕にとって良いリフレッシュになった。
「ただいま」
「あら晴太!おかえりなさい。ご飯、できてるわよ!」
「分かった。あ、明日弁当いらないから。食堂で買う。」
「はーい。あ、そうそう。先週、おじいちゃんがぎっくり腰になっちゃったらしくてね…。悪いんだけど今度の休み、お手伝いしにいってあげてくれない?買い物も行けないそうだから…。もちろん、報酬ははずむわ!」
「うん。特に予定ないし、良いよ。」
母さんの実家は、かなりの田舎にある。
じいちゃんもかなりの高齢だから、何かと苦労しているんだろう。
ちなみに、ばあちゃんはずいぶん前に亡くなった。
訃報を聞いたときは涙が止まらなかったのを覚えている。
「えー!晴にい、おじいちゃんのとこ行くの?良いなー!」
こいつは妹の美愛。中学1年生の13歳だ。
いつでもハイテンションすぎて、正直疲れる。
「遊びに行くわけじゃないぞ。それにお前、次の休みは部活だろ?」
「むぅー。お土産、買ってきてよね!」
「はいはい。」
そして翌朝。スマホのアラーム音に叩き起こされる。
僕の寝起きはとても悪い。
(なんか…夢を見ていたような…。)
時計を見ると、7時半。かなり急がないと学校に間に合わない。
「あら、朝ご飯いらないの?」
「ごめん、結構時間やばい」
朝食は食べず、適当に身支度をして、家を飛び出す。
駅まで全力疾走した後、すでにホームに止まっている電車にぎりぎり乗り込んだ。
朝から激しい運動を乗り越え、疲弊した僕には、夢のことを考える余裕など無かった。
20分ほど休憩を挟み、学校の最寄り駅から再びマラソン大会が幕を開けた。
僕以外にも遅刻常習犯が数名走っている。
なんとか校門が閉められる時間には間に合い、おぼつかない足取りで教室へ向かう。
「おい晴太!なんで間に合うんだよ!」
「晴太、ナイスだ。俺は信じてたぞ。」
この二人は小学校からの幼馴染。
何故か僕が間に合ったことに怒っている方が、藤林 恭介。
体力お化けで頭のネジが数本足りないが、良い奴だ。
そしてもう一人が北原 翔。
常識人で普段は大人しいが、恭介と一緒だとかなりにぎやかになる。
勉強がとても得意で、入試でもトップ合格だったらしい。
「登校して早々、なんでキレられなきゃいけないんだ…?」
こっちは必死で急いで来たっていうのに、そんな俺を見て楽しみやがって、こいつらは…。
まあ、一緒にいて居心地が良いからつるんでいるわけだが。
「いやー、晴太が間に合うかどうかでジュースを賭けて勝負してたんだよ。」
「これで俺の三連勝だな。」
どこか勝ち誇った表情で、翔が恭介に言った。
「くっ…。次はぜってえ負けないからな!」
(本当に悔しそうな声色してるな…なんというか、分かりやすい奴だ。)
「アイス一つでこんなに盛り上がれるなんて、高校生にもなって子供ね…。」
いきなり話に入ってきたこの黒髪ロングの女は、城本 鏡花。同じく幼馴染の一人だ。
おしとやかだけど、それでいてちょっぴり気の強いところもある、大人っぽいタイプの美人だ。
クラスの男子(主にM気質のある人たち)から圧倒的に支持されている。
「ま〜、楽しけりゃ良いんじゃない?」
こっちの明るい髪色をした子は、松島 綾寧。性格も明るく、誰とでも仲良くなれるタイプのコミュ強。
これまで数々の男子を勘違いさせては失恋させてきた。本人は恋愛に興味が無いらしい。
「そういえば、次の休みにさー…」
綾寧が何かを言いかけた瞬間、授業開始のチャイムが鳴り響く。
「あ!また後で言うね」
そうして僕たちはそれぞれの席についた。僕の席は窓際の一番前。
なんてくじ運の悪さなんだろう。でもまあ、窓際なのが不幸中の幸いだな…。
一時間目の授業は古典。
先生が本文の解説をしている間、ようやく体力が回復した僕は、空高くに浮いている一直線の飛行機雲を眺めながら、今日見た夢の内容を思い出そうとしていた。
しかし、何も頭には浮かんでこない。
そのまま授業が中盤に差し掛かった頃、暖かい春の陽気に照らされていたからか、だんだんと睡魔が襲ってきた。
そして意識は完全に途切れた。
————————気が付くと、僕はさっきまでの教室とは違う場所にいた。
(ん…?ここは…)
ぼんやりとした僕の視界に映りこんでいたのは、夏の海だった。
なぜ夏と思ったのかは自分でもよく分からない。
ただ、僕が今目にしている場所はどこか見知っているような、懐かしいような、そんな感覚だけが心の中で渦巻いていた。
そして長く続いている砂浜の向こうから、具体的にいうと50mくらいだろうか。
そこから僕に向かって手を振る人が3人くらい見えた。
(あの人たちは…たしか…)
こころなしかさっきよりも視界がはっきりしてきたような気がした。
(…!思い出した。全部、思い出した…。)
まるで濁流のように激しく、今まで忘れてしまっていた記憶が次々と溢れてきた。
その瞬間だった。
遠くから鐘の音が聞こえてくる。
僕が思考を巡らせる暇もなく、また視界が暗闇に包まれた————————
「ちょっと、晴太ー!いつまで寝てるの?」
聞き馴染みのある、綾寧が呼ぶ声で目を覚ました。
「頭、痛い…。」
ついさっきまで、確かにぼくはあの”場所”に居た。
そこに関する記憶も、全部思い出した。
でも今残っているのは、ただ(思い出した)という感覚だけ。
肝心の中身は一切覚えていない。
(あと少しだったのにな…。)
言いようもないもどかしさや悔しさでいっぱいだ。
「どうした?具合でも悪いのか?」
恭介が心配そうな表情で僕に問いかける。
「いや、大丈夫。ちょっと寝ぼけてたみたいだ」
「そんなことよりさー、さっきの続きだけど」
間髪入れずに話が切り替えられる。
「次の連休って、みんなヒマ?せっかくのゴールデンウィークだし、どっか行かない?」
「その言葉、待ってましたぁ!もちろん開けてるぜ」
「私も特に、予定はないわよ」
続々と言葉が飛び交う。だいたいこのメンバーで集まる約束をする時は、こんな感じだ。
恭介か綾寧が誘って、それに僕たちが乗っかる。
「翔はどうだ?やっぱ祝日も塾とかあったりするのか?」
「愚問だな。」
「ん?それはどっちの意味??」
「この絶好の機会に、予定を入れている訳がないだろう。お前たちと存分に楽しむつもりだ。」
その言葉に、思わず笑みが溢れる。それだけ、この場所を大切にしてるってことなんだろうな。
「で、晴太はどーなのー?」
「あー…、次の休みは田舎に行かないといけなくて。」
「えー!」「マジかよ!」「意外ね。」「なん…だと…。」
次々に驚きのリアクションが起こる。
「おじいちゃんがぎっくり腰になったみたいで、色々手伝いに行かないといけないんだよ。」
「あちゃー。それは災難だね」
「晴太、次の休みは絶対に逃がさないぞ。」
いきなり怖いことを言われた。
「逃がさないって、ハンターにでもなったのかお前は」
本当は、みんなと遊びたい。僕にとってこの輪の中は、唯一の居場所のように思える。なんの取り柄もない自分を、ただ友達というだけで受け入れてくれる。でも、僕の中に田舎に行かないという選択肢は最初からなかった。ばあちゃんが亡くなって以来、じいちゃんは1人きりで生活しているから、そのままにしておくわけにはいかない。
「ワンチャンさー、私たちもついていけない?そうすれば、全員で休みを満喫できそうじゃない?」
「その手があったか!晴太について行って、手伝いもしつつ、連休を楽しむ…。一石二鳥だな!」
いきなり思わぬ方向で話が進む。僕としては嬉しい提案だが、みんなはそれで良いのだろうか。
「たしか、ずいぶん前に引っ越した親戚の家が空いてるって聞いたような…。」
「条件は揃ったな。これで決まりだッ!」
さっきから感情が乱高下している翔。
「でも、いきなり大人数で押しかけて迷惑じゃないかしら。」
落ち着いた表情で境果が聞いてくる。こういう気配りを欠かさないところが、大人っぽいと時々感じることがある。
「とりあえず諸々含めて、帰ったら親に確認してみるよ。」
その後は、いつもと変わらないごく普通の1日だった。休み時間の度に集まっては、他愛無い話で盛り上がる。自分で言うのもなんだが、よく話題が尽きないな、と思う。
「ただいまー」
玄関の扉を開くと、リビングの方からミルキーな香りが漂っている。おそらく、今日の夕飯は“アレ”だろう。
「お帰りなさい。今日はシチュー作ってるわよ〜。」
見事に的中した。シチューは僕の大好物で、未だに少しだけテンションが上がる。
「母さん、田舎の話なんだけど…。」
学校で恭介たちと話した内容をそのまま伝える。
「まあ、良いじゃない!せっかくの休みなんだし、楽しんできたら?」
2つ返事で許可が下りる。こういうのに寛容な親で良かったな、と思う。
「でも…。1つだけ問題があってね、まさくんの家、引っ越してから随分経ってるから、色々散らかってるかも。」
まさくん、というのは親戚の人の名前だ。本名は正徳さん。僕からすると、叔父にあたる。ばあちゃんが亡くなった後、すぐに田舎から引っ越して行ったと聞いている。随分と小さい頃は会っていたけど、最近は全く会う機会がなくなっていた。
「掃除はこっちでやっとくよ。タダで泊めてもらうのも、なんか申し訳ないし。」
「あら。それならお願いするわね〜。向こうまでの行き方はわかるかしら?」
「ちゃんと調べて行くから大丈夫。」
ふとリビングの時計を見ると、ちょうど午後5時。夕飯ができるまでもう少しかかりそうなので、とりあえず自分の部屋へ戻る。
少し雑に鞄を床に置いてから、ベッドに寝転んで天井を仰ぎ見る。
(そういえば…あれ、なんだったんだろう。)
1時間目の時に見た、あの夢。不思議なことに、どんな内容だったかは全く覚えていない。あの時は鮮明に思い出した気がするのに。考え込むほどに、その夢は遠くなっていくような気がした。
……………。音が聞こえる。力強い、波の音。果てしなく広がっている、無限の海の囁き。五感全てで、その心地よさに浸っているような気がする。
「いつまで、寝てるの…?」
誰かの声が聞こえた。反射的に目を開く。
「まぶしっ…!」
いきなり飛び込んできたのは、これ以上ないくらい青い空と輝く太陽。思考も全く追いつかない。
(…?さっきまで、自分の部屋で…)
ここはどこなんだろう。誰がそこにいるんだろう。疑問は押し寄せるばかりで、何一つとして、その答えが浮かばない。
その時だった。
「やっと起きた。これ以上待たせないでね、晴太。」
(……!!そうだ、俺は何を今まで忘れていたんだ…?)
忘れるはずがない。自分の名前、住んでいる場所、通っている学校、一緒に暮らす家族…。一つ一つ、頭の中で反芻する。しかし、思うように体が動かない。
「うそ、2度寝するつもりなの…?もう帰りたいんだけど…」
意を決してもう一度、目を開く。そこにいたのは、1人の女の子だった。
同い年くらいだろうか。透き通るような白い肌、風に靡く、長くて繊細な髪が特徴的だ。
次の瞬間、確かめるような口ぶりで、彼女に問う。
「夢月…?」
「え?当たり前じゃん…。今日の晴太、ちょっと…。いや、だいぶ変。」
なんで名前がわかったんだろう。そして、なんで彼女は俺の名前を知っているんだろう。
「ごめん、ここはどこなんだ?」
「どこって…。いつもの木の下だけど」
いつもの木の下…?何を言ってるんだ。あまりにも、周辺の景色に覚えがない。
「本当にどうしたの?ふざけてやってるんだったら、そろそろ怒るよ…?」
彼女の表情が変わる。でもそれは、怒っているというよりも、こちらを心配しているようなものだった。
「本当に、わからない…。記憶喪失ってやつなのかも。」
「でも私の名前、呼んだよね…?なんでそれだけはわかったの…?」
「それも分からない…。でも、そんな気がしたから。」
自分でも何を言っているのか、理解に苦しむ。どうやら初対面ではないんだろうけど、それ以上のことは言えなかった。
「君は僕のことを知っているのか?」
「知ってるも何も、幼馴染のはずなんだけど…。というか、今日の晴太、いつもとなんか違う。もしかして、どっぺるげんがー…?」
微妙にカタコトな発音になっている。
「いや、俺は正真正銘、晴太なんだけど。とりあえず、いくつか質問するから、答えてくれないか?思い出すきっかけになるかもしれない。」
「わかった…。」
少し不安そうな表情になる。一体どんな質問をされると思ってるんだ…。
「今日の日付は?」
「4月25日」
「ここは何県なんだ?」
「富山県」
富山県、か。聞きなじみのある地名を聞いて、少し安心する。こっちの世界もさほど変わらないのだろうか。しかし、考えてみるとおかしなことばかりだ。さっきまでは夕方だったはずで、ましてや俺が住んでいるのは埼玉県だ。時間も場所も全く違う。
「ごめん、やっぱり思い出せないみたいだ。」
「そう…。残念」
意外にもあっさりとした返答がくる。まるで思い出せなくて当然かのように。
「そういえば、さっき俺のことを幼なじみって言ってたよな?いつもの俺はどんなやつなんだ?」
「え、そ、そうだね…。晴太は……」
彼女が何かを言いかけた、その時。またあの感覚が全身を襲う。ブラックホールに吸い込まれていくような、身体が溶けていくような…。やがて視界は闇に包まれ、意識が朦朧とする。
「…!!」
目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。