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急に身体が動くようになり、マモルは絶叫して踵を返し地面を蹴った。あれだけ遠かったはずなのに、境内にはあっという間に辿り着いた。わんわんと泣くマモルに大人も子どもも驚き、すぐに周りを取り囲む。「どうしたね、転んだんかね」ほんの小さな子どもを宥めるような言葉に、マモルは頭がもげそうなほど激しく首を左右に振った。
「影がおった! 影が、肉を喰っとった……!」
暗闇を指さして訴えるマモルに、大人たちは顔を見合わせる。年寄りたちは明確に顔を蒼白にし、不安を覚えた小さな子までが釣られて泣き出した。
いったいどこじゃ、どんなやつじゃ! あらゆる質問を重ねられてもマモルはただ泣くことしかできなかった。
それは「おかげ様」だとマモルの祖母は震える声で言った。
「御影様は、妖怪のようなもんじゃ。生肉をよう喰うで、人を襲うんでな、昔に巫女様が山ん中に閉じ込めたんじゃ」
おかげ様は、巫女の指示によってつくられた四つの地蔵により封印されていたという。
明朝、村の東西南北に佇む地蔵の一つが壊れていることに村人の一人が気付いた。南の端で村を見つめる地蔵の一部が欠け、地面に倒れていた。昨日まで息子が帰省していたという村人が問い質すと、バイクで街まで戻った彼は事故を起こしたことを白状した。彼は「おかげ様」の話など知らず、古い地蔵を壊して年寄りに叱られるのを面倒がって放置していったそうだ。
封印の弱まった「おかげ様」が姿を現し、狐の肉を貪っていたところにマモルは不幸にも居合わせてしまったのだ。皮と骨だけの狐が本殿の裏手に落ちているのを大人たちが発見した。
しかしマモルには、あれは夢だったのかと思えるほど、一日が経っても一週間が過ぎても、何の変化も訪れなかった。「おかげ様」は人を襲うことをやめたのかもしれない。村の大人たちにも少々の安堵が見られた頃だった。
夜、二階の部屋で寝ようとしたマモルは、歌声を聞いた。風の音にも聞こえるような頼りない声は、震えながら遠いところから響いてきた。何を言っているのかも聞き取れず、その日は誰かが歌の練習をしているのだと納得し、マモルは気にせず床についた。
ところが二日、三日と日が経つにつれ、その声は次第次第に大きくなっていった。薄い膜が一枚一枚重なり厚みを増すように、歌声が近づいてくるのを感じた。
恐ろしくなったマモルが訴えると、一緒に暮らす両親と祖母は顔を青くし、特に祖母は恐怖から手を震わせた。
「昔は、飢饉のたびに人柱ちゅうて、村のもんを生きたまま地面に埋めたんじゃ。その年は豊作になって、村は助かった。けどな、人間は恐ろしい。誰も名乗り出るもんがおらんと、子どもをつこうたんじゃ」
「おばあちゃん……」
止めようとする母に構わず、祖母はマモルの両肩にしわくちゃの手を置いて続ける。
「病気で長生きできそうにない子や、生まれつき身体の悪い子をつこうた。ほんにひどい話じゃ。いくら子どもが無邪気やいうても、許されることやない。悪い気が少うしずつ溜まって、形になったんがおかげ様じゃ」
マモルはぼんやりと祖母の話を聞いていた。居間の柱時計がコッチコッチと立てる音と祖母の声に混ざり、今夜も歌声が聞こえていた。それも、そばにいる祖母と両親、妹には聞こえていないという。不思議と、歌の中身は聞き取れない。分かる言葉のはずなのに、頭の中で文字を組み立てようとすると上手にできない。ただその中に、「マモル」という自分の名前だけを聞き取ることができる。
「ばあちゃん、ぼく、どうなるん?」
「大丈夫じゃ。ばあちゃんらがなんとかしちゃる。マモルは絶対大丈夫じゃ」
はっきりと祖母は言い切ったが、そこに全く具体的な説明がないことに、漠然とした不安と恐怖を覚えた。肩を掴む手が震えているから、どうしても説得力がない。あの声がすぐ近くまで聞こえたら、ぼくは死ぬんだろうか。歌声がどうにも楽しげに聞こえるのが、マモルには一層恐ろしかった。