第七十七話「異性交遊」
ここ一カ月ほど働き詰めだったぼくは、サリーに三日間の休暇をもらい、恋仲である宮美と異性交遊することにした。ぼくの所属は秘密結社ヘリオスの中でも諜報や暗殺といった隠密活動を主とする〈特務部〉だが、実際はサリーの指示で動くことが多い異色のエージェントである。ブラックメロン家はヘリオスのオーナー的な立ち位置であり、ヘリオスの仕事に首を突っこむことは滅多にないそうだが、サリーだけは例外で、一族の中でも火遊び好きのじゃじゃ馬娘として有名なのだとか。
アメリカ合衆国ニューヨークの夜景は、SF映画に出てくるような未来感に溢れていた。
「ハロー、宮美。待たせてしまったかな」
待ちあわせ場所に指定したブラックメロン・センター(ニューヨークの中心にある二十八もの高層ビル群をまとめてそう呼ぶ。もちろん、ブラックメロン家保有)、その中央広場に位置する巨大な黄金の太陽神ヘリオス像の足もとに、見慣れた美しい黒髪女性の姿が、すでにあった。
「いえ。私も今着いたところです」
普段のぱりっとしたスーツ姿とは打って変わって、宮美の私服姿は濃紺のカシュクールにハイヒールといった女性らしさを強調した出で立ちだった。化粧も薄めで、時々団体で通り過ぎる観光客のような派手さはまったくなくシンプルであった。だが、それがいい。宮美のように素材がいい女性は、無駄に化粧や服装に気を遣って己を虚飾る必要などないのだ。敢えて特筆するなら、胸元できらりと光る銀の三日月のペンダントが、彼女の静謐とした印象を強調していた。
「よく似合ってるよ。そのペンダント。闇夜に悠然と輝く月の女神セレーネーそのものだね、君は」
ぼくが爽やか美男子微笑でそう言うと、宮美は頰を赤らめ、そっぽを向いた。
「もう。ヒデ……パエトンさんってば」
「ヒデルでいいよ。宮美。そっちの名前の方が、しっくりくる。パエトンはコードネームだしね。しかしぼくは何故この名を捨ててしまったんだろうな。あの白金ヒヅルの弟だったとしても、ぼくはぼくじゃないか」
ぼくの疑問に対し、宮美は何か隠し事でもしているかのように、口を噤んでしまった。本当は言ってしまいたいのに、押し黙っている。そんな具合に。
「ああ、いいんだよ。宮美。言えない事情があるなら、言わなくていいんだ。君の辛そうな顔は見たくはない。女性は笑顔が一番だよ」
ぼくが宮美の顎をくいと持ちあげて顔を寄せると、宮美の頰がふたたび赤く染まった。
「記憶をなくしても、そういうところは相変わらずですね」
「記憶をなくしても、ぼくはぼくさ」
「でも、本当の名前で呼ぶのは、ふたりきりの時だけですよ」
宮美が神妙な面持ちでそう言ったので、ぼくは黙って首肯した。やはりサリーに口止めされているのだろうか。
「さて、どこへ行こうか。ぼく的には世界三大美術館のひとつとして有名なメトロポリタン美術館など興味あるのだが。宮美はどうかね」
ぼくがそう訊ねるも、宮美の反応は微妙だった。
「ごめんなさい。私、芸術はさっぱりで」
「おや。これは意外だね」
なるほど。仕事熱心な宮美のことだ。おそらく学生時代も勉強漬けの毎日を送っていて、あまり芸術に触れる機会がなかったのかもしれない。
「では他にどこか行ってみたいところはあるかい」
ぼくがそう宮美に問うと、彼女は首を横に振った。「あ。いいえ。特には。パエトンさんが行きたいところへご一緒します」
「ふむ。なら、ブロードウェイでミュージカルでもどうかな」
「ではそれで」
ぼくの提案に、宮美は淡々と頷いた。咄嗟にそう言ってみたものの、ミュージカルに関しての情報はまったく収集していなかったため、ぼくたちは行き当たりばったりで結局定番中の定番といわれている〈レ・ミゼラブル〉を鑑賞することにした。チケット代はふたりで約百七十二ドル、現在のレートで二万円くらい。ぼくが奢ると言っても宮美に即座に断られてしまった。男性に奢られるのは単に恐縮なのか、あるいは高年収キャリアウーマンとしてのプライドが許さなかったのかはわからなかったが、こちらとしては素直に好意を受け取ってほしかった。しかし完全に宛が外れてしまった。というのも、この日のためにメトロポリタン美術館に展示されている美術品を調べ尽くし、蘊蓄を語ってぼくの博識さ、造詣の深さを見せつけようと思っていたのに、まさかこんなに育ちの良さそうな宮美が芸術音痴だったなんて。
レ・ミゼラブルの上演は実に三時間以上にも及んだ。登場人物が多く内容も大変濃密なため、話を整理しながら追える人でないとついていけないかもしれない。が、宮美は終始熱心に魅入っており、満足げであった(冒頭で主人公が司教に与えられた恩を仇で返すシーンがあり、「何て人かしら!」とぼやいていた)。
ぼくたちが劇場の外へ出た頃にはすでに夜の九時を回っていたが、相も変わらずタイムズスクエアは人で溢れていた。
少し静かなところへ行きたかったぼくは、宮美を連れてセントラルパークへと赴いた。ベンチの上でニューヨークの見事な夜景を眺めながら、ヤクドナルドことヤックで買ったハンバーガーを頬張るぼくたち。小腹も減り、どこかお洒落なお店にでも連れていこうかと思いきや、宮美がヤックを提案してきたのは意外であった。たしかにどこもレストランも人でいっぱいだったし、ハンバーガーでもさっと買ってセントラルパークでのんびり過ごすというのは合理的選択であったかもしれない。
夜のニューヨークが世界一危険な都市と言われていたのも昔の話で、このアメリカを代表する大都市の治安は、一九九〇年代から二〇〇〇年代前半にかけて劇的に改善しており、まったく別の都市と言っても過言ではないほど安全な街になっている。その背景には〈世界の市長〉と賞賛された元検事のルドルフ・ジュリアーノ氏と、優れたリーダーシップで市長を史上最長の三期勤めあげたマイク・ブルームバーグ氏による改革と、九一一テロ以降結束を強めた地元民たちの助けあい精神がある。
「ヒデルさん。今日は一日、ありがとうございました。とても楽しかったです」宮美が律儀にも深々と頭を下げた。
ぼくはそんな宮美の顎を指先でくいと持ちあげ、彼女の唇に優しく接吻をした。完全に虚を突かれた宮美は一瞬びくりと体を硬直させたものの、すぐにくたりと脱力してぼくに身を委ねてきた。
「お礼なんていらないよ。君と素敵な時間を共に過ごせたことが、最高の報酬なんだから」
「ヒデル、さん」
宮美は頰を紅潮させてぼくの胸に顔を埋めているが、その肩は若干震えており、このまま〈先〉へ進んでいいものか、と、まだ迷っている様子が窺えた。
「だめよ。こんなところで」
唐突に知らない女性の声が、耳に飛びこんできた。
「大丈夫だよ。誰も見てないから」
今度は知らない男の声。
そして、がさがさと茂みの中で何かが動く音。
「AH」
「OH」
徐々に荒くなっていく、複数の息遣い。
ぼくたちの座っているベンチより少し離れた茂みの中から、そんなやりとりが聴こえてきたため、ぼくはともかく宮美は頰どころか耳まで真っ赤にしてそわそわし始めた。宮美の反応から察するに、記憶を失う前のぼくと彼女は、体の関係までは進展していなかったのではないか。恋人同士と言っても精神的な関係だったのかもしれない。ぼくが情熱的な眼差しを向けると、火の噴き出しそうな顔をしてそっぽを向いてしまうのだ。
宮美とやりたいな。
ぼくの奥底から、そんな欲望がこみあげてきた。
「ヒ、ヒデルさん。あの。私、用事を思い出しまして。お、お暇を」
沈黙に耐えきれなくなった宮美がとうとうベンチから立ちあがろうとするも、ぼくは彼女の手を掴んだ。
びくりと反射的に身を仰け反らせた宮美が、「ひ」と短く呻いた。
「ぼくとじゃ、厭かい」ぼくはまっすぐに宮美の眼を見つめ、そう訊ねた。
「い、厭って、何がですか」
宮美はぼくの眼を直視できず、視線を明後日の方向へと逸らしていた。可愛いやつだ。
「わかっているだろう。そんなに顔を真っ赤にして。初めてなのかな。怖いのかい。大丈夫、優しくするよ。ぼくを、信じて」
記憶を失っているというのに、根拠のない自信が、ぼくを突き動かしていた。
「や。あの。何もこんなところで」宮美は激しく頭を振り、頑なに拒み続けた。
「わかったよ。じゃあ、場所を変えようか」
ホテルにでも連れこんでやっちまおう、と、ぼくは考えていた。幸いヘリオスのエージェントとして働くようになってから金には困っていないし、クレジットカードも持っている。恋人同士である以上、倫理的に何の問題もないのだ。たぶん宮美は、今まで勉強や仕事のことばかり考えて生きてきて、恋愛経験が希薄なのだろう。男に対する免疫がない。なら、他でもないぼくが宮美を〈女〉にしてやるのが、恋人としての責務ではないだろうか……と、ぼくは自分自身の獣欲を正当化した。
「愛してるよ。宮美」近くのホテルへ向かって歩いている途中、ぼくは宮美に何度もそう言った。
「あ。ありがとうございます。嬉しいです」
宮美の反応は決まってこんな感じだった。とことん受け身でガードが固い女である。君の方からぼくを愛していると言ってはくれないのか、と、物足りなさを感じなくもなかった。
だが、そんな甘いひと時に、突如終止符が打たれることとなった。
「危ない」
公園を出ようとしたその時、一発の銃声が、響き渡った。
ぼくがとっさに飛び出して宮美を突き飛ばさなかったら、彼女は今ごろ心臓を撃ち抜かれ、絶命していたことだろう。
その代わりぼくの左腕に、焼き鏝を当てられたような激痛が走った。
「ヒデルさん」宮美が悲鳴をあげた。
ぼくの腕から噴き出た血が、宮美の顔や体に不気味な赤い水玉模様を描いていた。
「くそ」
ぼくはすかさず懐に隠し持っていた小型拳銃を数発、茂みの中に向かって撃った。無関係の人間を巻きこむ恐れがあったが、今はそんなことは言ってられない。
宮美を守らなければ。
ただ、そのことだけを考えていた。
「走れ、宮美」
ぼくは負傷した左手でパニックに陥った宮美の腕を引っぱり駈けながら、宮美とともに茂みの中に飛びこみ、木の裏へ隠れた。
しばらくすると銃声を聴いた誰かが通報したのか、パトカーのサイレンの音が聴こえ、次第に大きくなってきた。
がさがさがさ、と、反対側の茂みが大きく動き、やがて大柄なひとりの男が、明後日の方角へと走り抜けていく。さすがに警官が駈けつけるまでにぼくを排除して宮美を殺すのは不可能と判断したか。宮美の安全が最優先なので、ぼくは敵を深追いすることはなかった。
しかし、なぜヘリオスのエージェントであるぼくではなく、宮美が命を狙われているのだろう。ぼくの脳裏に、そんな疑問が浮かんだ。