傘、入りますか?
雨がしとしとと降る音を聞きながら、ぼうっと黒板を見つめていた。
こうやって空気が湿気った日は、心に枷が付けられているようで何もする気にならない。
世の中の大学生諸君も同じように考えているのか、今日は普段よりも出席率が低いように思える。
それに対して、仕方のないこととはいえ、どんな天気でも気軽に休むことのできない教授には同情してしまうな。
「やっと時間なんで今日の講義はここまでで。はぁ、ダルい……」
教える側とは思えないほど正直な言葉と共に教授が去っていき、解放された学生達の産声によって、憂鬱の中に少しの癒しを与える雨音はたちまち消し去られてしまう。
「はぁ……雨の日ってなんかやる気にならないよな」
隣で講義を受けていた三上に声をかけると、ゆっくりこちらへ身体を向けてくれた。
「そうですね。雨の日は前髪崩れやすいし気分が落ち込んじゃいます」
彼女の前髪はいつも綺麗に揃えられているが、乱れてしまうこともあるのか。
同じ人間であることは間違いないのに、その神秘的とも言える美しい顔も見ていると、彼女には一般的な悩みが通じないように感じてしまうな。
そう考えながら三上を見てたが、何かを察したのか、人差し指をビシッと立てて口を開く。
「でも、悪いことばかりじゃないですよ。こういう日にこそ、思いがけない嬉しいことがあったりするんです」
「嬉しいことかあ……」
確かに、人生山あり谷ありというか、良いことと悪いことは交互に起きるという人もいるくらいだし、雨が降っている個人的マイナスな日には、個人的に良いことが起こりやすいかもしれない。
人間は他人にされた良いことより嫌だったことの方を覚えている生き物だ。
実は嬉しいことが起きていたが、日が経つと雨の日の嫌な部分だけが記憶に残ってしまうのかも。
だからといって、すぐに良いことが起こるわけではないのもまた事実。
「あ、あんまり信じてませんね〜?」
俺の反応が芳しくないと思ったのか、少し挑戦的な笑みを浮かべている。可愛い。
「信じてないわけじゃないよ。ただ、今日はまだ良いこと起こってないなと思って」
「そういうことなら」
三上は立てていた人差し指を俺の方に突き出し、自信ありげにこう言った。
「探しにいきましょう」
「色々行きたいところは思い浮かぶんですけど、まずは食堂がいいと思います」
特に予定があるわけでもないし、彼女先導の元、校内を回ってみることにした。
まずは食堂らしい。
昼休みらしく食堂には沢山の生徒がいて、かなり賑わっている。
「それで、一体どんな理由で食堂を選んだんだ?」
「最初は小さい幸せから見つけようと思って。ほら、日替わり定食に好きなおかずがあると嬉しくないです?」
「あぁ……確かに」
食堂のメニューには、カレーやうどん、蕎麦といったいつでも食べることのできるメニューと、日替わりで違うものが出てくるメニューとがある。
統計をとったわけではないのでわからないが、メニューは完全ランダムで、どんな候補があるかすら分からない。
生姜焼きや唐揚げといったメジャーなものから、ガパオライスや酸辣湯麺なんて変わり種まで幅広く、行って直接確認するまで不明だ。
その日のメニューを朝のうちに投稿してくれるアカウントとかほしい。
「私だったら、麻婆豆腐とか嬉しいですかね」
「俺も麻婆豆腐かな。あとはカニクリームコロッケとか」
カニクリームコロッケって結構レアなイメージがあるからな、見つけた時のラッキー度はかなりのものかもしれない。
逆に、同じ揚げ物でも量の多いものはあまり好かない。
以前は食べれたのだが、最近妙に胃もたれするようになってきた。
年々脂っこいものが苦手になるとはいうが、流石に早くないか?
「ラッキーメニューが決まったら確認しにいきましょう。準備はいいですか?」
「大丈夫。良いメニューを引いてみせるよ」
生徒の間を抜け、券売機横のボードを確認しに行く。
たかが日替わりランチのメニューを確認するだけだというのに、何故かドキドキしている自分がいた。
「よし三上……確認するぞ」
頷きが返ってきたので、いよいよメニューを確認することにする。
ボードを下から順にゆっくり見ていく。
蕎麦、うどん、カレーライス、野菜定食。ここまでは恒常メニューだ。
野菜定食の上にくるのが日替わりメニューで、各日AとBの二つの選択肢がある。
つまり、当選確率は2倍ということだ。
言い方を変えれば2回チャンスがあるということ。
考えていても何も変わらないし、Bのメニューを見てみると――。
「こ、これは……!」
「爆盛カツ丼って書いてありますね」
爆盛カツ丼。
山盛りにされた米が鎧のようにカツを着込み、とてつもない威圧感を放っている。
メニュー自体は極めてレア、なんなら麻婆豆腐やカニクリームコロッケとは比較にならないほどだ。
だが……。
「俺にはまず完食できないな」
「私もです。富士山に登るより、この山は険しいかもしれません」
「わかる。登頂するまでに何人の俺が屍になることか……」
五人くらいかな。
「気を取り直してAいきましょうか」
「そうだな。Aは一体どんなメニューなんだ……?」
文字のフォント自体に威圧感がある爆盛カツ丼から視線を上に動かしていく。
Bがレアメニューだったし、逆にAは一般的なものだろう。
だからこそ、麻婆豆腐はちょうど良いのではないか。
運命の一瞬。俺の目に飛び込んだ文字は――。
「…………夏野菜の彩カレーか」
「夏を先取りしてきましたね」
恒常メニューにあるカレーはシンプルなポークカレーだが、こちらにはふんだんに夏野菜が使われているようだ。
カレーも美味いし野菜も摂れる素晴らしいメニューだが、残念ながら狙いは外れてしまった。
「……まぁ、夏野菜カレーって言葉もちょっと好きだし、良いってことにするか」
「そうですね。私はこれ食べます」
二人で同じメニューを頼み、昼食を楽しんだ。




