第七十三話「暴力」
運転中のため前方を注視しており(これでもゴールド免許保持の優良運転者)、何より宮美が拳銃を携帯しているとは夢にも思わなかったため、ぼくの《全能反射》でも対処できなかった。いくら零秒で反応できようが、完全に虚を突かれれば無意味である。
仕方なくぼくはブレーキを踏み、車を止めた。
周囲はすでに鬱蒼とした山林だった。すでに夜の十時を回り、辺り一帯を暗闇と静寂が支配している。一面平野の東京とは違い、ソウルは周辺に山が点在しているため、少し車を走らせれば人気のない山へ行くこともできる。
「しばらく見ないうちに変わったね。宮美。まさか君にそんなものを突きつけられる日が来るとは、思わなかったよ」
俳優養成校で培った演技力を総動員し、ぼくはありったけの悲しみと失望感をこめてそう言い、両手を上げた。
「ごめんなさい、ヒデルさん。でも、あなたはきっと、私を日本へ連れ戻そうとするでしょう。もしあなたが私をヒヅルさんのもとへ連れていくようなら、こうしろと」
宮美は落ち着いた口調でそう述べたが、銃を持つその手は小刻みに震えていた。
「ヘリオスのやつらにそう言われたのかい。がっかりだよ、宮美。あんな、暴力で世界を支配しようと考えてる連中と組むなんて。君が断罪したお父さんと、結局同じ道を選んだわけだ」
「あなたに、そんなこと言われたくない」宮美は悲しみと憎しみが入り混じったような複雑な表情を浮かべ、叫んだ。「信じていたのに。いや、信じていたかった。ヒデルさん。あなたは……いえ、あなたたちは、やはりあの悪魔と手を組んでいた。何か考えがあったのかもしれませんが、でも、どんな理由があろうと金暻秀のような人殺しと手を組んで、よりにもよって核兵器を作ろうだなんて、見過ごしておけなかった。真実を知ってしまった以上、あなたたちを止めなければならないと思ったのです」
「相変わらず頭の固い女だ」ぼくは心の奥底から宮美を侮蔑した。
「目的のためには手段を選ばない、あなたたちよりはマシです。ヒデルさんもヒヅルさんも、お父様と何も変わらない!」
「君だって同じ穴の狢さ。ぼくたちを止めるために、よりにもよってヘリオスに協力しているのだから。本末転倒だ」
「違う。私が協力しているのはサリーさんであって、ヘリオスじゃない。あの方は、対話による解決を模索していますよ。耳を貸さないのは、あなたたちの方じゃないですか」
「やつらが模索しているのは対話じゃない。ぼくたち、いや、全世界を屈服させようとしているだけだ。現実を見ろ。彼らは戦後の世界秩序を築いたと豪語しているが、世界は未だ無法状態だ。強者が好き放題に弱者を虐殺、あるいは奴隷のごとく搾取している。世界のために何かが必要とされている時に、君の良心や正義が何の役に立つというのだ。君とて、《完全世界》の理想に感化されたから我々の活動に協力した。そうじゃなかったのか」
「私はただ、父の過ちを止めたかっただけです。あなたたちの理想自体は、私は支持しています。でも、いくら理想のためとはいえ、どんな犯罪に手を染めてもいいとは私は思いません」
「では黙ってヘリオスの言いなりになれというのか。戦争こそがすべての犯罪を凌駕する巨悪なのだ。戦争を恒久的になくすためならば、どんな謀略活動も許される。理想は高く持つべきだが、手段はあくまでも現実的でなければならない。現実の歴史では、平和を掲げ武器を放棄した国は他国に侵略され、君のように悪に染まれぬ力なき善人こそが虐殺されてきた。人間の歴史とは戦いの歴史だ。我々は、負けるつもりはない。負けるわけにはいかない。君のような善良な人々を守るためにもね」
銃口を向けられているにも拘らず、ぼくは宮美に手を差し出した。
「戻って来い、宮美。そして姉さんの前で頭を垂れ、自己批判し、罪を詫びるのだ。ぼくが君を弁護してあげよう。そうすれば、姉さんも君を殺しはしないだろう」
「断る、と言ったら、どうするんですか」
恐怖に押し負けそうになりながらも、宮美はそう言ってのけた。彼女の手の震えがより一層大きくなっていく。余計な力が入って思わず引金を引いてしまうかもしれないが、指の動きや腕の筋肉の動きに注意していれば、ぼくの《全能反射》で弾丸を躱すことはできるだろう。最悪でも致命傷は避けられる。相手は素人だ。
「それをぼくの口から言わせるのか」ぼくはわざと表情を歪め、低い声で凄んだ。
宮美の肩が一瞬、びくりと跳ねた。
その隙にぼくは瞬時に小型自動拳銃シグ・ザウエルP230の銃身をがっちりと鷲掴みにし、スライドレバーの動作を封じた。
「あっ」いきなり急襲され、宮美は思わず声を洩らした。
「ぼくの任務は、君を連れ戻すことだ。生死問わずね」
懐から素早くワルサーPPKを抜き、宮美の顎に突きつける。形勢逆転。なお、単なる虚仮威しであり、安全装置は解除していない。
しかし戦いの素人である宮美は銃口を向けられただけで恐怖し、「ひ」と短く声を洩らした。そして観念したのか、拳銃を手放し、こちらへ渡した。
「ぼくに君を殺させるな。そんなことはしたくない」
「やめて。殺さないで」宮美は恐怖に震え、眼尻から涙を流して命乞いを始めた。彼女のそんな姿を見て、ぼくは己自身に激しい失望感を抱いた。
まったく、自己嫌悪で吐き気がする。
非力な女性を恫喝して、暴力で無理矢理従わせようとしている。
これじゃ宮美の言う通り、ヘリオスの連中と同じじゃないか。
こんなか弱い女性ひとり口説き落とせない無能のくせに、何が《人工全能》か。
だが、彼女が《完全世界》の理想の前に立ち塞がるならば、《我々》ではなくヘリオスの側に立つならば、排除しなければならない。それがぼくに与えられた任務なのだ。
「やっぱり、ヒヅルさんの命令で私を連れ戻しに来たんですね。いや。殺される。いや。いや」宮美がぼくの腕の中で喚き続けた。
「違う。ぼくが自分の意志で、君を連れ戻しに来たんだ。君が許してもらえるよう、ぼくが必ず姉さんを説得する。こんなことをしておいて虫のいい話かもしれないが、もう一度ぼくを信じてほしい。宮美。君の命は、ぼくが守る」
その言葉を聞いて、宮美はしばらく沈黙し続けた。ぼくに従い、日本へ戻るべきか考えていたのかもしれない。
「ぼくに、ついて来てくれるね」
ぼくがそう言うと、宮美は他に選択肢がないことを悟ったのか、黙って首肯した。自動拳銃を取りあげ、他にも武器を持ってないか確認した上で、ぼくは宮美の拘束を解いた。
ふたたび仲間の待機している郊外の廃工場へ向けて車を走らせると、程なくして後方から、荒っぽい運転をする車が数台迫ってきていた。
「くそ。追っ手か」
ぼくは歯噛みし、アクセルを強く踏みこんだ。急加速する車体。体にのしかかるG。
そしてぱんぱんと乾いた音とともに数発の弾丸が襲来し、車のリアガラスを叩き割った。
「頭を下げろ」
ぼくが宮美に叫ぶと、彼女は感電したかの如くびくりと飛びあがり、すぐに頭を抱えてうずくまった。
銃声はひっきりなしに続き、がつんがつんとハンマーで殴りつけたような衝撃音が絶え間なく聴こえる。
くそ、宮美がいるというのに御構いなしか。
ハリウッド映画顔負けのリアル・カーチェイスは十分以上に渡って続いた。
ハンドルはせわしなく右往左往し、ブレーキとアクセルはひっきりなしに踏み変えられ、タイヤがアスファルトに削り取られて絶叫し、宮美がダッシュボードに頭をぶつけて呻いた。
工事中の看板や三角コーンを容赦なくふっ飛ばし、逃げ惑う作業員たちにぼくはクラクションと罵声を浴びせた。
「どけどけ。死にたいか、こら」
必死だったせいか、いつもは品行方正なぼくも、チンピラ・ヤクザの如く怒鳴り散らす。《全能反射》を駆使して絶妙なハンドル捌きで作業員たちの合間を縫うように通過するも、直後にやってきた数台のベンツが放った銃弾によって、作業員たちは蜂の巣にされ、次々と轢き殺されてしまった。
がちゃん。
そのまま猛スピードで直進してきたベンツに後ろから突っこまれ、ぼくたちのジェネシスは制御不能になった。
直後、車内を凄まじい衝撃が、襲った。
道路脇の木に車が叩きつけられてしまったのだ。
車内は縦横無尽に荒れ狂い、そして前後に《圧縮》された。
「くそ」
朦朧とする意識の中で、ぼくは状況を確認した。
車は原型も残らずめちゃくちゃに変形しており、動く気配もない。
そしてふいに鼻をつんと刺激する、ガソリンの臭い。
「宮美。無事か。外に出るぞ」
「私は無事です。ヒデルさんこそ、ひ」
ぼくを見て宮美の顔が恐怖にゆがんだ。《全能反射》によって素早く宮美を抱きかかえ衝撃に備えたおかげで彼女に大きな怪我はなさそうだったが、身体中が痛い。ぼくの方はあまり無事ではないかもしれない。
どろり、と、生暖かい何かがぼくの顔の右半分を流れ落ちた。宮美の反応から察するに、頭部から大量に出血しているのだろう。
「何やってんだ、ばか。殺す気か」
聞き憶えのある低い男の声とともに銃声が三回響き渡り、敵のひとりが断末魔の声をあげて地に沈んだ。
「くそめんどくせえ」
聞き憶えのある声の主はこちらへ歩み寄り、ぶつかったショックでくしゃくしゃにひしゃげた車のドアを乱暴に蹴りつけ破壊してもぎ取り、宮美の腕を強引に掴み、乱暴に車外へ放り出した。
「おら。さっさと出てこい、もやし。死にたくねえならな」
「お前」ぼくは思わず声を洩らした。
ぼさぼさの黒髪、狂人のようにかっと見開かれた四白眼とその中心で爛々と輝く炎のように紅い瞳。
男の名は、地獄谷村正。
かつて秘密結社ヘリオスの殺し屋としてぼくたちと日本の支配権を賭けて戦った、元白金機関のエージェントだ。
ぼくは激痛に堪え、よろよろと車外へ出た。
直後、洩れたガソリンに引火したのか、御釈迦様と化したヒュンダイ・ジェネシスは、まるでハリウッド映画のように絶妙なタイミングで派手に爆発炎上した。
「両手を上げて頭の後ろに回せ」
すでに満身創痍で、さらに地獄谷に銃を向けられていたぼくに、反撃の余地はなかった。




