黒木直輝の休日
「ありがとうございました〜」
商品受け取ったサラリーマンはそれを鞄にしまい、汗でよれた髪を額になでつけながら店を後にした。
「もうこんな時間か……」
店内――俺のバイト先である書店は粛々としていて、夜の7時を回っていたということに、サラリーマンの哀愁漂う背中を見て気が付いた。
今日は講義もなく、本来なら丸一日休みなのだが、大学生ともなるとなにかと出費が増えるため、やはりバイトは欠かせないだろう。
一人暮らしのために親から仕送りをもらっているし、できればあまり負担になりたくない。
そのため、俺は大学生になってすぐに、一人暮らし先と大学の中間ほどの立地にある書店の面接を受け、晴れてこうして働かせてもらっているのだ。
「いやぁ、今日はかなり暇だね」
「そうですね。店内も静かだし、油断すると寝てるんじゃないかって感覚になります」
「それね? 私も5回くらい違う世界に行ってたよ」
声をかけてきてくれたのは、先輩の新田さんだ。
俺がこの店に入った時には既に働いていて、彼女自身、俺と同じ大学の一つ上の学年ということもあって、公私ともに先輩である。
「黒木君は最近どうなの? 二年生になって変わったこととかある?」
新田さんは茶髪のポニーテールを揺らしながら、興味ありげに軽く肘で小突いてくる。
その瞳の中には、後輩に対する優しさが半分と、暇つぶしが半分といったところだ。
「変わったこと……ですか。うーん、何かあったかなぁ」
「いや、何かしらあるんじゃないの? 二年生って一番楽しい時期だよ? 三年生になると、かなり就職に精神持ってかれるからね……」
そう言われても、二年生になって劇的に何かが変わったわけではない。
20歳の誕生日を迎えたからといって、大人になった実感が特段ないのと同じである。いや、今は18で成人だったか?
ともかく、俺のようなインドア派にとっては成人式も混雑面倒な行事としか思えないし、「はい、今日から君も大人ね」と偉い人が言ってくれでもしなければ、その自覚も生まれないのだ。
一人小さく頷いていると、何かしら面白い返答があると思っていたのか、新田さんは少し悲しそうにため息をついていた。
「そっかぁ……」
「逆に、先輩は二年生の時に何かあったんですか?」
「そりゃああるよ! ほら……二年生って言ったら……あれよ、ね?」
「全然わからないです」
人差し指をクルクルと空中に彷徨わせているが、一向に具体的な出来事が出てこない。
もしかして、彼女も俺と同類なのだろうか。
「二人とも、それでいいのかい……?」
「あ、店長。そうなんですよ、私たち二人とも、二年生の楽しい思い出も酸っぱい思い出も何もないんです! これは由々しき事態ですよね!」
「そうだねぇ……」
……俺の二年生は始まったばかりだから、まだ何もないと決まったわけではないのだが。まぁ、おそらく何もないんだけどな。
それはそうと、全く進まない会話をじれったく思ったのか、近場で本の陳列を行なっていた店長が会話に入ってきた。
彼の身長は170ちょっと、すらっとしていて口上に髭を蓄えている。「スマート」や「紳士」という言葉がこれほど似合う男を俺は他に知らない。これでステッキでも持っていようものなら、映画の中の登場人物として通用するだろう。
日本人離れした凹凸のある顔立ちも、学生時代は引く手数多だったに違いないと思わせる。
そう考えると、嫌でも気持ちが浮ついて黒歴史を量産しがちな大学生活において、悲しいほど浮いた話のない俺(と、おそらく新田さん)は、さぞ不甲斐なく見えるのだろう。
店長は腕を組みながら、ダンディな外見に反して柔和な口調で話し出す。
「ほら、大学生といえば恋愛じゃない? 僕が大学生の時は、そりゃあもう色々あってね……うん……」
「そうなんですよ! 私たちだって、想像では甘酸っぱい大学生活を送ってるはずなんですけど……ねぇ黒木くん!?」
「俺ですか!?」
ナチュラルに「私たち」に加えられていたこと、店長の語りに陰りが見えかけていたことは気になるが、突っ込むのは面倒そうだからやめておこう。
「でも、彼女の一人くらいはほしいですよね。気になる子はいたんですけど、結局中高と何もなかったので……」
「え、黒木くん、もしかして彼女いたことないの……?」
「引いたような反応やめてください。泣きますよ」
既に心の中では泣いていた。
「新田さん、あんまりいじめちゃいけないよ。女の子にアプローチするのって、思ってるより勇気がいるものなのさ」
「そうなんですか?」
俺が不憫に見えたのか、店長がフォローを入れてくれる。
「そうそう。自分がいいと思う、気になる相手ってことは、その人の良い面がたくさん見えているってことだろう?」
「そうですね。顔とかお洒落さとか年しゅ……頼り甲斐とか、色々ありますよね」
年収って言おうとしてたな。
しかし、別に間違っていることではない。高い給料をもらっているというのは、それだけ社会に価値を認められているということだし。
「良い面がたくさんあるってことは、精神的に自分より上の人間だと思っちゃうんだよ」
「自分より上?」
「自分の良いところは、自分より他人の方が気付くだろう? でも、自分の悪いところ、足りないところは、自分でも良く気付けるんだよ」
「あぁ……確かに」
コンプレックスだって、試験の点数だって、過去のやらかしだって。自分のことは自分が一番よくわかるし、覚えていられる。
と、ここでレジにお客さんが来てしまったため、店長の優しい助け舟を諦め、泣く泣く対応にあたることにした。
「あぁ……確かに」
「そうやって自分の良くないところをたくさん知っちゃったら、自信がなくなっちゃう人だっているだろうね。その人がどれだけ素晴らしくても、完璧に思える相手に人間らしい欠点があったとしても、僕じゃ釣り合わないって、そう思うんだ」
「……深い」
店長の言葉を聞いて、新田佳奈は感銘を受けたように口を開けていた。
「それに、今はどうなのか分からないけど、肉食系女子とか草食系男子とかって言葉が流行ったように、みんなの意識の根底には、恋愛は男子がアプローチをかけるものっていう暗黙の了解みたいなものがあると思うんだ」
「自分から行動できる女子もいるけど、圧倒的に待っちゃう子が多いと思います」
「だろう? 別に、それ自体は悪くないんだけどね」
若者と自分の感覚がそれほど乖離していないことに安堵したのか、はたまた単純に自分の意見に共感されたのが嬉しかったのか、店長は声のトーンを一段階上げて話を続ける。
「でも、そうすると、アプローチができる男子と、アプローチを受けた女子の恋愛における経験値は上がるけど、アプローチができない男子はいつまで経ってもレベルアップできないのさ」
「女の子からグイグイ来られる男子なら頑張る必要ないと思いますけど、そんな人は少数派っぽいですもんね」
「そう。だからこそ、僕たちは頑張って行動しなきゃいけないんだよ。そうしないと、自分が持っている魅力にも気付けないし、気になっている子が別の誰かに取られちゃうかもしれないから……ね」
彼は直輝の方へ軽く首を向けたが、当の本人は、未だ会計に当たっていた。
二人は鼻でため息をついた後、自分達もそれぞれの業務に戻っていった。




