第六十七話「正直」
「兄貴。ちょっといい」
星子が珍しく険しい表情でこの兄を呼びつけた。
「どうしたのかな。怖い顔して」
ぼくが得意の爽やか美男子微笑ではぐらかそうとするも、星子は変わらず眉間に皺を寄せている。
「宗のこと、山の中に連れてって殴りつけたって本当なの」
「ん? 殴った? ぼくが彼を? なぜそんなことを訊くんだい。星子」
あのモヤシ野郎、星子にちくりやがったな。このぼくに直接物申すならまだしも、虎ならぬ星子の威を借るとは情けなや。そんなやつに星子を守り通せるとは到底思えぬ。
「宗のお腹に、何か痣できててさ。訊いたら、兄貴にやられたって。そうなの、兄貴」
この兄を疑るような眼差しを向ける星子を見て、ぼくは胸が痛んだ。この兄よりも、あんな男の言うことを信じるのかい。まあ、ぼくがやったんだけどね。
ここで一瞬、ぼくは星子にどう話すべきか考えた。目撃者も監視カメラもなく、情報は宗一郎の腹にできた痣と、彼自身の言葉だけ。ぼくがやったという証拠は何もない。やったやらないの水かけ論に持ちこむことはできるだろう。
でも、いくら星子に嫌われたくないからって、この愛する妹に、ただ自己保身のためだけに嘘をつくというのかい。白金ヒデル。お前はそんなちんけな小悪党に成り下がったのか。ぼくはそう自問した。
「そうだよ。ぼくが、彼を殴りつけた」
ぼくが半笑いを浮かべながらそう言うと、星子は驚いたように眼を丸くし、それから怒りと悲しみが入り混じったような複雑な表情を浮かべ、「なんで」と叫び、ぼくの肩を掴んで揺すった。
君の安全のため――そう言いかけて、ぼくは逡巡した。
宗一郎はヘリオスのスパイだ、とでも言うのか。
確証もないのにそんなことを言って、星子が信じるだろうか。
いや。ぼく自身だって、あんな情けない男が秘密結社ヘリオスの刺客なのか、疑わしく思い始めている。白か黒かと問われれば、限りなく白に近いだろう。そんな宗一郎をスパイ呼ばわりすれば、ぼくの気が狂ってしまったのではと星子を心配させてしまうかもしれない。
「彼を試したんだよ。星子。いざという時に君を守れる強い男かどうか。でも、だめだな。あいつは。君の身に危険が迫っても、真っ先に逃げ出すだろう」
臆面もなくそう言ってのけたぼくに、星子は開いた口が塞がらない様子であった。
「あたしが誰と付きあおうが勝手でしょ。余計なことしないでよ。バカ兄貴」
星子は感情を爆発させて喚き散らし、ぼくの頬を思い切り平手でばちんと叩いた。
無論素人の大振りなテレフォン・パンチ(否、ビンタ)、ぼくには防ぐことも躱すことも簡単にできた……が、敢えて何もせず、星子の怒りをありのままに、受け入れた。
「そうだね。君の言う通りさ。星子」
ぼくには、ただそれしか言えなかった。
星子はそれ以上何も言わず、派手な音を立てて扉を閉め、どこかへ去っていった。
そう。君が誰を好きになろうと、それは君の自由だ。星子。
でもぼくは、君に迫る全ての危険因子を、排除する。
たとえ君に嫌われようとね。
君の身に万一のことでもあったら、ぼくは死んだ父さんと母さんに顔向けができないし、何よりぼく自身が生きていけない。
バカ兄貴と罵られようが、二度と口を利いてくれなくなろうが、君が元気で幸せな人生を送ってくれるなら、それでいい。
「どうしたの、ヒデル様。喧嘩?」
星子と入れ替わりで部屋に入ってきた美煐が、恐る恐る訊いた。
「まあ、そんなところさ」
力なく笑うぼくに歩み寄った美煐は、ぼくの手を握ってこう言った。
「ねえ、ヒデル様。ワタシは何があっても、ヒデル様の味方だから」
美煐のその言葉は、今のぼくの心にはとても沁み入った。