第七十四話「初期化」
眼を醒ました時、ぼくは見知らぬ部屋のベッドの上にいた。
周囲を見渡せば、決して安くはないであろうソファやテーブル。部屋の奥には百インチはある日本製の大型液晶テレビ。広々とした食堂には精緻な彫刻が施された豪華なキャビネット、その中にはこれまた高価そうな食器の数々。高級感溢れる風呂やトイレもあり、しかも清潔に保たれている。高級マンションの一室のような感じだった。ただ地下なのか窓がなく、天井にしかけられた数台の全方位カメラが少々気になった。
ここはどこだ?
ぼくはなぜ、ここにいる?
今日は西暦何年何月何日だ?
いや……
そもそも、ぼくは、一体誰だ?
だめだ。何もかもわからない。
ぼくは記憶を失ってしまったのか?
ずきん、と、頭部が痛み、ぼくは初めて頭部にぶ厚く巻かれた包帯の存在に気づいた。
交通事故か何かで頭部を強打して記憶を失ってしまったのだろうか。
「誰か。誰かいませんか」
にっちもさっちもいかないぼくは、とりあえず誰かから話を聞けないか、と、大声で叫んでみた。
ぴんぽおん、と、インターフォンが鳴った。
玄関口まで来客を出迎えようとしたが、途中に張られた巨大な強化硝子の仕切りによって阻まれた。壁際の隅っこに、人ひとりがようやく通れそうなごつい金属製のフレームと、掌紋認証装置らしき黒い端末が設置されていた。どうやらここが出口のようだ。しかしぼくが掌をかざしたところでうんともすんともいわなかった。
「よく眠れたかしら」ふわふわしたソプラノ域の女性の声がした。
眼の前に現れたのは、漆黒かつフリフリのゴスロリ衣装に身を包んだ中学か高校生くらいの、東欧系の顔立ちをした美少女であった。やや癖っ毛の長く艶やかな黒髪を左右で束ねており、やや紫がかった碧の双眸は、十代の少女には似つかわしくない妖しい光を放っていた。
知らない娘だ。もっとも、忘れてしまっているだけかもしれないが。
「君は誰なんだい。ここは、どこなんだ」
ぼくが単刀直入に訊ねると、ゴスロリ少女は年頃の少女のように無邪気な笑みを浮かべた。しかしぼくの眼の前に聳え立つぶ厚い硝子の壁が、彼女を心理的に遠ざけているように思えた。
「私の名前はサリー。正義の魔法少女よ。世界征服を目指す悪の組織白金機関を倒すために、日夜活動しているの」
サリーと名乗った、ゴスロリ衣装に身を包んだ少女は、ぼくの眼の前で紅い大きな宝石が埋めこまれた五十センチほどの銀色のステッキを振り回し、額の前でピースサインをとるどこかのアニメキャラのような決めポーズをとった。
きゃぴるーん。そんな擬音が、ぼくの脳内で再生された。
「理事長。お戯れはそのくらいにして、本題を。十三時よりジョージ・マクレーン氏との会談が控えていますので」
ゴスロリ少女サリーの背後で、二十代前半くらいの東洋系女性が事務的な口調でそう言った。面長の凛とした顔にストレートのロングヘア、ぱりっとした高価そうなスーツがいかにもキャリアウーマンという感じだった。理事長と呼ばれたゴスロリ少女サリーの秘書か何かだろうか。
「わかってるわよ、宮美。ちょっとくらい趣味の時間を楽しんだっていいじゃない。つまんない女ね」サリーがふくれっ面でぼやいた。
宮美と呼ばれた東洋系女性(名前から推察するに日本人か、あるいは日系アメリカ人だろうか)と、一瞬眼が合った。彼女はどことなく悲しげな眼をこちらに向けていたのだが、すぐに逸らしてしまった。記憶の失う前のぼくと面識があったのだろうか。実は将来を誓いあった恋仲だったりして。
「白金機関って何だい。それはアニメか何かの、架空の組織なのかい。ここはどこなんだ。ぼくは、事故に遭ったのかい。記憶がないんだ。自分の名前すら思い出せない」
ぼくが困惑を隠さず言うと、サリーはふたたび年齢に不釣りあいな慈母の如き優しい笑みを浮かべた。両頬に刻まれたえくぼが可愛らしかった。
「あなたの名前は《パエトン》。秘密結社ヘリオスのエージェントよ」
「秘密結社ヘリオス? 何だい、それは?」
「ヘリオスは自由で平和で秩序ある世界を作ることを目的とした組織よ。そして悪の組織白金機関の世界征服の野望を阻止するために日夜戦っているの」サリーは意気揚々と胸を張り、拳を掲げて語り出した。「《パエトン》。あなたはアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに生まれ、現在二十七歳、独身。CIAエージェントの父とFBI捜査官の母を持ち、マサチューセッツ工科大学を優秀な成績で卒業。アメリカ国家安全保障局の諜報員として二年働いた後、秘密結社ヘリオスのエージェントとしてスカウトされ、現在に至る……でも、任務中にエンパイア・ステート・ビルから転落してしまったの。奇跡的に一命を取り止めたのだけれど、一切の記憶を失ってしまった」
サリーはぼくの素性を次から次へとすらすら語り出した。この少女は、なぜぼくについてこんなに詳しく知っているのだろう。彼女も秘密結社ヘリオスとやらの一員なのだろうか。
「この女性に、見憶えはあるかしら」サリーは一枚の写真をぼくに提示した。
おかしな女だった。老人でもないのに真っ白い髪をしていて眼は金色、何より印象的だったのが、その頭部からは奇っ怪な黄金の《角》のようなものが、まるで自由の女神像よろしく四方八方に伸びていること。よく見るとそれは後頭部に着けられた髪飾りであることがわかった。
しかし、見憶えはない。当然か。こんなインパクトのある女、一度見たら忘れるわけがない。いや、あるいは他の記憶とともに忘却の彼方なのかもしれないが。
「知らないな。有名な人なのかい」
「誰かに似てると思わない?」サリーはヒントを出してきた。
「ふむ」
ぼくは今一度、写真の女性の顔をじっくりと観察した。やや切れ長の眼に高めの鼻梁、美術品のように整った端正な顔立ちと、どこか人間味に欠けた石膏人形の如き純白の美肌。言われてみればこの女、何となく……そう、ぼくに似ている。
「もしかしてこの人は、ぼくの身内だったりするのかい。お姉さん、あるいは妹か」
「ご明察。彼女の名前は白金ヒヅル。元ヘリオスのエージェントにして白金機関の現総帥。そしてあなたのお姉さん」
「なんと」
ぼくは絶句した。自分の姉が世界征服を目指す悪の組織のボスだなんて、まるでどこかの小説みたいな設定だ。
「あなたは正義の組織ヘリオスのエージェント、コードネーム《パエトン》。あなたの使命は、悪の組織白金機関の野望を食い止め、世界の平和を守ること。しかし残念ながらあなたは任務中の事故で頭を強打し、記憶を失ってしまった。でも安心して。私の財団ミラクル・オラクルは、失われた記憶を取り戻す研究も行っているの。あなたの記憶も、きっと元通りになるわ」
年頃の少女のように屈託のない笑顔で、サリーはそう告げた。どう見ても十代半ばくらいの少女なのだが、財団の理事長なんて肩書を持っているあたり、本当の年齢はもっと上だったりするのだろうか、と、ぼくは暢気にもそんなことを考えていた。
「ぼくの本当の名前は何ていうんだい。サリー」
ぼくの質問に、サリーよりも先に背後にいた宮美が何かを言おうとした。が、サリーが手で制止した。
「それを知っても意味がないわ。あなたは、ヘリオスの裏切り者で世界最悪のお尋ね者《悪魔の太陽》こと白金ヒヅルと同じ姓を持っていたけれど、ヘリオスのエージェントになったと同時にあなたは表の世界では死に、白金の姓も捨て去った。今のあなたがかつての本名を名乗るのは、デメリットしかないわ。組織の中では裏切り者の弟と罵られ、社会では死んだはずの人間が黄泉帰ったことになってしまう。あなたはヘリオスの《パエトン》。それで充分だわ」
ふわふわした高音声にもかかわらず、サリーの言葉には有無を言わさぬ圧力を感じた。しかし記憶を失う前のぼくが捨て去った名前なら、無理に知る必要もないか。ぼくはそう自分を納得させた。
「これからぼくは、どうしたらいいんだい。サリー。何が何だかわからない」
「あなたには、我がミラクル・オラクルの施設で元の記憶を取り戻すための《治療》を受けながら、正義の組織ヘリオスのエージェントとして働くための訓練を受けていただきます。そして悪の組織白金機関と、最悪のテロリスト白金ヒヅルの野望を食い止めるために、今一度その才能を発揮していただきたい。引き受けていただけるかしら? 《パエトン》」
サリーはぼくに媚びるように上目遣いで懇願した。いずれにせよ、他に記憶を失う前のぼくについて知る術はなさそうだし、サリーの言う《治療》に縋る以外に道はなさそうだった。しかし……
「ありがたい話だけど、その、言いにくいんだけど、結構高価いんじゃないかね。その《治療》というのは」
ぼくが不安そうにそう訊くと、サリーは天使のように慈愛に満ちた笑顔で頭を振った。
「大丈夫よ。費用の心配は要らないわ。あなたがヘリオスのエージェントとして務めを果たしてくれれば、それで充分。むしろ私は、あなたの聖戦を全力で支援したいの。悪の組織白金機関と最悪のテロリスト白金ヒヅルさえこの世からいなくなれば、他に何も望まないわ。世界平和こそが、《我々》ヘリオスの本懐なのだから」
胸に手を当て、そう語るサリーに、ぼくは大いに感動し、感涙した。
「あなたは聖女か」
ぼくは硝子の壁にへばりつき、感激のあまりずるずると膝折れして地面に頽れた。
「あなたが世界を照らす太陽だというのならば、ぼくは喜んであなたの剣となろう。白金機関も、白金ヒヅルも、ぼくが全部、ぶっ壊してやる!」
両の拳を振りあげぼくが咆哮すると、サリーはふたたび無邪気な少女の笑みに戻り、心底愉快そうにくるくる回り、ポルカを踊り出した。
「まあ。嬉しいわ。ありがとう、パエトン。これからもよろしくね」