深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
深淵にいたのは、顔立ちから四十代ほどの男性だった。
特徴的な帽子をかぶっているせいもあってか、目元が薄暗く、彼の黄金色の瞳が獣のように輝く。
この世界にはない肌触りよさそうなワイシャツにズボン。手袋もつけている……
その恰好をした男を見て『シンゲツ』は思い出す。
アレは自分だ。
前世の自分であると。
更に思い出す。
――『ニノマエ』だ。
――『一』。私の名前だ。
――そうだ。私の前世はバスの運転手。
――死ぬ前も、バスの操縦席にいた筈。
――確か修学旅行のバスの送迎を。私は……私は、どうした? まさか事故でも起こしたのか?
――駄目だ。そこは思い出せない。
『シンゲツ』……否、ニノマエは漸く、こんなタイミングで前世の記憶が蘇りながら、冷静に考察する。
転生者の存在について。
もしも、あの修学旅行で自分が事故を起こしてしまったとしたら。
断罪の意味で、神がニノマエを殺すよう命じるのも、分からなくもない。
ニノマエを殺しに来ているのは、まさか、あの修学旅行生なのだろうか?
彼らの関係者? だとしたら……
そこまで想像したところで、ニノマエは違和感を覚えた。
意識が醒めない。
果たして、ニノマエは白昼夢を味わっているのか定かじゃない。
だが、普通はここで意識を取り戻したり、意識が浮上し、マーサの元へ戻っていくだろう。
意識が戻るどころか、どんどん、更に深く。
一方的にニノマエの意識を引きずり込んでいた。
生々しい触手のようなものがニノマエを引きずり込んでいたのに気づくが、抵抗はおろか。
ニノマエは深淵にいる、前世のニノマエの元まで堕ちていった。
――私……なのか?
前世のニノマエは表情が読めない。仏頂面の様相だった。
前世から、ニノマエは周囲から何を考えているか分からないと陰口を叩かれていた。
その通りだと、客観的な立場になって思い知らされたニノマエ。
――この私は何を考えている……?
いつの間にか、向こうが見下すような構図になるまで引きずり込まれていたニノマエ。
凍てつく視線を注ぎながら、前世のニノマエがゆったり口を開く。
「我が断片か。何を望む」
太く短く、簡潔な台詞なのに震え上がる感覚が巡ったニノマエ。
そんなものはない、と声が出ないので必死に首を横に振った。
ニノマエと視線を合わせる為に頭を持ち上げた深淵の主は、言葉を続ける。
「旅路の祝福を授けよう」
視線が合わさった瞬間、冒涜的な知識が溢れ返った。
☆
『ィ嗚呼ああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
何重にもこだまする絶叫が響き渡る。
声の一つは、マーサの手にある小型人形から溢れていた。他は地上や、地下のどこからか、無数に、合唱のように成り続けた。
マーサの周囲に、感知時に発した淡い光とは異なる、更に色彩が濃いオーラが覆う。
その力の主に、マーサは声を上げた。
「エレシュキガル様!?」
『息を止めて居なさい、マーサ! 神気だけじゃない、死の瘴気も……外部に溢れないよう私が力を行使します。それにしても』
マーサの傍らで倒れた『シンゲツ』に対し、マーサの内を通して状況を把握した女神・エレシュキガルが呟く。
『私も魂が微弱なせいで判別できなかった……いえ、気配自体、私の知らない冥府神のものだった……なんにせよ。彼も落とし子なら話が変わる。冥府神同士のいざこざだったなんてね……』
ガチャガチャとマーサの手元にあった人形が狂い踊る。
神が有する力の波長――神気。
神気に当てられた精神は、正気を歪まされる。とくに理性ある人間の場合、影響が顕著。
ほんの僅か。
『シンゲツ』から発した神気の影響だけで人形――正確には、人形に魂を付与したものが狂う程度に強力なものだと理解させられた。




