黒木くんとメモ帳 その8
「ぶへぇ!?」
重い拳を真正面から受け止めることもできず、司は身体ごと吹き飛んだ。
攻撃の主は南條……ではなく、その前に立っている大男。
「うおおぉおぉぉおりゃあ! 見ててくれましたか座長!」
「あぁ! さすが大山田だ!」
大山田と呼ばれた男は南條からの称賛の声を受けると、心底嬉しそうにガッツポーズをとる。
「条例も法律もワシを縛ることはできん! うおおおおお!」
「その意気だ大山田よ! 日頃私たちの稽古場を奪おうとする警備員と渡り合うだけのことはある!」
異様な攻め気を発揮する二人。
司は倒れ伏しながら状況を分析していたが、ジンジンと顔が痛み冷静になれない。
「……だ、誰なんだこいつら……それより、な、何でここが?」
「何を言っているか聞こえないですよ司さん。いや、司よ! そんな声では観客に鼻で笑われてしまう!」
「き、君は確か……」
周辺の住人のことなど眼中にないのだろう。
彼女が高らかに声を上げると、司はそれがきっかけで南條に気付く。
「何で君がここにいるんだ!」
「丁寧に答えてやる義理はない! だが敢えて言うならそう、渋谷の友人が彼女を探していたからだ!」
「さすが座長だ……敢えてと言いながら事細かに解説してやがるぜ……!」
大山田のツッコミも気にせず、南條は言葉を続ける。
「まさかお前が犯人だとは思わなかったよ。どうしてこんな愚かな真似をしようと?」
「ぼ、僕が愚かだと……?」
司はよろけながらも立ち上がり、吠えるように言う。
「君には分からないのか! 自分の理想の存在が現れた時、人間はその衝動を抑えることはできない! 彼女は僕の……太陽なんだ!」
「ほう……?」
会話など無意味と判断した大山田が前に出ようとするが、南條は片手でそれを静止する。
巨大な石像のような男は、華奢な手でピタリと止まった。
「それは恋か? それとも欲望か? その衝動の根源は何だ」
「全てさ! あんなに美しい人を僕は見たことがないし心の奥から欲求が湧き上がってくる! 雑誌で見た時には思わなかったが、直接会った時に僕が脚本を書いてきた理由は彼女だと理解した!」
「ならば何故順序を踏まない? お前が一人前になった然るのち、彼女に声をかければ良いだろう!」
「それこそ愚かだ!」
司はさらに声量を上げる。
「人間は刻一刻と衰え、醜くなっていく。それは見た目だけじゃない! 彼女が太陽のように輝くのは外見だけが理由じゃない!」
優れた容姿はもとより、周囲の人々を照らすような明るさこそが美奈が太陽たる所以だと、彼はそう考えている。
言葉は少なかったが、南條は司の言わんとしていることを読み取っていた。
「どちらも素晴らしいのなら、どちらも衰えてしまう! 二倍の速さで輝きを失う彼女を見ることなんて耐えられない! 僕は彼女を追い越し、一人で……」
俯き、ぽつぽつと涙を落とす。
南條はその姿に戸惑いを覚えたが、司への問いかけをやめなかった。
「……なら、お前がそうならないよう助けてやれば良かったじゃないか。彼女が汚れないと信じてやればよかったじゃないか」
諭すように言う。
二人の声がこだましていた時とは正反対に、今この場では司が鼻を啜る音だけが響いていた。
「女性としても、自分の理想の役者としてもあの子に惹かれたのだろう? お前はたった1日で全ての可能性を失ったんだぞ」
「……そんなことわかってる! でも、僕は……」
司は顔を上げた。
次の瞬間、彼の視界に入ったのは南條でも大山田でもなく、さらにその奧。
階段を登りきったところからこちらの様子を伺う黒髪の男と、美しい長い髪を持つ女だった。
司は仲間を見つけたように顔を綻ばせたが、すぐに落胆したように目を細めた。
「なぁ、君!」
「……俺、ですか?」
呼びかけられた男は、不思議そうに答える。
「あぁ、君だよ。君に聞きたいことがあるんだ」
一歩、また一歩と司は直輝の方へ近づいて行く。
彼は大山田より一歩向こう、南條の隣にまで進んだ。
「君、名前は?」
「……黒木です」
「そうか。黒木くん、君は僕が言っていたことは理解できるかな?」
直輝は少しの間考えていたが、やがて躊躇いながらも頷いた。
「……少しは」
彼の返答を聞いて、司は安心したように笑った。
「なら良かったよ。なぁ、僕はもう連れて行かれるんだろう? 最後に君と話がしたいんだけど、そっちに言ってもいいかな?」
「……少しなら」
「良かった。何もしないから安心してくれよ」
その一言が、彼の足元に視線を落としていた直輝の目の色を変えた。
「――ッ! 大山田さん!」
「ははは。君こそ一番愚かじゃないのか? 理想が手に届く距離にあるのにどうして無駄な時間を過ごしているんだ!? それを失う悲しみを教えてやるよ!」
直輝が叫ぶのと同時に、司は全力で駆け出した。
――澪に向かって。




