『麻酔』
「飲み物何にする? 重油?」
「んなもんねーよ」
素気なくあしらってから、俺は差し出された麦茶を受け取る。結露したコップを白い指で支える白木と目が合った。口角がにんまりと上がっている。彼女の反応はいつも不可解だ。
「悪い。何が楽しいんだ?」
「べーつに。ただ、大分私に毒されてきたなー、と思って」
毒される? 誰が? まさかとは思うが俺のことか? 心外だ。彼女に感化された覚えなどこれっぽっちもありはしない。
「そんなわけないだろ」
「気づいてないんだ。そのコップが動かぬ証拠だよ」
俺の麦茶を指しながら白木が言う。よく冷えたただの麦茶だ。何も証明してなどいない。
「まるで意味が分からん」
俺はコップの中身を飲み干した。
一息つく俺を見ながら、白木はからからと笑ってみせる。
「何事もなくあんたの手にコップが渡った。それが証拠」
種明かしをされているのは分かるが、やはり分からなかった。コップを手渡したくらいで大事件なんて起こりようがない。渡し損ねたところで、破片の片付けや取りこぼしが少し面倒なくらいだ。些末というより他にない。
眉間にシワを寄せていると、白木が続ける。
「重油、スルーだったじゃん」
「いや、当然だろ」
白木が見境なくふざけだすのはいつものことだ。まともに付き合っていたら意思疎通もままならない。無駄を最小限に留めるためにも、さっさと切って捨てるが吉だ。
「そこが毒されてる、って言ってるんだよ」
白木はやっぱり楽しそうだ。釈然としない俺のことも考えてほしいのだが。焦らして楽しんでいるのだろうか?
「俺は少しも楽しくないんだが」
「んー、伝わらないかー」
明後日の方を向きながら、白木は伸ばした語尾をあくびに変えてみせた。
嬉々とした雰囲気が、徐々に穏やかなものへと変わる。
「私がボケるとさ、大抵の人が一瞬固まるんだよね。『この人何言ってるんだろう』って感じで。返事までに間ができるの」
話を打ち切られるかと思ったが続くようだ。
湿っぽい語り口で白木は言うが、俺は彼女に同情するつもりなど微塵もない。ノーモーションで、突然さらりとボケられて、誰が対応できるだろう。会話の途中で刺されるようなものだ。むしろやられた側に同情する。
「いや、乗ってくるやつの方が少数だろ。ここ関西じゃないぞ」
「別にそんなこと期待してないし。ただ、誰も流してくれないなー、って。優しい人が多いから、だいたい拾ってくれようとして会話のペースが変になる」
「それ、乱してるのお前だからな?」
白木がわざとらしく頬を膨らませた。唇の上にシワを寄せてヒゲを作ろうとしているようだ。冷ややかな視線を送る俺にも動じず一息、
「でも、真面目に話すのってしんどいし」
舌を出してみせる。
「いい性格してるな、お前」
「お褒めに預かり光栄です」
白木は即答だった。いや、全然褒めていないのだが。皮肉が伝わっているのか心配だ。
「自分でいられる場所なんて、そんなにないからねー」
優しい瞳が俺を見た。あまりにも邪気のない視線に思わず面食らう。感謝、されているのか?
「あんたも、最初は呆けてたよね」
過去を慈しむような目だ。遠くを見つめる年上の顔。同い年のはずなのに、俺はこういうとき二の句を継げなくなる。きれいだとも、近づけないとも、思う。
「なのに、今じゃスルーだもん。私に染まってると思わない?」
茶目っ気にきらめく親しげな眼差し。触ってこいと言われているようだ。少し安心する自分を否定できない。だが、言われるままではちょっっぴり癪だ。
「いいや、思わない。俺がお前に慣れただけ、俺の色だ」
何となくからかわれたから、仕返しに何となく否定する。子供じみた振る舞いを、熱が引いた後俺は後悔するだろう。だが、それでいい。後のことなど知ったことか。
「おー。理屈っぽい。いい、すごくいい」
白木が手放しに喜んでいる。こいつ、俺のことをバカにしてないか……?
大いに張った胸がみるみる萎んでいくのを感じながら、俺は肩を落とした。その背中に白木が回り込んでくる。とっさのことに声を出す機会を失った。
「いいと思ったのは本当だから」
耳たぶを息がくすぐる距離で白木が囁いた。ぞくりとした感触に、麻酔を撃たれたとさえ錯覚する。
完全に麻痺した俺の手からコップを取って、白木はキッチンへと消えていった。彼女の姿が見えなくなってからも、しばらく俺は呆然としていた。