プロローグ 2
「お嬢様、お目覚めですか?」
扉の向こうから、女性の声がした。
聞き覚えのない声だ。……まずい。
セオドアは途端に緊張した。
セオドアの返事も待たずに扉がゆっくりと開かれ、使用人の服を着た若い女性が入ってきた。その手には、新聞といくつか書状らしきものを持っている。
茶色い髪を後ろでまとめた、セオドアより少し年上らしいと見られるメイドだ。
メイドはセオドアと目が合うと、軽く頭を下げながら「おはようございます」と挨拶する。セオドアはその姿を、ただ黙って見ていた。
メイドはにっこりとセオドアに微笑みかけながら、口を開く。
「お嬢様、先ほど何やら叫んでおられる様でしたが、何かございましたか?」
「…………」
セオドアは何も言わないままだったが、頭の中では非常に困惑していた。
だが困惑の理由は、このメイドに、自分の身の内に起こったことを全て打ち明けるべきか否かで迷っているからではない。
セオドア・ペンバートンは、極度の人見知りだった。
何度かエラの家に家族で招待されたことがあるため、エラの両親や、昔からいる使用人たち相手であればそこまで緊張もしないのだが、今セオドアの目の前にいるメイドは、新人なのかそれともただ話したことがないだけなのか、セオドアはその女性に会ったことがなかった。
家族や、エラに対しては、普通に世間話や軽口を叩き合うこともあるのだが、あまり親しくない相手や、目上の相手、初対面の相手を前にしたセオドアは、極度の緊張から無口になってしまうのだ。
しかし、その緊張を表に出さないように必死に繕おうとした結果……。
「……別に」
そう無愛想に答えるセオドアの顔は、驚くほど無表情だった。
そう。セオドアは見ず知らずの他人を前にすると、驚くほど無表情で無愛想、おまけに無口になるのだ。
元の身体の時は、父親似の鋭い切れ目のせいで、無表情になるとまるで睨みつけているようで怖いと、幼少の頃よく同じ歳の女子に泣かれていた。
今は、「黙っていれば美人」とよく言われていたエラの身体になっているので、そこまで怖い顔にはなっていない。
それでもメイドはその態度に驚いたのか、軽く目を軽く見開いて少し引いていた。
しばらくすると、「そうですか」と答え、持っていた新聞と書状をすぐ近くの棚の上に置いて、そそくさと退室していった。
パタンと閉まる扉、数秒置いて、セオドアは再び崩れるようにくずおれた。
あー、またやってしまった。オレってやつは。
わざわざ新聞を届けてきてくれたのにお礼も言わないで、何やってるんだ。というか、あの人は挨拶をしてくれたのに、オレはちゃんと返したか?返してないな、焦ってて忘れてたな!あぁ…最悪だ。
自分を責めるように心の中でそう叫ぶ。先ほどまで冷静だったセオドアの頭が、一気に罪悪感で満ち溢れた。
無愛想な態度を取ったが、実際セオドアは先ほどのメイドに対して怒ったわけでも、ましてや不快に思ったわけでもない。
むしろ、また無愛想な態度をとってあげく追い出してしまったと、頭の中は後悔と懺悔でいっぱいになっていたのだった。
いつもこうだった。
エラがいるときは仲介してくれるのだが、そうでない時はつい無愛想に返事をしてしまって、今のように相手が気まずそうに退室していったり、不快な気分になって相手を怒らせてしまったりすることが多い。
そうして相手の姿が自分の前から完全に消えた後で、セオドアの心は罪悪感と自己嫌悪に襲われるのだった。
「……ん?」
しばらく後悔の念に苛まれてから、ふと、セオドアは我に返って気がついた。
先ほどのメイドは、まるで当たり前のように挨拶をして去っていった。普通、仕えている家の娘が瀕死の怪我から目を覚ましたら、大騒ぎで他の家の者を呼びに行くはずだ。だが、そんな様子もなく、先ほどのセオドアの怒りの叫びの理由について尋ねてきていた。
何故、そんなどうでもいいことを聞いてくるのか。
その時、セオドアの視界にメイドが持ってきた新聞と書状が映った。
「そういえば、エラは朝に新聞を読むのが日課だって、前に言ってたような……」
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、歩み寄って何気なく新聞を手に取ってみた。
その新聞に記された日付に、セオドアは驚きのあまり息を呑む。
「この日付って……1年前じゃないか!」
セオドアは自分の目を疑い、一緒に置かれていた書状を見てみる。消印に記された日付は、全て1年前になっていた。
……1年前の、夏だ。
セオドアは慌てて部屋の窓に駆け寄り、両開きのカーテンをシャッと勢いよく開けた。
突如部屋に差し込んできた眩しい日の光に目を細めながら、すぐ下の庭を見下ろす。
青々としげる木々や草花。セオドアの記憶では、まだ季節は冬だったはずだ。
太陽の強い日差しを避けるように目元を手で覆いながら、空を見上げる。セオドアが最後に見た空は、真っ黒な雲に覆われていた。だが、今は抜けるような青空が広がっている。
「まさか……事故の1年前に、生まれ変わったってこと、か……?」
ふと脳裏に、意識を手放す直前に神に願ったことを思い出した。
———生まれ変わりというものがあるなら、もう一度エラに会わせてください。
———もしもう一度やり直せるなら……もう一度………。
「あぁ……確かに、“もう一度”って、言ったな」
セオドアはそう呟くと、乾いたような笑い声を上げた。
もう一度、やり直す。
それは確かに、オレが自分で望んだことだ。
なるほど。やはりあの時、オレとエラは確かに死んでいたらしい。
そして神か、それと同じ力を持った誰かがオレたちを転生させて、人生をやり直す機会が与えられたということだ。
もう一度、1年前から。
——もう一度エラに会えたなら、今度こそ「好きだ」と言おう。
死に際に誓った言葉。
それはオレが前世に残した未練であり、今世を生きるための希望だ。
「よしっ」
力強くそう声を張ると、両手で自分の頬を挟む様にしてパンっと叩いた。と思うと、あまりの痛みにその場にしゃがみ込んで呻き声を上げる。
やってしまった。
そうだった、今はエラの身体なんだった。ごめん、エラ。
心の中でそう謝罪する。気合いを入れるために自分の頬を両手で叩くのは、前世の頃からのセオドアの癖だ。だが、それができたのは自分の身体だったからだ。
エラに、異性の身体に、そんな乱暴なことなどできるはずもない。
今は自分の身体でもあるが、この身体を傷つけることはすなわち、エラの身体を傷つけるのと同じなんだ。
今後は気をつけないとな、と反省しながら立ち上がり、先ほどの棚の前に再び歩み寄る。すると、いくつか置かれた書状の中に、見覚えのある文字と、見覚えのある名前が目についた。
記されている宛名は“エラ・ロードナイト”。そして差出人は……。
“セオドア・ペンバートン”。
「これって……っ!?」
セオドアは慌ててその書状を手に取り、開封してみた。
中には、1枚の手紙。その文字は間違いなくエラの字だった。
『セオドア。この手紙を読んでいるということは、お前もこの不可解な現状を把握しているということだろう』
「相変わらずの言い回し、やっぱりエラなんだなぁ」
手紙の内容を見ながら、しみじみといった風に呟く。
エラは女性でありながら、騎士になるのが夢で、昔から手紙を書くときに「お前はどこの騎士だ?」と思うような形式めいた、ある種の命令書のような書き方をする。
それは会話の時も同じで、自分のことは「私」というが、言葉遣いがまるで男のように強く、乱暴な言い方ではないが、勇ましい。
顔は母親譲りの整った容姿をしているので、そんな彼女がまるで軍人のような話し方で、その上自信家となると、普通の男子は皆一歩引いてしまうらしい。彼女が「黙っていれば美人」と言われるのは、そういうわけだ。
しかしセオドアは、そんなエラが心底かっこいいと思っていたので、彼女がどんな話し方をしようと自由だろうと思っていた。
セオドアはハッと我に返り、手紙の続きに目を向ける。
『どうやら我々は、1年前のお互いの姿に入れ替わっているようだ。今後の方針についての緊急会議を行うので、明日13時にペンバートン家に顔を見せること。これは決定事項であり、異論は認めない』
「お前はどこの上官だよ。はいはい、行くよ、行きますよ」
『最後に1つ、忠告しておく』
「……?」
そこから先は長い改行が続いていて、手紙の1番下に続きの言葉が書かれていた。
その内容は……。
『着替えの際身体は見てもいいが、変な想像をしないように』
「するかっ!!」
セオドアは思わず、手紙を目の前のローテーブルに叩きつけながら猛った。
半ば怒り気味だったので、少し息が上がっているのを、フーッと深く息を吐いて落ち着かせてから、セオドアは乾いた声で「ハッ」と笑った。
いつもそうだ。
まるでこっちの気持ちを知ってからかっているかのように、さも「私のことを好いているんだろう?」というような言葉を向けてくる。
この手紙の最後の一文を、エラがいかにも得意げにニヤニヤと笑いながら、自分に向けて言っている姿が容易に想像できて、無性に腹が立つ。
確かに、エラのことは好きだ。だがそれを口にするのは恥ずかしくて、どうせなら向こうから「好きだ」と言ってはくれないかな、なんて他力本願なことを考えていた。
貴族の恋愛において、女の方から男を誘うのはふしだらだと言われている。女は直接的な言葉は使わずに、目線と仕草だけで男にアプローチするものだ。
例えエラがオレのことを本当に好いてくれているのだとしても、口に出して「好きだ」というのは男であるオレの役割だと分かってはいた。
それでも、言えなかった。
自信がなかった。
彼女の視線が、仕草が、「セオドアが好き」だと言っていることは薄々気づいていたけれど、あんな綺麗でかっこいいエラと、こんな女々しくて人見知りな自分が釣り合うわけないと、いつも気づかないふりをしていたのだ。
そんなオレに痺れを切らしたかのように、彼女はかなり直接的な言葉でオレからの告白を引き出させようとしていた。
だがそれでもやはり彼女に気持ちを伝える勇気は出なくて、いつも意地を張って「そんなわけないだろ」なんて言い返していた。
本当に、情けない男だな……。
「……ん?」
自己嫌悪の時間に入りかけていたセオドアだったが、ふと、あることを思った。
待てよ。今エラはセオドア、つまり男になっている。
そしてオレはエラ、女になっている。
ということは、オレが無理に告白しなくても、向こうがこっちに告白してくるんじゃないのか?!
前世ではあり得ない願いだと思っていたが、お互いが入れ替わった今世では、あり得ない話でもない。
エラは昔から、「私は自分が好き」だと謙虚さのかけらもなく言うようなやつだった。
オレがエラと釣り合うか否かは置いておくとして、今オレの身体はあいつ自身なのだから、あいつが「自分を好き」だと言うのと同じような感覚で、エラの方がオレに好きだと言ってくれるのでは?!
セオドアの中に、謎の自信が芽生えた。
「よっしゃあ!今世では絶対、エラにオレのこと好きだと言わせてやる!」
謎の自信と決意。
彼が死に際に語った、「今度こそは彼女に好きだと告白する」という誓いは、彼の頭の中からすっかり消えてしまっていたのだった。