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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夏の終わり

作者: 朱田基世

 私が訪ねて行くと、佳苗は病室に据えられたベッドの上で面白くもなさそうに胡坐をかいて座っていた。テレビの無い病室、本も無い空間。ただ広がるだけの、ある種の陰惨さのある白は、彼女の持つ鮮やかな感情に似合わなかった。剝き出しになった白い太腿。私に気付くと、彼女はいつもみたいに、たばこの煙でも吐くように目を細めて笑った。くふ。小さく喉の奥からそう音を出しながら。

 「来てくれたんだ!暇してたんだよね」

佳苗がベッドの、自分の座る隣をぽんぽんと叩く。座れ、ということだろう。

「もうね、ここの人たちやばいって。皆何してると思う?塗り絵だよ塗り絵、日がな一日黒い目をキラキラさせながら塗り絵してんの。超怖い」

ふざけて突き飛ばしあう思春期の男の子みたいな笑い声を零して、隣に腰かけた私の肩に頭を預けてくる。

「そういうこと言わないの。本持ってきたよ、何冊か」

「ありがと。飴とたばこは?」

「無いですね」

「けち」

「看護師さんに怒られたくないし」

頭を起こしたと思ったら、今度は私の膝に頭を預ける。彼女は基本的にパーソナルスペースが広い類の人間なのに、私相手となるとそれが極端なまでに狭くなる。私が携えた紙袋をベッドの上に置くと、佳苗は中を覗き込みながらはしゃいだ声を上げた。

「新刊だ!」

一冊は彼女の好きな作家が出したばかりの小説を持ってきた、それを見つけて喜んでいるのだろう。

「ここは退屈でしょ」

私がわしわしと佳苗の顎を擽れば佳苗は足をばたつかせながらきゃあきゃあと笑って、私はその仕草の幼さが好きなんだと思い知る。幼い子供の持つような命の匂い。ベッドの中でもその鮮烈さは熱く香り立つのだ。触れるものを焼くような彼女の情熱に二年前から私は酔わされている。

「わたし居なくてもちゃんとご飯食べてる?萌ちゃんゴハンに執着しないタイプだから私心配で」

「ならちゃんと生きてから私のゴハンの面倒見てよ」

「それができれば苦労無いんだよなぁ、自分でどうにかしようとしても無理だもん、無理。そういう病気なんだって、知ってるでしょ」

「さんざんね」

佳苗の長い前髪を三つ編みにしながらぼんやり答えれば、彼女は「跡つくからやめてよ」と笑いながら私の手を払った。閉鎖病棟には似合わない明るさ。季節感の無い虚ろに明るい部屋の中。鉄格子のはまった窓の外はもう夏も終わる頃で、ツクツクボウシの喧しい声が遠く聞こえる。すべての出来事は、この部屋の外で起きている。

 「お母さん、来た?」

「来ると思う?」

「思わない」

「じゃあ聞かないでよ」

佳苗は母親と折り合いが悪い。片親で、きょうだいもいない。佳苗の世界には私ひとりしかいないのだ。何もなかった佳苗の世界に、突然現れた私。彼女の一喜一憂、すべてが私に起因した。おそらくは今回の自殺未遂も。先に進めば進むほど狭くなるトンネルのような世界だ。佳苗にとっても、私にとっても。

 「ねえねえ、海行きたい」

佳苗が私の腹に顔を埋めながらもそもそ喋る。

「海行って、日焼け止めを塗りっこして、くたくたになるまで泳いで、海の家のしょっぱいラーメン食べて、パラソルの下で昼寝して、……ね」

「…………」

「水族館も行きたい。江ノ島の。しらす丼も食べたいかも」

「…………」

「じゃあさ、遊園地行こっか。ティーカップ、わたしは回さないからさ、萌ちゃん回るの苦手でしょ。一緒に乗ってよ」

「…………」

「何か言ってよ」

「ここは病院だよ」

「出たら行こうよ」

佳苗の声が涙で曇り始める。小さな子供がぐずるように、佳苗はぴいぴいとよく泣くのだ。

「死のうとしたのは佳苗でしょ。人間は自分のやったことには責任を持たなきゃいけないんだよ。私は今日、責任を果たしに来たんだけど」

「なにそれ」

佳苗が肩を揺らして笑う、泣き出す二秒前の声音のまま、喉を引き攣らせて笑う。

「萌ちゃんの意地悪」

「多分正論だけど」

「正論なら何言っても良いの」

 寝返りを打って、佳苗が上を向いた。カラメルみたいな色味の茶色い目にはたっぷり涙が溜まっていて、つ、と顔を伝っていく。今日は声を荒げて泣かないらしく、私は少しほっとする。彼女の剥き出しの真っ赤な感情が、私はいつも少しだけ怖かった。

 「わたしが帰ったらね、オムライス作ってあげる。ケチャップでハート描いてあげる」

佳苗が唐突に明るい声を上げて笑った。

「だから萌ちゃんも私にハート描いて」

「はいはい」

「約束だからね」

「はいはい」

佳苗は満足したのか、再び私の腹に顔を埋めて、今度は小さく歌を口ずさみ始めた。海は広いな大きいな。よほど海に行きたいらしかった。もうくらげがうようよしている時期であろうに。

 「そろそろ帰るよ」

私の声に佳苗は眠たそうな目をこちらに向けて、体を起こした。

「来てくれてありがとうね」

言いながら、彼女の関心は紙袋の中の本に移っている。紙袋の中の本を一冊一冊出して、ベッドのシーツの上に並べていく。等間隔に、傾き無いように。私はその様を静かに見つめる。言うべきことなど無い。彼女の世界には私しかいない。私は責任を果たすべきだ。

 「え」

佳苗が丸っこい声を上げた。

 ――I字の剃刀だった。ピンク色の柄。プラスチックのカバーのつけられた下には、おそらく鈍く灰色に光る鋭利な刃があるのだろう。

「…………」

「…………」

佳苗の目と、私の目が合う。そう、言うべきことなど無い。佳苗もきっと私に言うべきことは無い。

 「……わかった」

穏やかに佳苗がつぶやいた。過ぎ去った春。夏も終わろうとしている。佳苗にとってのすべての出来事は、私と二人で暮らしたあの部屋の中で起きていた。佳苗の好きな『ローヌ川の星月夜』のレプリカが飾ってある1DK。寝室の茶色いカーテン。冷蔵庫の中の作り置きの麦茶。西日の差すベランダと、ベランダのへちま。縁が欠けても使い続けるペアのマグカップ、佳苗が抱いて眠るくまのぬいぐるみ。大きな本棚にびっしり並ぶ小説。ふたりで使うベッド。靴箱に収めたシンデレラサイズのパンプス。それが彼女の世界だ。佳苗の世界で、私が責任を果たそうとしている世界。

「ちゃんとゴハン食べてね」

溜息を吐くように佳苗が笑った。私は小さく頷いて、そのまま病室を後にした。

 セミの鳴く世界は、むっとくる熱気と日差しと、佳苗ではない大勢の人に溢れていて、やけに広く感じた。秋が来る。


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