第九十三話「包囲」
「ぼくがもともと白金機関の人間で、サリーはぼくを洗脳して自身の騎士〈パエトン〉として操っていた」というサリーの告白は、ぼくの頭にハンマーで殴りつけられたような強烈な衝撃を与えた。
しかしサリー自身にそう言われても、ぼくにはまだにわかには信じられなかった。何だか現実味に欠けていた。本当の親だと信じていた人々からいきなり「お前は私たちの子供じゃない」なんて言われたらこんな感じなのかもしれない。
いや。待てよ。サリーはきっとヒヅルが怖くて、殺されないように、あるいは地獄の収容所に送られないよう、必死で取り入ろうとしているのではないだろうか? サリーだって人間。それもか弱い女の子だ。そうだ。そうにちがいない。それに元はと言えば、サリーが心にもない嘘をつかざるをえないのは、ぼくが不甲斐ないからではないか!
ぼくはなかば自分自身に強くそう言い聞かせた。
そんな時だった。ヘリの操縦席にいたアジア系の中背の男が、ヒヅルの元まで歩み寄り、何やら話しかけていた。
「どうしたのです。万二」
「総帥。まずいことに」
万二と呼ばれた、針金のように細い眼と鼻の下から細長く左右に伸びた鯰の如き髭が印象的なそのアジア人男性は、何やら困ったように眉をハの字状に寄せていた。
『未確認航空機に告ぐ。我々はアメリカ空軍第一特殊作戦団である。お前たちは完全に我々の包囲下にある。ただちに着陸し、拉致した民間人を解放せよ』
ほら、見たことか!
ぼくは内心安堵した。
きっと、サリーが投降する前に誰か――たとえば麗那あたりに、助けを求めていたのだろう。我々ヘリオスはアメリカ軍の上層部をも掌握している。ヘリオスの敵はアメリカの敵として、世界最強の軍隊が徹底的に叩きのめす。
やはり、サリーはヒヅルに屈したわけではなかったのだ。ぼくを洗脳したという話も、その場しのぎの嘘だろう。そうに決まっているじゃないか。一瞬でもサリーのことを疑ってしまった自分が恥ずかしい。
白金機関の最新技術を結集して作られたであろうステルス仕様のヘリでも、まるで予知していたように大規模に展開しているアメリカ空軍の包囲網を突破することは至難であろう。
「ふん。もはやお前たちは完全に包囲されているぞ。我がヘリオス率いるアメリカ軍の底力をなめるなよ」
ぼくがどや顔でそう言うと、ヒヅルの隣にいた中東系の女、ティキの顔がわずかに強張った。
「洗脳とは恐ろしいですね。あのヒデル卿が、こうも豹変してしまうとは」
「ええ。私もこれほどまでとは思っていませんでしたわ。しかし、突破口はまだ残されている。この包囲をうまく切り抜けさえすれば、の話ですが」白金ヒヅルが無表情のまま菊柄の扇子をぱたりと閉じた。
この逼迫した状況にも関わらず、ヒヅルは落ち着き払っていた。まだ何か切り札を隠し持っているのだろうか?
ぼくはともかく、サリーがヘリに乗っている以上、アメリカ軍は攻撃してこないだろう。いくらヒヅルという悪の親玉を討つためとはいえ、民間人、それもブラックメロン家の令嬢を巻きこむとは思えない。
『白金ヒヅル。聞こえるか。私だ』
ヘリの中のスピーカーから、聴き憶えのある声がした。
壁に備えつけられた百インチはくだらない大型スクリーンに、ひとりの女性の顔が映し出された。
「あら。麗那ですか。こんばんは」ヒヅルは何食わぬ顔で言った。
『お前たちはすでに包囲されている。我々の姫君の生存を確認させろ。さもなくば、十五機のF35が、ただちにお前たちを撃墜する』
「この通り、生きてるわ」
対応の遅さを暗に詰っているのか、サリーはわざとらしくため息をつき、スクリーンの前に顔を出した。
「満足しましたか」
ヒヅルがそう問うと、麗那は勝ち気な笑みを浮かべた。
『我々の要求は、ブラックメロン氏の解放。それだけだ。彼女を大人しく引き渡せば、お前たちに用はない。さっさと日本へ帰って、モロゾフのプリンでも食うがいい』
「それは魅力的な提案ですね。しかし何か誤解していらっしゃるようで。私はただ、彼女を我が国に〈招待〉したいだけですよ。サリーは私の大切なお友達ですから、悪いようにはしません。然るべき用が済めば、無事アメリカまで責任を持ってお送りしましょう。ほゝゝゝ」ヒヅルは黄金の下地に富士山が描かれた扇子を広げ、口元を隠して高笑いした。
『あれだけ派手に暴れておいて何が招待だ。馬鹿馬鹿しい』呆れ果てた、と言いたげに麗那はため息をつく。『この通信は、全米の各メディアに流している。私の命令ひとつで、お前たちはブラックメロン氏を拉致した悪逆非道のテロリストとして、全世界に知れ渡ることになる。そしてお前が日本を牛耳る影の総統という付録つきで、日本は史上最悪のテロ支援国家として、全世界から糾弾され、孤立することになるだろう。私はお前が優れた一国の指導者として、日本のために英断を下すことを期待しているよ』
「あらあら。あなたともあろう人が、ネット上で広まった陰謀論を信じてしまっているだなんて、幻滅ですわ。麗那。私はしがない一企業グループの会長に過ぎませんし、今回もただサリーと親交を深めようとパーティに招待しただけ。とんだ言いがかりですわ。ねえ、サリー」
ヒヅルがサリーに向かって柔らかく微笑んだ。その慈愛の女神さながらの微笑みの裏から、「協力しなければ殺す」という暗黙の意志が滲み出ていた。
「そうよ。麗那。私はヒヅルの家に遊びに行くだけ。パエトンも一緒よ。何の心配も要らないわ。何だったら、あなたも一緒に来たらいいじゃない。るんるん」乾いた笑みを浮かべながら、サリーはおどけて言った。
『理事長。元はと言えば、あなたが我々に断りもなく独断行動するからこんなことになっているんですよ。あなたは勇気を出して、我々に助けを求めなければならない。さあ、本当のことを話してください。そうすれば、我々は全力であなたを救出します』
ぼくには麗那の真意がよくわからなかった。今この場でサリーにそれを言わせるのは、彼女の死を意味する。サリーの返答如何に関わらず、ヘリオスは黙ってサリーを救出すべきなのだ。
しかしサリーは高潔な聖女。自らの命と引換えに、世界を地獄に変えようとしている悪の枢軸ヒヅルを抹殺しようと考える可能性は充分にある。
余計なことを言っちゃだめだ、サリー!