三上澪の日常
日曜日の昼下がり。
澪は、自室で作業を行っていた。
「これは……生活系。これは…………」
机の上には、普段から使っているメモ帳と、いわゆる単語帳が置いてある。
普段のメモ帳は確かに使いやすいが、その内容は日々の出来事に依るため、辞書のように素早く索くことができない。
そのため彼女は、自分の書いたメモを分類分けし、単語帳に書き写す事にしたのだ。
思いついたのはつい最近で、これが有効かどうかは不明。
だが、せっかくメモした事が活かせないというのは本末転倒である。
生活に使える雑学や専門的な知識、他にも個人についての単語帳が用意されていて、はたから見れば机の上が散乱しているようだ。
1時間ほど作業を続けていると、彼女の部屋に明るい声が届いた。
「澪ちゃ〜ん! そろそろご飯にしましょ〜!」
「わかりました!」
一階のリビングにいる澪の母の声だ。
彼女は二階の自室からよく通る声で返事をすると、一度机の上のものを丁寧に整頓し、下階へと降りていった。
「いただきます」
「いたたきま〜す!」
日曜だが父親は仕事で家におらず、母と娘の二人で食卓を囲んでいる。
今日のメニューはパエリア。
黄色い米に色の主張が強い具材。米は大粒で粘り気のないスペインのものを使用しているため、よくスープを吸い味が浸透している。
「わぁ、とっても美味しいです」
澪が感動した顔で感想を告げると、彼女によく似た容姿の母が口を開く。
「あらあら、良かったわぁ〜。初めて作ったから失敗しちゃったらどうしようって思ってたのよ〜」
ボブヘアーと髪型こそ違っているが、スッと透き通った目元やほっそりとした体型など、澪とそっくりだ。
もう一つ違う点を挙げるとすれば、母の語尾がやさしく伸びていることだろう。
それによって、澪に比べて包み込むような柔らかさを感じられる。
「初めてなんですか? 知らないうちに得意料理が増えたのかと思いました」
「澪ちゃんったら、うふふ……」
親子仲はとても良いが、どちらも落ち着いているため盛り上がっているようには見えない。
落ち着いていて理知的な澪と、同じく落ち着いていて温和な母。
見た目も含めて親の良い部分が余す事なく遺伝していると、誰もが口を揃えて言うだろう。
「そういえば、黒木くんとは最近どうなの〜?」
母は思い出したかのように切り出したが、昂揚した声のトーンでずっと気になっていたのが一瞬でわかってしまう。
「黒木くん……ですか?」
しかし、血の繋がり故か、娘の目には「思いつき」に映っていた。
母の質問の意図が読み取れず首を傾げる。
「ほら、最近はどこに行ったとか、何をしたとか……あ、あんまりプライベートなことは言わなくていいのよ?」
「プライベート……?」
娘の反応を見て、「プライベート」なことは起こっていないと母は理解する。
安心とも残念とも取れる、なんとも言えない表情。
「最近は……一緒に本屋さんに行きました。おすすめの本を教えてもらって、もうすぐ読み終わるところです」
「あらぁ〜!」
この場には二人しかいないが、母があまりにも色めき立っているせいで、想像以上に騒がしい。
「私もね、大学生くらいの頃にお父さんとお互いに好きな本をプレゼントしあったの〜! 公園のベンチで二人で読んだりしてね、その本は今でも大切にしているわ〜!」
「へぇ、素敵です」
どうして母がここまで興奮しているのか、澪には理解できなかった。
しかし、嬉しそうな姿を見て頬を緩ませている。
「それで、次はいつ黒木くんをうちに連れてきてくれるの?」
「家にですか!?」
動揺から、思わず机を揺らしてしまう。
「あら、一回来たことあるんだし、びっくりすることじゃなくないかしらぁ?」
「それは……前回は……状況が違いませんでした?」
澪はなんとか上手い言葉を見つけて返すが、鉄の鎧に小石を投げるようなものだった。
「全然違くないわよぉ? 黒木くんかっこいいし、はやく真桜にも紹介したいわぁ〜」
「……そうですか?」
真桜は澪の一つ下の妹だ。
今は海外留学で三上家にはいないが、後数ヶ月のうちに帰ってくる。
親子仲同様、姉妹の仲もとても良好だが、なぜか澪は、直輝を真桜に紹介する事にあまり乗り気ではなかった。
「とにかく、今度黒木くん連れてきてちょうだいねぇ?」
「は、はい……考えておきますね……?」
ずっと疑問を抱えながら、澪は昼食の時間を過ごした。
澪と母では、直輝に対する認識がズレているのだ。
これが重なるまでにはまだ時間があるが、確実にその時はくる。
少なくとも、母は「女の勘」で確信していた。
「……ふぅ。続きをやりましょうか」
自室に戻った澪は、一息つくと作業を再開した。
「そういえば、この日は……ふふっ」
メモを見るたびに思い出が脳裏に浮かび、澪はずっと笑顔をたたえていた。
目で見て覚えるより、自分の手で書く方が記憶に残ると、勉強の際に手を動かすのを推奨している指導者もいるらしい。
元々記憶力の良い澪は、その習慣によってさらに日々の出来事を脳内に残している。
「確かこの日は、黒木くんが……」
そこまで口にして、はっと我にかえる。
普段なら何も考えることはないが、母がああ言っていたから変に意識してしまったのだろう。
机の上に置いてある鏡には、少し照れ臭そうな顔が映っていた。
「でも……」
その先の言葉は胸の中にしまっていたが、彼女の鼻歌の旋律が、楽しげに宙を舞っていた。
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